さて、平家側の守備・攻撃陣であるが、鵯越の先・丹波路は資盛を大将に有盛、師盛、忠房を副将として兵2千で柵を築き、生田川の口は知盛を大将、重衡を副将に6千の兵にて力を注いだ。鵯越の道は越前三位通盛、越中前司盛俊、若狭守経俊が3千の兵で守るのである。一の谷では薩摩の守忠度、忠光、景清、景経、敦盛らを有して控えさせ、海上には残る1千の兵が待機している。 これに対して源氏方は、さきの宇治川での義仲との戦いで傷つき、疲れた兵を含めてわずかに3千である。源氏の勝算は一の谷での背後からの奇襲攻撃もあるが、後白河法皇とのだまし討ちにあった。この時院から平家方へ、入道清盛の命日をはさむことを理由に1週間は攻撃をせずに大江山で待機する旨の連絡があった。また、和議も考慮にいれているとのことである。平家方の雑兵は和議の噂に喜び、鎧・兜を緩めがちに休憩するのである。ところが実はすざまじい勢いで、義経軍は大江山から丹波路を突破し一の谷の間近まで迫り、範頼軍も生田の口から福原へ攻め入ろうと進んでいたのである。平家本陣が油断しているとき、丹波路に柵を築いていた資盛大将以下有盛、師盛、忠房副将は義経軍に破られ、からくも丹波路から高砂を経由して屋島へ逃げていた。義経の、奇襲を悟られまいとする追撃が屋島へ追いやったのである。かくして義経は400騎を従えて、鵯越を逆落としに駆け競った。この前夜、通盛の兵は鵯越の途中を教経は西国街道の辻を守っていた。義経がこの二陣を突破して駆け抜けたときには時遅く、和議が偽りであったことに気付くのであった。軍の数においては圧倒的に平家の有利であったが、地勢と時の心理においては源氏方が有利であることはゆうまでもない。教経の薙刀「龍炎」もむなしく、兄・三位通盛卿のみしるしは、元三位の家臣である木村源吾俊綱に討ち取られていた。また、清盛の側近であった盛国の息子・越中前司盛俊も義経の騙まし討ちに驚き、東国の猪俣小平六則綱に落ちている。
兵庫県の南部には平家の落人伝説が多く存在します