うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

酔ひて候

2005年10月16日 | ことばを巡る色色
酔い方にはいろいろある。くだを巻くもの、説教師になるもの、脱いでしまうもの、殴りかかるもの、太鼓もちになるもの、何がおかしいのか笑い出すもの。とりあえず、先に酔ってしまった者が勝ちである。周りのものは、観覧者、もしくは介護者になるしかない。とりあえず、なだめすかし、まあまあと言い、話が穏便な方に向かうようにする。あまりに、面倒な酔人の場合、他人の振りをして、そっと席を離れたり、「おうおう大変なことになっていますね」と傍観するか、であろう。
何はともあれ、酔っている者本人は気持ちがよい。しかし、酔い遅れた者は、みるみるうちに酔いが醒めてしまう。

言葉を出すこと、表現することは、「酔うこと」に似ていると思う。それが文字で書かれたものであれ、声に出されたものであれ。書きながら、語りながら自らの言葉に酔っていく。
本人は、自分がどれだけ酔っているのか、なかなかわかりにくい。酔えば酔うほど、「酔っている自分に酔う」という厄介なものだ。周りのものは、取り残されて、「酔い人劇場」を見せられることになる。
語る人の「酒」はさまざまである。自分の技量だったり、ご自慢の品だったり、経歴だったり、家族だったり、それはもう、ありとあらゆる「その人の持ち物」が酒となりうる。
読まされ、聞かされるほうは、その「内容」でなく、その人の「酔い」を見せられる。
観客は、仕返しに殴り返したり、優しくなだめたり、知らぬ振りをしたりして通り過ぎるのだが、なかなか、語る人には「酔い」の自覚がない。独走である。
言葉を出すことの恐ろしさは、そこにある。知らぬうちに、言葉に酔いどれている。自分の語ることに浸っている。特に、何らかの「持ち物」を持っている人は、あぶない。「上手い」歌い手が、自分の歌声に酔ってしまい、やたらとコブシをまわしたり、サビを盛り上げすぎて、急につまらない歌しか歌えなくなってしまうのと同じだ。「上手い」ということは、「いい」に似ているけれど、決定的に違っている。「いい」はこころにまっすぐに飛んでくる矢である。「酔った射手」にはけして射れぬ矢である。


酔っていてかわいらしい人もいる(ただし、酔ってかわいい人は、酔わなくてもかわいらしい人なのだが)。酔わなければ言えないこともある。酔った振りをして言うという、「手」もある。
しかし、大人の諸兄諸姉は、シラフで語ったほうがよかろう。いつも酔っている大人は、重ったらしく、いやなにおいがする。たまに酔うから、かわいげもあるってものだ。
コメント (8)
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