みなさん、おはようございます。
珍しく書評ですが
上手く説明できるかな…(汗)
先日、宮元啓一のインド哲学の本
「インド哲学の教室」
「インド哲学七つの難問」
「ビックリ!インド人の頭の中」
などを読んだんですが
「自己」とは何か
ということについて、誤った認識があったことに気づきました。
気づいただけでなく、
何か肩の力が抜けて、楽になった感があります。
これまで仏教の唯識論に感銘を受けてたんですが
どこか神秘的な部分がありまして、
唯識論というのは、自己というのは無く(無我)、
ただ、意識のみがあるという哲学ですが
論理的には説明できない矛盾があり
結局は、意識というのは自己に他ならないということになります。
詳しくは著作を読んでいただくのがいいかと思いますが
ヤージュニャヴァルキヤの自己一元論によると
自己は認識主体であって
認識手段でも認識対象でもない
したがって、
自己を認識対象とすることはできない
この世の全ては認識対象として実在する
認識手段とは心や意識、五感であり、これも実在する
すなわち、認識主体である自己はこの世に実在せず、世界外にある
自己は自律的に存在し、自己回帰的な存在である
自己は普遍、不変だが
認識手段、認識対象は無常
この哲学を理解した時、ヘミシンクの知識とつながって、
スッキリしました。
インド哲学の自己はアートマンといい、
ヘミシンクのハイアーセルフと同じ存在です。
「自分の○○」という時
物の場合は実在するのでわかりやすいですが
自分の心、意識という時に
その「自分」はどこにあるか?
というのを理論的に突き詰めていくと上記の結論になるといいます。
そして、この世の全ては無常(常に変化する)だが
心、意識を本当の自分だと錯覚することで
苦しみが生じるのであり
心、意識は認識手段に過ぎず
無常の存在だと分かれば
苦しみもまた無常と分かり、消えていくわけです。
なぜ錯覚してしまうのか
それは、自己は認識対象とはならず、認識主体であるので
認識手段である心、意識というフィルターを必ず通して世界を認識しますが
心、意識も認識対象となりうるので
どうしても錯覚してしまうのです
ただ、インド哲学的には自己は認識できない存在と紀元前に証明されていますが
宗教家からは瞑想によって認識できるという説があり
ヘミシンクでもできるわけなので、その通りだと思いますが
認識できなくても、本当の真実の永遠の自分(自己)は心、意識ではなく、別世界にあると分かれば、
そして、この世界の物、自分の心、意識、身体は常に変化し続ける存在であり
執着する存在ではないと分かれば
何か、軽くなりませんか?
ブッダや西洋哲学についても分かりやすく書かれているので
ヘミシンクをしている方にもおすすめです。
珍しく書評ですが
上手く説明できるかな…(汗)
先日、宮元啓一のインド哲学の本
「インド哲学の教室」
「インド哲学七つの難問」
「ビックリ!インド人の頭の中」
などを読んだんですが
「自己」とは何か
ということについて、誤った認識があったことに気づきました。
気づいただけでなく、
何か肩の力が抜けて、楽になった感があります。
これまで仏教の唯識論に感銘を受けてたんですが
どこか神秘的な部分がありまして、
唯識論というのは、自己というのは無く(無我)、
ただ、意識のみがあるという哲学ですが
論理的には説明できない矛盾があり
結局は、意識というのは自己に他ならないということになります。
詳しくは著作を読んでいただくのがいいかと思いますが
ヤージュニャヴァルキヤの自己一元論によると
自己は認識主体であって
認識手段でも認識対象でもない
したがって、
自己を認識対象とすることはできない
この世の全ては認識対象として実在する
認識手段とは心や意識、五感であり、これも実在する
すなわち、認識主体である自己はこの世に実在せず、世界外にある
自己は自律的に存在し、自己回帰的な存在である
自己は普遍、不変だが
認識手段、認識対象は無常
この哲学を理解した時、ヘミシンクの知識とつながって、
スッキリしました。
インド哲学の自己はアートマンといい、
ヘミシンクのハイアーセルフと同じ存在です。
「自分の○○」という時
物の場合は実在するのでわかりやすいですが
自分の心、意識という時に
その「自分」はどこにあるか?
というのを理論的に突き詰めていくと上記の結論になるといいます。
そして、この世の全ては無常(常に変化する)だが
心、意識を本当の自分だと錯覚することで
苦しみが生じるのであり
心、意識は認識手段に過ぎず
無常の存在だと分かれば
苦しみもまた無常と分かり、消えていくわけです。
なぜ錯覚してしまうのか
それは、自己は認識対象とはならず、認識主体であるので
認識手段である心、意識というフィルターを必ず通して世界を認識しますが
心、意識も認識対象となりうるので
どうしても錯覚してしまうのです
ただ、インド哲学的には自己は認識できない存在と紀元前に証明されていますが
宗教家からは瞑想によって認識できるという説があり
ヘミシンクでもできるわけなので、その通りだと思いますが
認識できなくても、本当の真実の永遠の自分(自己)は心、意識ではなく、別世界にあると分かれば、
そして、この世界の物、自分の心、意識、身体は常に変化し続ける存在であり
執着する存在ではないと分かれば
何か、軽くなりませんか?
ブッダや西洋哲学についても分かりやすく書かれているので
ヘミシンクをしている方にもおすすめです。