ASIAN KUNG-FU GENERATION 『君という花』
薬師丸ひろ子 Woman Wの悲劇
LÄ-PPISCH MAD GIRLS(LIVE)
何年か前に書いたやつです。少し直して再掲いたします。
八時半の女
思うに我が家の黒芝コロくんは、基本的に人間嫌いなのだ。
その根拠は、人間とみればのべつ幕無し吠えるし、ケージに近づいてきた無垢な3歳児を、激しく吠えて泣かしたりするからだ。
勿論、飼い主である私には少しは気を許してくれているが、それでも機嫌が悪い時に近づくと吠える。
これを人間嫌いと言わずして何と言おう。
そんな気の荒いコロであるが、実はまったく人間を寄せ付けない訳ではない。
ごくたまににであるが、ある特定の人間をコロは引き寄せ、受け入れる。
心に大きな悩みを抱えているものであったり、孤独であったり、ともかくそんな人間たちをコロは引き寄せる。
彼らはみな心の安寧を求めてコロに近寄り、語るだけ語ると満足してまた自分の帰る場所に戻ってゆく。
私は彼らのことを”コロのマブダチ”と呼んでいる。
今回はそんな”コロのマブダチ”だった日菜子ちゃんのちょっとした物語について語ろうと思う。
日菜子ちゃんに初めて会ったのはいつ頃であろうか?
恐らく3年ほど前だったと思う。
その日私と妻は親戚のお通夜に呼ばれた。そして長時間の拘束に疲れ、夜八時を過ぎた頃だったかやっとの思いで家まで帰って来て、玄関のドアノブに手を掛けたときっだった。
コロがなにやら激しく吠えているのが聞こえた。
ああ、そういえばコロの夕食がまだだったなと思い出し、私は礼服のままコロがいる庭の方に回った。
コロ、悪いな、メシ、今用意するからなといいながら数歩ケージに近づくと、ケージの向う側でしゃがんでコロの方をみている人影があった。
「誰?」
私がそういうと、人影は顔だけこちらを向け、私に笑いかけてきた。
「私が誰だかわかりますか?」
そう突然問いかけられて私はあわてた。なにしろ人影の正体はまだ20前後の若い娘だったからだ。
私の繋がりにそんな若い娘はいない。せいぜい姪か会社の事務の女の子だ。
私が考えあぐねていると、彼女はまたニコっと笑い、立ちあがった。
「嘘。分かるはずないですよね、だって初めて会ったんだもの」
「・・・初めて」
「そう、初めて。・・・・でも母はあなたをよく知っているわ」
「お母さん?」
「そう、3丁目のM原」
そう言われて私はハタと思い出した。
たしか何年か前に、中学生のときの同級生が3丁目に移ってきたということを母から聞いたことがある。
3丁目は隣の地区であるが、出不精で我関せずの私はずっとその事実を確かめようとはしなかった。
「また来ていいですか?」
「えっ」
「私、日菜子っていいます」
「・・・・・」
「ずいぶん前から気になっていたの。学校の行き帰りにこのうちの前を通ると吠えられて、・・・でも一度そのワンちゃんとお話してみたいなって」
「・・・・・」
「また来ます。今日は吠えられちゃったけど、次からは吠えられないようにするわ」
彼女はそう言い残すと、庭沿いの道に出て「じゃあね」と3丁目の方向へ駆けて行ってしまった。
それから彼女は定期的にコロのもとに現れるようになった。
毎週水曜日、夕食後私たち夫婦がテレビを観ながらゆったりしていると、決まって8時半にコロがけたたましく吠える。
私が庭に下りてゆくと、彼女は「また吠えられちゃった」と舌をだす。
それを毎週懲りもせず彼女は繰り返すのだ。
私は秘かに彼女のことを8時半の女と呼んでいた。そしていつのまにやら毎週の彼女の訪問を私の方が心待ちにするようになっていたのだった。
ある時、恐らく10回目くらいの彼女の訪問日であろうか。
いつものように私は彼女の訪問を心待ちにしていた。
でも8時半になってもコロは吠えなかった。9時近くになっても同じだった。
私は待ちきれなくなり、廊下に出、サッシを開け、突っかけを履き庭に下りていった。
ケージに近寄ると、側でしゃがんでいる日菜子ちゃんがすでに居た。
私は彼女のもとに行こうとしたが、途中で躊躇して立ち止まった。
彼女の目に光るものを見たからだ。
コロは吠えもせず、彼女をただじっとケージの隙間から彼女を見守っていた。
「あ、Tさん」
日菜子ちゃんは私に気が付くと涙を隠して下を向いた。
「吠えなかったね」
「うん、やっと私のこと認めてくれたみたい」
「ねえ、入口を開けて頬をコロの方に近づけてごらん」
そう言われた彼女はゆっくりとケージの入口を開き、左の頬をコロに向けた。
するとコロは鼻先を伸ばし、まるで涙の跡を消すように丁寧に彼女の頬を舐めだした。
「くすぐったい」
「でも優しいだろ」
「うん、優しい」
「こいつは気性は荒いけどほんとは優しい奴なんだ」
「うん、わかる」
日菜子ちゃんは一通り両方の頬を舐めてもらうと、いつもの笑顔を私に向けた。
そして、気を取り直したのか自分の両手で頬を軽く叩き、立ちあがった。
「さてと、Tさん。私帰るね」
「ああ、おやすみ。またな」
「おやすみなさい」
彼女は庭から道に出て、2,3歩歩み始めたところで振り返った。
・・・・振り返って、こう言った。
「母は中学時代ずっとTさんのことが好きだったんだって」
思ってもみない、突然の代理の告白に私は狼狽した。狼狽して咳が出た。
「じゃあ、また来ます!」
日菜子ちゃんは私の様子を面白そうに窺うとまたくるりと回り、3丁目の方向に駆けて行った。
その日を境に日菜子ちゃんはコロのもとに現れなくなった。
何故だろう?
それでもまた来るだろうと私は、最初の2か月くらいまでは水曜日の8時半を期待していたのだが、彼女が現れることはなかった。
私は落胆した。
落胆して彼女のことは”ただのきまぐれだったんだろう”と思うことにした。
そしていつしか彼女のことを忘れかけたころに妻が風の噂をひろってきた。
「M原さんとこ離婚したんだって。コロのところに来ていた日菜子ちゃんって言ったっけ?、その子と奥さん出て行ったみたいよ」
妻の言葉に私は驚いた。
驚いて、ああ、あの涙の訳はそういうことだったのかと合点した。
私は庭に下り、コロのもとに行き、ケージの入口を開け、目の前にいる彼に語りかけた。
お前はあの日、なにもかもわかっていたんだな。
ずるいぜ・・・・。
私はコロの喉元を撫で、それから彼の身体を優しく抱きしめた。