「フツーの」ヘミシンク日記

ふぃなーくです。
ヘミシンク体験を中心に日常を書きつづりマス

地雷とまるの日さんの本

2016-12-02 00:00:00 | 書評
今日は新しい職場2日目。

やはり、お堅い

出版物かカタいジャンルだと社員まで固い(笑)。

オフィスはとても静かで、午後眠くなる

実は、駅から20分歩いてるのだ。

最寄り駅まで、2回乗り換えるより、

手前の駅から歩くのと時間的には変わらない。

しかし、往復3kmを歩くと腹の減り方が違う。

そして、眠くなる。

会社のエレベーターに乗る前に、セキュリティゲートを通るので、

自動改札のように身分証をスイカのようにピッと当てるのだが、

受付で毎日記帳して来客用パスを受け取るのも面倒なので、

社員用のパスはないか相談したところ、

以前誰かが使っていたものを貸してくれたのだが、

それが登録されてないようでゲートが開かない。

再度、相談したところ、総務へ言ってみるといいというので、

総務に言ってみると、「誰がコレを渡しましたか?」と変な空気…

そういえば、コイツ訳ありのコネで入社したって言ってたな。

しまったと思ったが、遅かった。

「来客用のパスを使うように。」と事務的に言われて、そそくさと退散した。

何かアレですね。人間関係というか、まだわからないので、

地雷を踏まないように注意しないといけないですね。

総務の○○へ行けと言ったあの女性も何気に…

怖いですよ。足を引っ張る習性がある人がいますのでね。

基本、みんないい人みたいなんですが、

派遣ですのでね。外部の人間なんで。

それはさておき、まるの日さんのシリーズ本を読んでいる。

「非物質ガイドとの探索①~③」である。

しんじゅさんが取り上げてて、読んでみた。

ちなみに、彼女は私にとって先生や目標ではないものの、

先達というか、道標のような存在である。

会ったことはないんですけど、ブログからいろいろと参考にさせてもらってます。

会えたらお礼を言わねばと思ってます。

この本、タイトルと中身が全然違う。

タイトルからすると、ヘミシンクの説明というか、

坂本政道氏の本のようなイメージだったのだが、

①を少し読むと、F27の先、F35くらいですかね。宇宙の話から始まる。

これは、F27まで進んでいる人じゃないと中々、ピンとこないと思う。

ヘミシンクを使ってる段階の次の段階ですかね。

なので、読んでびっくりしました。

間間に編集者が解説書いてるけど、ここは飛ばす(笑)。

ああ、こんな内容だったかと、意外でした。こりゃ売れねーわと。

普通の人からすると、もう意味不明だと思う。

③まで読み終わったら、感想書きますね。




自分探し

2016-05-31 00:00:00 | 書評
みなさん、おはようございます。

珍しく書評ですが

上手く説明できるかな…(汗)

先日、宮元啓一のインド哲学の本

「インド哲学の教室」

「インド哲学七つの難問」

「ビックリ!インド人の頭の中」

などを読んだんですが

「自己」とは何か

ということについて、誤った認識があったことに気づきました。

気づいただけでなく、

何か肩の力が抜けて、楽になった感があります。

これまで仏教の唯識論に感銘を受けてたんですが

どこか神秘的な部分がありまして、

唯識論というのは、自己というのは無く(無我)、

ただ、意識のみがあるという哲学ですが

論理的には説明できない矛盾があり

結局は、意識というのは自己に他ならないということになります。

詳しくは著作を読んでいただくのがいいかと思いますが

ヤージュニャヴァルキヤの自己一元論によると

自己は認識主体であって

認識手段でも認識対象でもない

したがって、

自己を認識対象とすることはできない

この世の全ては認識対象として実在する

認識手段とは心や意識、五感であり、これも実在する

すなわち、認識主体である自己はこの世に実在せず、世界外にある

自己は自律的に存在し、自己回帰的な存在である

自己は普遍、不変だが

認識手段、認識対象は無常

この哲学を理解した時、ヘミシンクの知識とつながって、

スッキリしました。

インド哲学の自己はアートマンといい、

ヘミシンクのハイアーセルフと同じ存在です。

「自分の○○」という時

物の場合は実在するのでわかりやすいですが

自分の心、意識という時に

その「自分」はどこにあるか?

というのを理論的に突き詰めていくと上記の結論になるといいます。

そして、この世の全ては無常(常に変化する)だが

心、意識を本当の自分だと錯覚することで

苦しみが生じるのであり

心、意識は認識手段に過ぎず

無常の存在だと分かれば

苦しみもまた無常と分かり、消えていくわけです。

なぜ錯覚してしまうのか

それは、自己は認識対象とはならず、認識主体であるので

認識手段である心、意識というフィルターを必ず通して世界を認識しますが

心、意識も認識対象となりうるので

どうしても錯覚してしまうのです

ただ、インド哲学的には自己は認識できない存在と紀元前に証明されていますが

宗教家からは瞑想によって認識できるという説があり

ヘミシンクでもできるわけなので、その通りだと思いますが

認識できなくても、本当の真実の永遠の自分(自己)は心、意識ではなく、別世界にあると分かれば、

そして、この世界の物、自分の心、意識、身体は常に変化し続ける存在であり

執着する存在ではないと分かれば

何か、軽くなりませんか?

ブッダや西洋哲学についても分かりやすく書かれているので

ヘミシンクをしている方にもおすすめです。