うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

迷走のバター

2005年10月02日 | ことばを巡る色色
私の迷走。大人と子にまつわる、私の迷走。
せっかく読みにきてくださったのに、私はぐるぐる回ってバターになってしまいそうです。
kenさんから頂いたコメント
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うさとさんの筆者としての立場は、例えば次のうちのどれに該当するのでしょうか。
・親としてこういう経験をした
・子供の頃、こういう経験をした
・こういう親を身近に(または新聞記事などで)知っていて、問題を感じている
・こういう子供を身近に(または新聞記事などで)知っていて、問題を感じている
・こういう親子関係に共感する(または同情する)
・子供を育てるなら、こういう親でありたい/ありたくない
・こういう問題を感じるから、子供を育てたくはない
・自分は子供だ
・その他
(親という語は、大人と読み替えていただいても構いません。)
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身にしみております。私が迷走していた理由は、多分、これらを書かずに、考えを述べることはできないのだろうかと思ったところから発しているからです。そうして、前回の記事を書きながら、「やっぱり、これらを書かずに述べるだけの技量が私にはない」と痛感していました。
また、
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前の記事で、コメントを書いているみなさんが、なんらかの形で、自分の立場を表明しているのに対し、うさとさんだけが、立場をはっきりさせず、または複数の立場を混同させながら、言葉を連ねているように見受けられるのです。
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というkenさんの指摘に、自分の卑怯な回避が、迷走を深めているのだなっと思っています。みなさん、ごめんなさいね。

私の心の中には、暗い部屋の中でひざを抱えてうつむく少女がいます。大人になった今も、その子は変わらず、私の中でひざを抱えています。それは私です。
(母には私たちを守る力がなかった)というコメントを書いてくださった方がいます。私もそうやって育ったのだと思います。少なくとも、子の私を守るより、自分を守ることで精一杯な親だったのだろうと思います。そんな時子どもは、自分で自分を守り、「親の親」になってやらざるを得なくなります。「大人」であるほうが「親」をやらなければならないのですから、「親」が自分を守れない人ならば、子どもがその親を「かわいそうに」と思ってやらなければ、家族としては成立しなくなってしまいます。それができなければ、家族を捨てるしかないのですから。
誤解を恐れずに言うのなら、私は、「少女の私」が、かわいそうでなりません。今も時々、少女の私の境遇に、涙を流すことがあります。ほかに誰も、「かわいそうに」と言ってやれる人がいないのだから、こうやって、無事に生き延びて大人になった私が、少女の私に「かわいそうに」と言ってやって、泣いてやって、何が悪いんだろうと思います。あの子を幸せにしてやりたいと思います。しかし、過ぎてしまった時を戻すことはできません。もう一度幸せな子ども時代を送ることはできないし、私を守るだけの力のなかった親に恨み言を言っても、何の意味もないことです。弱い人が弱いのは、その人のせいではありません。それに、家族というのは、自分を満たしてくれぬ恨みと、その相手からの愛を求める心という真逆な感情がいつもくるりくるりと翻っているものです。恨みながら愛し愛されたいと願う。恨んでいないけど、恨んでいる。愛されなくてもいいけど、愛されなくてはならない。そんな宙ぶらりんに私はいました(今も少しはそうかもしれません)そんな気持ちを言えぬままに大人の年になった私は、どこかで大人の私も、子どもの私も満たされることを求めています。心のどこかで、thirstyな気持ちを持っています。ノドがカラカラなのです。子どものときの自分を大人の自分が幸せにしてやりたいと思う気持ちが、おかしい、わからないとおっしゃる方がいらっしゃるかもしれないけど、それが私の正直な気持ちなのです。私を守れなかった私の親を、「親」であるがゆえに恨めない私は、その気持ちをどこにもっていけばいいのか。憎むとか恨むとか、泣き言を言うとか、そんな非生産的なことではなく、何をすれば私の満たされなかった気持ちはおさまっていくのでしょう。
私は本当は、大人になっても、それを過去のこととして清算できていないのかもしれません。だから、こんなにも、迷いながら書いているのかもしれません。「まるで仕返しのように、ちゃんと生きようとしているね」と言われたことがあります。でも、そういう私が今日も生きている。逃げたいけど、逃げず、恨みたいけど、恨まないようにしようと生きている。謝ってほしいのかもしれない。かわいそうなことをしたねと言って欲しいのかもしれない。しかし、そんなことで欠けている部分が埋まらないことも知っている。そうして、年老いていく親に、求めるものはもう、ない。でも、私は私の人生の中で、この欠落を埋めなければならない。死なないで、まっすぐ前を向いて、かわいそうな少女の私のために埋めなければならない。
私の立場はなんだろう。きっと、大人でもなく親でもなく子どもでもなく。傷ついた子どもとして大人になった私という立場。そうして、それを忘れられずにいるという立場。
傷ついた子を見ると、自分のことのように、きりきりと痛い。交通事故をした後、同じような場面にあうと頭の端がぴりぴりするようになるけど、それと似ている。一人の部屋にうずくまる少女の私をつらい目にあわせているような変な気分になる。自分と他人の区別が薄くなる。だから、何かを言いたい、それが、私を救うことでもあるから。
できれば、小さい人若い人にはこういう思いをしてほしくない。明るい未来だけを見てほしい。燦燦と降り注ぐ陽のあたる未来を思い描いてほしい。少なくとも、恨みながら愛を求めるというようなことにはなってほしくない。何の逡巡もなく、大人を捨てて未来に向かって歩いていってほしい。喜んで捨てられよう、そのためだったら。
今までに会った子どもたちに、私は何かができたろうか。もっと、何かができたのではないのか。私こそが、彼らに声をかけるべき人ではなかったのかという自問が私の中にはある。こうやってここにいる私に与えられた役目ではないのかという、焦燥がある。
きっと、やさしい子は、親を捨てることに罪悪感を抱くだろう。だめな親でも、彼はいつもそのだめな親に愛されることを夢見ているだろう。切ないことだと思う。与えられぬつらさに、親を恨む自分に嫌悪を抱くことだろう。でも、自分を責めることはないよと、誰かが言ってあげなければならないんじゃないんだろうか。そうでなければ、その子までだめになってしまわないか。そういうことを、私が言わなければいけないのではないのか。
心の中の子どもの私が、「なんで、言わないの」と、大人の私に問う。
消したくて、忘れたくて、ここまで来たけれど、どうやら、そんなことは私にはできないらしい。だから、私は言わずにおられない。

本シリーズは、ここで終わりです。お読みくださった方もお疲れでしょうが、私もどっぷり疲れました。申し訳ありません。ありがとうございました。でも、違う形でまた、書くことになるとは思いますが(またいつか、です。すみません。)
コメント (17)
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a child in the room

2005年10月02日 | ことばを巡る色色
暗い部屋の中で、ひざを抱え、一人うつむく子がいる。
わたしは尋ねる。
今のわたしは間違っていない?わたしはあなたが嫌いなことをしていない?

人はなぜ、悩んだり、つらい思いをするんだろう。
それはきっと、みんな、愛されたり、わかってもらったりしたいためじゃないかな。
夜中に騒音を立てて走り抜けていくあのバイクの少年も、道で殴りかからんばかりに誰彼かまわず毒づくあの青年も、長いこと自室にこもって親への恨み言を駆り返すあの子も、怪しいサイトで知った男にお札を握らされているあの子も。会社にいけなくなって公園に座ってるおじさんも、キッチンドランカーの主婦も。
はじめに有ったのは、もっと愛され、もっとわかってもらいたいということではなかったのか。
「愛」なんて書くのは、とても恥ずかしくって、陳腐だけれど、でも、本当はそういうことじゃないのかな。
「拒絶する心」は、「受け入れらることを求める心」から発しているというパラドクス。


大人も子どもも、心の底でそれを求めていて、満たされたいと願っている。ただ、大人はその心に折り合いをつけ、やっていくべき人だ。なぜなら、大人は「やめること」「違う場所に行くこと」ができる人たちだからだ。
大人は動物で、子どもは植物のようだなって思う。動物はそこに餌がなければ、餌があるところに移動ができる。でも、子どもは動けない。光や水が注ぐのをその場所で待っていなければならない。大人は引っ越したり、会社を辞めたり、離婚したりできるけど、子どもは一人では学校を辞めたり、違う親の子になったり、一人で部屋を借りたりできない。その点でわたしは「寄る辺ない存在」だと思う。
大人も子どもも愛を求める気持ちは同じだけれど、大人が子どもに求めるとき、それは子どもに重くのしかかる。「こんなに一生懸命あなたのためにやっているのにどうしてわからないの」「親だって、いやなことはあるんだから、わかってよ」「大人に向かって、その口のきき方はおかしい」「それがいやなら出て行きなさい」「親の気持ちもわかってね」というようなことは、どこかで、子どもの愛を求めてはいないだろうか。(当然、家族の有り方はいろいろなので、これらが全て、子どもに愛を乞うものでないことも多いとは思うが。)
大人は子どもよりは世慣れているので、うまく口に出すが、その底に、自己愛が勝つ気持ちがありはしないのか。「殴る」という行為にも、そんな子どもへの甘えがあるように思えてならない。「もっとわたしのことわかってよ」という気持ちがありはしないのか。
「子ども」の中の少なからぬ者たちはそれに耐えられない。「植物」な彼らはどこにも逃げていけないし、物理的には何もリセットできない。そんな人たちに、「大人」が愛を乞うのは、卑怯な仕業だとわたしは思う。「出て行けない」「殴り返せない」「期待に応えられない」子どもに、それは重すぎる。
悲しいことだけれど、世の中には、「愛を与える」のでなく、「愛を求める」大人が多く存在する。そんな中で、子どもは疲れ果てたり、自暴自棄になったり、さまよったりする。それが大人にはなかなかわからない。自分は子どものためにやっているし、わたしだってつらいんだし、と思ってしまうから。子どもが子どもである期間はそんなに長くはないのに。すぐに一人で動けるようになるのに。
「愛を求められた子」はどうなるだろう。動けぬ植物の身を持ちながら、心だけは大人になり、親の要求を聞き、いい子になって、「愛を与える」側を演じるかもしれない。いわゆる不良行為に走り「求められる」立場から降りようとするかもしれない。そうして、「愛を求める心」が宙吊りになる。満たされぬ思いを抱いて、「大人」になる。「大人」になった子どもたちは、自分の子に愛を求めるかもしれない。わたしはこんなにつらいから、わかってねって思うかもしれない。でも、そのメビウスの帯は、どこかで正しく繋ぎ直されるべきだと思う。
だから、わたしは問いかける。
本当は、思っている。子と接するなら、「大人」になりなさいと。やせ我慢でも、いい。心の中は子どものままで、愛されたいと思っていてもいい。ただ、子の前に立つとき、「与える人」になってほしいと。そうしてそれだけが、「大人」にとって満たされ、与えられることであると。「与えられる」ことだけが、満たされることではない。「大人」のあなたは、「与える」ことが満たされる方法である。降ってくるのを待っているのは、植物の仕事だ。だから、あなたは与える大人になってほしい。
(このシリーズ、わが道独走ですが、走れなくなるまで、書くしかないという気持ちです。走り終わったら、またもとの道に戻るつもりです。また、いろいろに読まれるのもいいなっと思っています。)
コメント (9)
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