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平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

新・平家物語 第28話 義経軍の追撃

2012年11月25日 | 平家物語

 さて、平家側の守備・攻撃陣であるが、鵯越の先・丹波路は資盛を大将に有盛、師盛、忠房を副将として兵2千で柵を築き、生田川の口は知盛を大将、重衡を副将に6千の兵にて力を注いだ。鵯越の道は越前三位通盛、越中前司盛俊、若狭守経俊が3千の兵で守るのである。一の谷では薩摩の守忠度、忠光、景清、景経、敦盛らを有して控えさせ、海上には残る1千の兵が待機している。 これに対して源氏方は、さきの宇治川での義仲との戦いで傷つき、疲れた兵を含めてわずかに3千である。源氏の勝算は一の谷での背後からの奇襲攻撃もあるが、後白河法皇とのだまし討ちにあった。この時院から平家方へ、入道清盛の命日をはさむことを理由に1週間は攻撃をせずに大江山で待機する旨の連絡があった。また、和議も考慮にいれているとのことである。平家方の雑兵は和議の噂に喜び、鎧・兜を緩めがちに休憩するのである。ところが実はすざまじい勢いで、義経軍は大江山から丹波路を突破し一の谷の間近まで迫り、範頼軍も生田の口から福原へ攻め入ろうと進んでいたのである。平家本陣が油断しているとき、丹波路に柵を築いていた資盛大将以下有盛、師盛、忠房副将は義経軍に破られ、からくも丹波路から高砂を経由して屋島へ逃げていた。義経の、奇襲を悟られまいとする追撃が屋島へ追いやったのである。かくして義経は400騎を従えて、鵯越を逆落としに駆け競った。この前夜、通盛の兵は鵯越の途中を教経は西国街道の辻を守っていた。義経がこの二陣を突破して駆け抜けたときには時遅く、和議が偽りであったことに気付くのであった。軍の数においては圧倒的に平家の有利であったが、地勢と時の心理においては源氏方が有利であることはゆうまでもない。教経の薙刀「龍炎」もむなしく、兄・三位通盛卿のみしるしは、元三位の家臣である木村源吾俊綱に討ち取られていた。また、清盛の側近であった盛国の息子・越中前司盛俊も義経の騙まし討ちに驚き、東国の猪俣小平六則綱に落ちている。

兵庫県の南部には平家の落人伝説が多く存在します

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新・平家物語 第27話 一の谷の合戦の火蓋

2012年11月24日 | 平家物語

 平家は屋島から大軍を率いて福原から一の谷までの3kmにおよび、海上には数千の軍船を浮かべている。源範頼、梶原景時は平家の総勢3万、源氏洛中の兵は3千ということで、ここは時を待ち、鎌倉からの援軍と合流して平家追討を提案した。ところが義経は今がその時と妙案を携えてでた。源氏の武将を説得し、院の許しを得ると、さっそく3千騎は大江山に陣を構えて平家の動きの詳細をつかんでいた。一軍は範頼を大将として摂津の伊丹から西宮を抜けて生田川への平野を進む2千騎。また義経率いる1千騎は、丹波路を篠山、小野と進み鵯越から敵地の真上へ襲いかかろうというのである。畠山次郎重忠、土肥実平などは、梶原景時を何故か嫌っていただけに、軍艦景時のいない二陣に嬉々としていた。このとき平家の若武者・敦盛(清盛の弟・経盛の三男)は洛の暗がりにただ一人で忍び入っていた。右大弁宗親の姫君の舘へ近づき、尽きぬ名残を語り合い、つい二夜ともなった。右大弁宗親はかねてより平家と源氏が共存できないものかと考えていたお方である。その頃屋島の本拠地では平家総勢が生田、輪田をめざして船出陣をするさなかであった。ところが教盛の三男・敦盛が失踪したという。 臣下には命を捨てて戦に望め、といっているだけに、身内の者が失踪し、教盛は激怒し敦盛を勘当し、船出したのであった。 しかし兄・経正は弟を信じていた。かくして、敦盛は忠度に背を推されて、二の尼の後陣として船出したのである。播磨の室津(姫路の西)には平家の軍船が無数にはいっていた。時に、入道清盛の命日にあたるこの日は法要が営まれる巨大な船では、清盛が好んだ弦が奏でられた。建礼門院は琴を、薩摩守忠度は笙、門脇中納言教盛はひちりき、三位中将重衡は鼓、修理太夫経盛の嫡子・経正は琵琶、弟敦盛は笛という具合である。

 1184年元暦元年二月七日、一の谷の合戦の火蓋はこの神戸、三宮神社付近で始まった。源氏方のさきがけとなったのが、この河原神社に祀られる河原兄弟であった。先陣をなした河原兄弟であったが、この地にて討ち死にする事となる。また、平氏方の平知盛(清盛四男)と平重衝(清盛五男)は生田の森に布陣し、正面の敵主力・源範頼相手に一歩も退かない戦いぶりを見せた。 神戸、かつての福原は平清盛が一代で築き上げた拠点である。1180年まで、ここに都があったが京都に移された。宋船も入ることのできるように造られた港は平家の力を示すものであった。都落ちの際、平家は泣く泣く福原にも火を掛けるのだが、今平家はまさに都へ上らんと、軍勢をそろえて、平家の都福原に舞い戻ってきたのだった。山と海にはさまれた福原、一の谷は難攻不落の要害でもある。 まさに、合戦のスポットでもあったのです。 この生田神社付近には、平家の生田方面の本陣があった。生田の森には、大将軍平知盛ら平家方の名だたる武将が布陣していた。 後白河法皇と和議の話などがあり、平家方には少し油断があった。それでも、この一の谷の城郭は山と海にはさまれた難攻不落の要塞であり、平家方には源氏との戦いに備えていた。まさか、義経の鵯越があるとは知らずに・・・。

河原太郎高直(兄)と河原次郎盛直(弟)を祀る三宮神社

 

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新・平家物語 第26話 常盤御前の果て

2012年11月23日 | 平家物語

 源氏の大将として宇治川での初陣に勝利した義経は立派そのものである。かつて鞍馬から金売吉次のてびきで白拍子の一帯に身を潜め、龍胆という名の頃とは大違いである。金売吉次はその勇姿を見ようと洛入していたときに、麻鳥と偶然であった。かつて、義経の母・常盤御前の雑仕女として仕えていた蓬は、良人、阿部麻鳥とともに嵯峨野の田舎へ引越しをしていた。保元の乱から20年間、讃岐院と呼ばれる崇徳上皇に仕え水守をしていた麻鳥は医者のかたわら、平家の都落ち、先の戦で弧児となったものを引き取り、貧しく養っていた。吉次は蓬から義経への土産ものを託された。吉次が義経と会ったときに、麻鳥夫婦の話をし、預かった土産の蓬餅を手渡した。蓬はかつて義経が乳飲み子の頃に常盤に仕えていた者。義経は母常盤の面影を想像し、はやく逢いたいという気持ちを押し殺すのに必死であった。翌日義経は那須・佐藤の忠臣とともに嵯峨野へ急いだ。麻鳥夫婦に会うためである。多くの童が騒ぐ傍らの小屋が夫婦の家とみると、夫婦を訪ねた。お互いに10年ぶりの再会である。鞍馬の山で脱走しようとする牛若に母・常盤の形見を渡したとき以来であった。麻鳥夫婦は源氏の大将である義経が気取らない勇姿であることにほっとした。そして義経は母・常盤の様子について懇願するのである。麻鳥夫婦はいつも常盤御前のことを気にかけていた。清盛に寵愛されていこうは大蔵卿長成にとついで女子を設けたが、長成も亡くなり、清盛が亡くなって以降は化粧代も途絶え、それからの生活は貧困をきわめたらしい。平家が西国へ落ち延びたあと義仲が入洛したあとは、清盛の寵愛を受けた身であることで木曾陣におびえた長成の親類縁者も 常盤を嫌うようになった。そしていよいよ木曾に知られるようになり身の上が危なくなった頃、あの金王丸の勧めもあって洛を避けて鎌倉へ身を寄せようと旅立ったらしい。ところがそれ以降何の便りもなく、いつか関が原で旅の男女が盗賊にむごたらしく殺されたという噂を聞いた。女は昔九条院に仕えていた常盤御前らしい・・・・。しかし持ち物・衣類がそのままだったことから、盗賊ではなく、木曾の追っ手にやられたらしい・・・。とも聞こえてきたのである。

常盤御前が晩年に住み、没したといわれる源光寺

 

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新・平家物語 第25話 義仲の愛妾・山吹

2012年11月22日 | 平家物語

 そのころ、義仲はわずかな手勢で頼朝軍のまっただなかにいた。薄金の鎧すら身に重さを感じながら竹馬の友・兼平と涙し、木曾6万の大軍もいずこへ・・・ と無量な感に打たれずにはいられなかった。甲斐の一条忠頼、土肥実平、などが木曾の大将軍・義仲を見つけると、続々と呼ばわりかかってくる。 その怒号のなかで一人の味方の姿をはっきりとみた。東国の武者に取り囲まれながら、ほのかな命を燃やす巴御前の姿である。 「巴・・・」という心からの真実の声は巴には届いていない。 この刹那、三浦の住人・石田次郎為久は 「木曾殿の御首級を、われ揚げたるぞ!」 と体中から怒鳴っていた。まだ事実をしらない巴は、一人30騎に囲まれていた。 たかが木曾の知れた女武者、と無造作に組み付いた者はことごとく死骸にされていた。 そのとき巴は敵の中に、和田義盛の手の者との名乗りを耳にした。 そのとき、鎌倉方の犬として捕らえられ、首斬られるところを自分が救って放してやった西浦七郎という男が脳裏をよぎった。 巴は鎌倉殿へ、木曾の人質子として嫡男・義高を預けていたが、その番士と聞いて、わが子恋しさ、後の便り得たさで放してやったことがあった。 そして幾たびか七郎の才覚により義高のいじらしい文が届いていたのである。「西浦と呼ぶ武者やある!巴が求める敵よ。見参あれ!」 というと 「おうっ」 という声がした。確かに見覚えのある眉目である。巴は和田・・と聞いたときに、何故か人目、義高に会いたい・・・と変わっていた。 巴は七郎と組み合うと、下にねじ伏せられ、望みとおりに生け捕られたのである。後に、良人の首と兄の首をひとところに見たときには、何故死ななかったのか・・・と悔いた。範頼、義経その他の鎌倉武者の華々しい行列が、亡き将義仲、兼平、根井、盾などの首級を掲げて六条東獄の門へ向かっていた。 首は宿命の木にかけられる。ところが数日後、義仲の首だけが盗まれていた。 ある夜、鳥辺野に身を横たえた女雑兵は一個の首を火葬していた。 泣いて泣いてそれを灰にしていた。義仲が最後の戦に出る朝に葵の矢に射抜かれた山吹であった。 射抜かれたところは倶梨伽羅峠で山吹が葵を射抜いたと同じ深腿である。山吹は後に義仲の遺骨を抱いて北陸のにて生涯供養を余生の生活として長寿したそうである。また、明神で正気をとしもどした葵の前も越前に帰り、義仲の縁につながる人々に義仲の最後告げ歩き、晩年おそらく清雅なものであったと思われる。義仲の死後もっともいじらしい犠牲が残されていた。冬姫である。父・基房が娘もある梅小路にかけつけたときには、眠るがごとく死んでいた。毒を飲んでいたのである。いつの日か、父から授かった手紙が机に置かれ、それは語らずとも父、院への激しい抗議であった

 義仲寺は戦死の地のほとりにあり義仲の墓がある。後にこのあたりを領地にした源氏の一族・佐々木氏は寺を建立した。松尾芭蕉はこの景勝の地を愛してここに葬るように遺言したから、今でも 義仲と芭蕉の墓は隣り合わせに立っており、木曾義仲の妻・巴御前や愛妾・山吹の石碑もあります。

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新・平家物語 第24話 巴・葵・冬姫

2012年11月21日 | 平家物語

 巴御前はいわずと知れた木曾義仲の正妻である。今となっては今生の別れを覚悟し、化粧を整え出陣の用意をしていた。義仲は万一の為に平家に対して西方を固めるべく巴の兄・樋口兼光を淀の南に差し向けていたが、ここで弁慶・三郎軍に打ち破られたという一報に驚いた。宇治の本陣とは別の隠し勢が疾風のようにあらわれ、野営の眠りを襲っていたのである。そして兄・兼光を援護すべく巴御前を加勢に急がせた。このとき義仲も巴も木曾軍の行く末を覚悟していた。また、病に臥せっていた義仲の妾・葵御前も援軍のため戦場に駆けつけようと、支持を仰いでいた。宇治川が危ないという知らせが入ってきたときである。しかし義仲は葵に故郷へ落ち延びろ、と言い渡した。しかしもはや葵御前には義仲とともに討たれはてることこそ本望であると考えていた。数知れぬ東国勢は七条河原・大和大路にまで迫っていた。 義仲は先頭をきって、わずかに60騎で七条河原へ挑んだのである。さすがに東国武者も馬も疲れぬいていたせいか、義仲は木曾の手並の程を思い知らせた後、40騎ほどで五条の院の門へ急いだ。すると、そこには小柄な女雑兵が身を潜めていた。「殿!」 と叫んだ後駆け寄って、「今日こそお供を果たす日!殿、共に死にましょう」 といったのは山吹である。義仲はまだ自害する気など毛頭なかったのはゆうまでもない。しかし山吹の義仲に対する歪んだ愛情・執念は並大抵ではなかった。死とは全く別の恐怖と山吹への憐れみを感じながら、義仲は片足の鐙をはずして山吹を蹴りはなした。するとどこからともなく、一本の矢が山吹を突き刺し「っぎゃ」という悲鳴とともにもがいていた。道のいばらが取り除かれると義仲は馬をはしらせた。五条のから梅小路へ急いだ義仲は、もはやいるはずもない冬姫の方向へむいている。ふとみると老婆がたちすくみ、義仲を待っていたかのように「姫君の殿!」と叫んだ。姫は中にいて義仲を待ち焦がれていたのである。義仲は耳を疑った。後白河の院はもとより、木曾を恐れて冬姫を助けにこない父・基房に憤りを感じながら、冬姫に駆け寄った。考えてみれば、関白の家に生まれ、父と仲良く過ごすことも少なく、華やかな邸では孤児同然であった。義仲も木曾の孤児である。「義仲は武者の末路を辿るが、おん身は元の園生にもどられよ。そして鬼のごとき者とであった日は忘れてくれい」 というと、「どうして、わすられましょうか。ましてあなたを鬼などと思えましょう」 二人は今生の別れの抱擁をすると、「・・・・姫!さらば」 といい残すとわずか30騎の義仲軍は駆け抜けた。

 鎌倉勢は徐々にその数を増し、義仲勢は減っていくなかで、思いがけない味方が現れた。風にも耐えない細い体に物の具を華やかに着、かんばせは化粧を施し、薙刀を振るって精悍な東国武者の間を駆け抜け、必死な戦いをしている者がいたのである。葵御前であった。 殿軍を勤めて殿を落ち延びさせようと・・・・。一方巴御前は義仲を慕って急いでいたとき、内田三郎に呼び止められた。「そこなるは、巴御前とかいう世に聞こえたる女武将にてはあらざるか。返し給え。」 駒を向け直した巴は、「身は木曾殿が室の巴御前ぞ。作法ある武者とは見ゆ。相手になって進ぜよう。」 と薙刀を持ちかえた。長やかな黒髪を束ね、額には星と輝く白銀の鉢巻をし、葦毛の駿馬・春風を走らせると、首のない三郎の体が振り捨てられた。巴はさきの優しい三郎の名乗りを想い、岩の上に首をすえ手向けると、近くに一人の武者の死骸を見つけた。 その鎧、袴、そして自分と同じく額には天冠を締めた姿はまぎれもなく葵の前のいでたちであった。病床にありながら何故・・・体はまだ生暖かく、こと切れてはいなかった。良人の愛を横取りして我が物顔をした女などとうらんだこともあったが、今はそう思おうとしても浮かんで来なかった。「憐れや、女心・・・」 と身につまされると、近くのみ社に葵を預けた。葵はうっすらと眼を開いて何かをいいたげに涙ぐんだ。 涙はどんな言葉よりも多くの、そして過去の一切を語っていたのである。

京都・時代祭りで連銭葦毛の愛馬「春風」にまたがる巴御前

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新・平家物語 第23話 義経軍の宇治川越え

2012年11月20日 | 平家物語

頼朝軍は洛近くまで迫っていた。 
 ・義経率いるのは 
   ・武蔵坊弁慶、  1155-1189 
   ・伊勢三郎・義盛、 ?-1186 
   ・佐藤忠信    1153-1186、 
   ・継信兄弟また、 1150-1185 
   ・畠山次郎重忠、 1164-1205
   ・川越太郎重頼、  ?-1185 
   ・    娘は  1168-1189 義経の正妻・郷姫 
   ・    重房、 1169-1185 重頼の嫡男 
   ・熊谷次郎直実、 1141-1207
   ・佐々木盛綱   1151-? 
   ・   高綱、  1160-1214 盛綱弟 
   ・梶原影時    1140-1200 
   ・源太影季    1162-1200 景時嫡男 
   ・それぞれ駿馬を走らせ宇治川の瀬に陣を取り、お互いに功を競って洛を狙っている。  
 ・義経は「薄墨」という愛馬に乗り、乗り換え場として頼朝より贈られた「青海波」を用意していた。  
   ・和田義盛の「白波」   
   ・畠山次郎重忠の「秩父鹿毛」  
   ・熊谷直実の「権太栗毛」  
   ・蒲冠者範頼の「月輪」 などいずれも駿足の名馬であるが特に駿足であったのは、 
   ・佐々木高綱の「生食・いけずき」、 
   ・梶原源太影季の「するすみ・磨墨」は共に頼朝から贈られた有名な駿馬である。 
 ・当時馬の馬の背丈は脚の先から肩までの高さではかり、四尺(約120cm)が標準であった。 
   ・「いけずき」は標準に対して丈八寸高く、約150cm。である。 
   ・現存する木曽馬は体高約120cmから140cm。  
   ・現在の競走馬サラブレッドは150cmから160cmである 
   ・ことを考えると「いけずき」がいかに来馬として最高の大きさであったがかわかる。  
   ・戦記物でもなかなか八寸の馬は登場しない。 
   ・一方梶原の影季の「する墨」は、毛色は黒色、黒光りする青毛とは違い、艶のない黒色の毛色の馬を言う。 
   ・「する墨」も名馬であるが、「いけずき」ほど大きくはなかった。 
   ・この身体の大きさと気性の差が、宇治河の急流を横切るときの差に出てしまったようである。   
 ・かくして、宇治川先陣の初名乗りは「いけずき」の佐々木高綱が挙げた。 
 ・一方木曾義仲軍は、宇治川・瀬田へ分散 
   ・していたため、身辺にはわずか200騎足らずしか残されておらず、なにやら落莫の影を湛えている。  
   ・このときには義仲は、敵軍の動きを捉える策を欠き、 自分の軍勢に的確な指示を与える余裕もなくなっていた。  
   ・義経軍は宇治川の本陣、近江から瀬田の街道を抜ける蒲冠者範頼軍の二軍にわかれていた 
   ・が、義経は本陣を離れて木曾義仲軍の偵察に弁慶・伊勢三郎に300騎を授けていた。  
   ・ところが義仲は単なる弁慶・三郎偵察隊にまどわされる結果となったのである。  
   ・倶梨伽羅峠ではいたるところに源氏の白旗を掲げ平家に自軍の数を見誤らせたが、今度は自分が見誤っている。

義経の宇治川の戦いでの愛馬は薄墨であったが、屋島の戦いでは太夫黒

歴史的には宇治川はさまざまなドラマをうんでいます

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新・平家物語 第22話 木曾義仲洛入

2012年11月19日 | 平家物語

 木曾義仲は巴御前と山吹を両脇において洛入を果たしていた。また、新宮十郎行家も宇治から入洛し、共に後白河法皇が待つ御所へと参じた。そのとき葵の前もひとり堅田からはせ参じていた。葵の前は前の合戦で山吹に射抜かれた足の様子が思わしくなく、木曾義仲は堅田の刀禰弾正介と息子・左金吾に命じて、葵の前の養生を頼んでいた。ところが居ても経っても居られず義仲入洛に駆けつけてきていた。そして、宗盛以下の党類追討の院宣を下し賜うた。院の左少弁光長はさっそく九条兼実を訪ね、義仲と行家に宣下があった様子を伝えた。また同日院宣をもって朝日将軍の称号を賜った。それからの都での義仲は好き放題に振る舞い、平家の時代の方がまだ良かったとの風評を生むことになる。あるとき、義仲は関白・松殿・藤原基房の館に招かれたときのことである。酒や馳走、管弦の遊びに満腹ぎみであったが、別の儀がまだであることを仄めかす。つまり都では随一といわれる冬姫つまり藤原基房のご息女・冬子にまだ会っていないというのである。義仲は簾の向こうで琴を奏でる冬姫を見ると、初めての高貴な姫君に身が火照り、幻想に取り付かれた。それからしばらくは、 木曾の田舎育ちの巴御前、葵の前、そして山吹もすべて、つまらない生き物のように思えたという。しかし、琴を奏でたのは冬姫に仕える侍女のひとりで替え玉を使ったようである。もちろん木曾の荒武者に我が娘を会わせたくない基房のはかりごとである。実はこの冬姫というお方、義仲の側室になっている。 といってもお互い同意のものではない。義仲は冬姫の父・基房に証文を強要し、16歳の冬姫は半ば、義仲に篭絡されたのである。しかし義仲は気品に溢れた愛くるしい冬姫に、しばらく一指も触れることはなかった。日を重ねるごとに冬姫は義仲の優しさに傾いていく。 

 西国に落ち延びた平家は屋島を本拠地として軍力を盛り返していた。また、東国の頼朝は義経や弟の蒲冠者範頼に命じて洛へ向かわせていた。義仲は嫡子・義高を頼朝に質子としてなんとか和睦は結んでいたものの、もとより二人は協力し合える源氏同士ではない。頼朝の東国勢力に圧力を感じていた義仲は、西国の平家挟み撃ちにされている状況である。後白河法皇も義仲を良くは思っていない。東西から攻められて完膚なきまでに、というのも時間の問題であると感じていたようである。法皇にとっては、義仲が冬姫に気を取られ、洛中にて無策のまま時を重ねることは思う壺であった。かくして、冬姫は乱世の中で義仲に決断を鈍らせるための囮となっていた。その頃、亡き高倉天皇の四の宮・高成親王が皇太子としてなった。義仲は北陸の宮を皇太子に推したが、後白河法皇、丹後の局の進言があった。高成親王の母は従三位坊門信隆の娘藤原殖子といい、守貞親王の母でもある。都落ちをして母、建礼門院徳子と西国へ旅していた安徳天皇とは異母兄にあたり、2歳違いである。

砺波地方にある巴御前と葵御前の塚

 

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新・平家物語 第21話 平家都落ち

2012年11月17日 | 平家物語

 平家の武将6万騎をもってしても倶梨伽羅、安宅での惨敗とあってはもはや西国を目指して都落ちをするしかなかった。桜梅の少将といわれた美男維盛には相思相愛の北の方と息子・六代丸と姫君を都へ残すことを決めた。もちろん妻は良人とともに海の藻屑になろうとも添い遂げる覚悟でいたが、維盛は子供の無事を妻に託したのである。そして小松邸の侍 斉藤五、六の兄弟にも妻子を守るように言いつけた。この兄弟は斉藤別当実頼の息子である。清盛の義弟、薩摩守・忠度は五条京極の藤原俊成卿のもとを訪れていた。俊成は歌人である。西行法師とも深い仲の師・俊成に忠度が託したものは、戦のときなどに詠みでた百首あまりの歌であった。このとき俊成は千載集の御選にかかっており、平家の都落ちに望んで一辺の歌も都に留めないとあっては・・・・・と想い託したのである。千載和歌集のなかに、「故郷の花」と題して一首、詠み人知らずとして載せられていた。 「さざ波や 志賀の都は荒れにしを むかしながらの 山桜かな」 もちろん忠度が詠んだ歌である。後に俊成の息子・藤原定家が新勅撰集を編んだときには、薩摩の守忠度として再編されている。同じ頃、経盛の嫡子・皇后宮亮経正は仁和寺の御所にいた。ここは彼が幼い頃から修行を重ね、勉学にいそしんだ所である。御所の宮は後白河法皇の第二王子・守覚法親王である。そして経正は琵琶・青山を形見においていった。そのときのはなむけの一首がこれである。 「あかずして別るる君が名残をば後のかたみにつつみてぞおく」 八条池大納言頼盛は清盛の義弟で池禅尼の息子である。池禅尼といえば、平治の乱でさまよう源頼朝を家臣の弥兵衛宗清が見つけた際、清盛に頼朝の命乞いをした御方である。その恩を頼朝は忘れず、池禅尼の命日には便りをよこし、頼盛にも便りをだしていた。このことから頼盛は平家一門からつまはじきになっていたが、いつかは、平家と源氏の橋渡しになろうかと苦渋をなめてきたのである。都落ちの際には300人の同勢がいたが、頼盛の都へとどまるという心変わりに同勢もわずかとなっていた。そして平家の落人は芦屋・御影を経て生田川を渡ると旧里福原にたどりついたのである。

平家側の総大将・維盛を中心に陣をひき、木曾義仲との戦いに備えた猿ヶ馬場

 

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新・平家物語 第20話 斉藤別当実頼の最期

2012年11月15日 | 平家物語

 倶梨伽羅の戦で惨敗した平家の残党は、それでも3万騎である。維盛の主張で安宅の関に退いていた。ところで今は平家の恩に報いんと、宗盛の命にて参謀を務めていた老将・斉藤別当実頼は先にも述べたように保元の乱では源氏方の優れた武将であった。この頃に一度木曾義仲を匿っている。義仲の父は源義賢である。鎌倉殿・為義の次男であるが、兄・義朝とは反りが合わなかった。そして義朝の長男・義平(悪源太)に討たれるのである。この時義仲は2歳で、母小枝に連れられて追っ手から逃げていた。このときに二人の親子を匿ったのが斉藤別当実頼であり、信濃に逃れ、木曾の豪族・中原兼遠の庇護下に育った。妻・巴御前は兼遠の娘。なお、妾の葵御前も兼遠の娘である。この斉藤実頼は、先の富士川での平家惨敗を悔いていた。老体でありがなら生き恥をかきながら生きるつらさもわかっていただけに、ここ北陸での木曾軍との戦いを自分の死の場所と決めていたのである。そして木曾の武者手塚太郎光盛という望むところの敵に会うと、死力をもって手向かうこともなく首を授ける心のごとく観念したのである。その後実頼の首級を見た義仲は、幼少駒王の頃に恩を受けたこともあり、群臣の前かまわず涙したという。

斉藤別当実頼もここに眠っているのだろうか

 

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新・平家物語 第19話 倶梨伽羅峠

2012年11月14日 | 平家物語

 頼朝と和睦を結び、一大勢力を誇った義仲が最終的に目指すのは洛である。そして義仲追討を命じられ、総大将となったのは重盛嫡男・維盛であった。維盛はかつて、院の御前で「青海波」を舞ったときに、その艶なる美男を「桜梅の少将」と呼んだ。 いまや武者幾万を率い義仲を追討しようとしている。参謀は富士川の合戦のときに作戦の建て直しを主張した老兵・斉藤別当実盛である。義仲の先遣軍は北陸の関門・燧ヶ城に砦を築き準備万端でいた。山々の障壁に、総勢6000騎である。平泉寺の斎明が宗徒1000人を引き連れて加勢していた。ところがこの斎明、平家勢の一味であり、義仲の先遣軍に加わったと見せかけて、燧ヶ城の様子を平家側に報告していたのである。かくして先遣軍は退去を余儀なくされる。次に平家軍は安宅方面から北進するのである。その大軍を二手にわけ、一手は平通盛を大将に忠度、知度、経正二万騎が添い、越中を目指す。また他の一手は維盛を大将に四万騎が倶梨伽羅峠を目指し近づいていた。 これに対する木曾義仲本陣は3万騎ではあるが、木曾の武者が峠で戦を行うには十分な騎勢であった。第一陣、保科四郎は倶梨伽羅の東・日宮林に兵を伏せ、第二陣、行家は能登路を守り、そして義仲本陣は倶梨伽羅山のすそにひっそりと肉薄していた。副将巴御前は兄・樋口次郎兼光を主将とする右軍に、葵の前は養父・栗田別当範覚と同じく木曾義仲を大将とする本陣にいた。そして義仲はじっと夜を待っていた。そして一気に平家軍を挟み撃ちにすると、倶梨伽羅谷に追いやり、平家軍はこの谷間に人馬もろとも落ちていったという。平家軍の戦死者は1万人を越える数だった。そして木曾義仲軍は倶梨伽羅峠の戦いに大勝することになる。戦の勝利に酔いしれていた義仲であるが、葵の前の姿が見えないことに気がついた。実はこの時、葵の前は逃げ延びようとする平家を深追いして、倶梨伽羅峠の迷路の中にいたのである。兄・樋口次郎兼光を主将とする右軍にいた副将巴御前は、めざましい成果を挙げていたが、義仲の本軍武将としていた葵の前は活躍する場もなく、巴の活躍に嫉妬していた。たまりかねた葵の前は一人、逃げ延びる平家を追っていった。そして迷路の中で平家軍に囲まれた。ところが葵を女武将と知った平家軍は相手にしようとはしない。木曾の女武将の血気盛んさを見せようとする葵の前を振り切って逃げようとする。その時葵の前は足を弓矢で射抜かれ落馬すると、即座に駆け寄った一人の女がいた。山吹という屯の女が葵の前を追いかけてついてきていた。山吹は昔、葵の前に仕える初々しい雑仕女であった。その雑仕女が17歳のとき、葵の前の命により義仲の前に現れたときのことである。義仲は山吹をそばに引き寄せ簡単な気持ちで抱いてしまった。それ以来、山吹の様子は一変した。もちろん葵の前が山吹の変化を見逃すはずもなく、雑仕女役を追放し、屯の女衆の一員としたのである。屯の女衆といえば陣中ののようなものであり、山吹は屈辱に耐えていた。義仲に恋焦がれる山吹にとって、義仲とともに戦に参加できるという満足だけが山吹をささえていた。そして、葵の前に嫉妬する山吹は唯一のチャンスを掴んだ。平家を深追いする葵の前への報復である。しかし傷を負った葵の前は逆に義仲に今まで以上の寵愛を受け、山吹はより嫉妬を抱くことになるのである。

倶梨伽羅峠の近くには巴御前、葵御前の墓だけではなく平家ゆかりの地が数多くあります

   

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新・平家物語 第18話 木曾の躍進

2012年11月09日 | 平家物語

 木曾義仲は巴御前、葵の前とともに越後国府の城の四郎長茂を破っていた。長茂は大敗して会津へ逃げ落ち、武将の大半は木曾に降伏していた。越後国府は古くから北の都として栄え、北陸随一の水門であった。長茂の大軍には絶対的な力があると誰もが信じて疑わなかった。それを木曾義仲軍は打ち破り、北陸へ伸び出ていた。その木曾を追討しようと8千騎の兵馬が北へ出て行った。大将は教盛の子・通盛と丹波守・経正である。ところが雪の北陸では馬も進めないということで通盛・経正ともに洛へ引き上げてきた。また、一方紀州田辺の別当湛増らは源氏側に寝返ったため、池頼盛を総大将として出陣を考えていた。ところが頼盛は病にかこつけ、出陣の様子がないのである。頼盛の実母、池の禅尼は頼朝が捕らえられたときに、清盛に彼の命乞いを申し出たお方である。平家一門の間では、頼盛は頼朝に通じているのではないかとの噂もあった。出陣をのばしのばしにしていたことが、その疑いを強いものにしていた。そして頼盛に代わって加賀守・為盛が熊野へ出陣した。清盛亡き後、平家一門の動きは鈍く、平家離れも一層目立つようになった。この頃、頼朝は伊勢大神宮へ代参させている。伊勢は平家発祥の地である。この伊勢でさえ、鎌倉の武士が往復した意味は大きい。伊勢だけではなく、志摩・熊野もしかりである。義仲が木曾谷で旗揚げをしたときには僅かに500程度の小勢であったが、城の四郎長茂を破り越後国府にすわったときには、一万騎を上回り信州・越後・越中・加賀・能登を傘下にしていた。全国の源氏旗揚げに声をかけて回った源行家は、義仲こそ源氏の棟梁となるべき御方と絶賛し、このときには義仲軍の知略武士として行軍していたのである。面白くないのは頼朝である。義仲・頼朝ともに、その目的は平家の追討であるが、頼朝は平家を討つまえに義仲の目を今のうちに摘んでおいたほうがいいのでは、と考えるようになる。猜疑心の強い頼朝は後々義仲が鎌倉国府にとって憂いとなると感じたことから、義仲の躍進の凄さが伺える。頼朝が義仲追討を諮ろうと企てたことは、平家にとっては幸いである。源氏の内輪もめによって、労せずして敵の勢力が劣るからである。さすがの義仲も、これはまずいと感じたようである。この時、頼朝は和睦の条件として源行家を渡すように言ってきた。しかし行家と交わした男の約束もありこれには応じることはできず、義仲はなんと、嫡男・義高を人質に送ってきたのである。

小宰相を残して討死した平通盛はここ生田川のほとりで眠る

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新・平家物語 第17話 源頼朝と政子

2012年11月08日 | 平家物語

 北条政子が懐妊中の出来事である。頼朝の好色な艶聞が牧の方の耳にはいった。牧の方とは北条時政の妻、政子の義母である。頼朝の家臣・新田義重には三十路過ぎの娘がおり、かつて女童のころに悪源太義平といい交わしがあった。そのご息女に頼朝は恋慕し御執心であった。ところがその息女は突っぱねたことから、新田義重が御不興をこうむったとの噂である。また頼朝が伊豆の配所にいたころ仕えていた亀の御前という女がいた。当時はおどおどするだけで、頼朝にとってなんの興味もない女であり里へ返していたが、頼朝の迎えにより鎌倉へ来て、家臣の邸に預けられ、おりおり密会していたのである。あるとき、頼朝の祐筆・伏見広綱の邸が荒武者にあらされ亀の前を連れ去ろうとしたのである。広綱はやとのことで亀の前を連れ、大多和五郎義久の邸に非難した。事件は頼朝の耳にはいり荒武者は牧宗親の家来とわかった。しばらくして頼朝は牧宗親を呼んで問い詰めると、その仕業は政子であった。牧宗親は政子の義母・牧の方の父である。頼朝はその夜、義久の邸に泊まり、亀の前の痛手をいたわったのである。あくる日、頼朝と政子の間ではげしい争いがあったのはいうまでもない。そして頼朝は妻・政子には頭が上がらないのである。そして亀の前は宿替えをし、かくまった広綱は田舎へ左遷されてしまった。一説には、この亀の前は政子の手にかかり殺されたともある。

北条氏縁の大江広元、北条義時、島津忠久の墓は鎌倉にあります

  

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新・平家物語 第16話 清盛の死

2012年11月07日 | 平家物語

 富士川の戦いで大将・小松少将維盛、副将薩摩守忠度を退けた頼朝は鎌倉を磐石なものとし、木曾義仲も頼朝に負けじと洛を目指している。また源行家も美濃・尾張を渡って破竹の勢いで都へ上ってこようとしていた。その頃、清盛の容態は優れなかった。中宮徳子を訪れた後、平盛国八十八の賀があると聞いて駆けつけた時である。急な頭風に襲われ倒れたのである。その発熱は一向におさまらず 西八条のあまたの典医にも、どうすることもできなかった。和気百川の弟子・阿部麻鳥 三条西の洞院 柳の水の跡の貧乏街で金もとらずに医者をしていた。かれは20年前の保元の乱の後讃岐へ流された崇徳上皇に仕え、この柳の水守をしていたお方である。そして妻・蓬は義朝の妾・常盤御前に仕えていた。崇徳讃岐殿が島流しに合って以来20年も、この貧民街で医者をし、今では貧しい者だけの医者ではなくなっていた。そこへ清盛の容態を診てもらうために、門脇殿・経盛の嫡子・経正が武者を引き連れて、この貧乏町に来たものだから大騒ぎである。麻鳥は経正の依頼に応じたから、蓬の気持ちは収まらなかった。良人は普段から貧しい者の為に医者を全うするといっていたし、今回の相手は清盛である。奈良の興福寺の焼き討ちを命令し、末代まで恨まれるようなことをしでかした清盛は、病魔の手は興福寺の祟りであるとも噂されている本人である。まして、妻・蓬は義朝妾・常盤御前とは一方ならぬ間柄なのだから、その悔しさは言いようもないほどであった。承諾してしまった良人麻鳥に対する蓬の剣幕はすざまじかった。しかし麻鳥はそうではなかった。蓬の言い分はわかるが、富貧、平家源氏区別なく、医者として承諾したのであった。八条院に駆けつけると天皇、法皇、平家一門、僧侶、近隣の受領で埋まっている。美濃の戦場、木曾勢の猛威、紀州各地の火の手などの訃報が飛び込んでくる中、二位殿時子は清盛の手を握り、沈黙を守っていた。清盛の病状は、夥しい発熱のあと小康状態が続き、これを繰り返す。麻鳥は一目見て不治の病であると察した。いままでにも幾例か診断したことがあったからである。そして清盛入道は亡くなった。清盛のあとを継ぐ者はもちろん宗盛である。宗盛はまず第一に東大寺の復興と大仏殿の再建を取り上げた。そして陸奥の兵馬をもって鎌倉の頼朝を討つべしとの宣旨を出し、奥州秀衡を陸奥守に任ぜた。

六波羅と大輪田の清盛塚

 

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新・平家物語 第15話 徳子の女房・小督と謎の逢瀬をしていた少将

2012年11月05日 | 平家物語

 富士川での勝算には間に合わなかったが、奥州平泉から頼朝の旗揚げにはせ参じた冠者がいた。佐藤継信・忠信兄弟、伊勢三郎、武蔵の比企義員、那須与一など約30人の郎党を従えた九郎義経である。黄瀬川で陣をひいていた頼朝と義経兄弟が平治の乱以降、お互いに別々に歩んでから久しく、まみえたのである。義経ひきいる郎党は鎌倉で義経に仕え、鎌倉殿を盛り立てることとなる。のちに武蔵坊弁慶も鎌倉を訪ね、参加することとなった。

一方福原に遷都を行った清盛の評判は極めてわるかった。ときに不作・不況もあり洛での生活を惜しむ公卿、庶民の嘆きはおおきく、奈良の東大寺、興福寺の僧侶からの反発も次第に大きくなっていた。以仁王の挙兵むなしく、それに加担した三井寺も平家一門の攻めに会い、奈良では平家の追討の声が噂ではなく本物のものとして鳴り響くようになった。いよいよ清盛の子・平重衡、及び教盛の子・通盛が奈良を沈めるために出陣するのである。総勢1万3千騎にも及ぶ大軍はかくして翌日には奈良に到着し、平家を脅かす僧兵を討ちまくった。東大寺、興福寺の僧侶、修行僧など討ち取られた数は数え切れず、また民家もろとも興福寺などは大火に包まれ黒煙を上げたという。

このとき病床にいた高倉上皇は、知らせを聞いて世も末であると嘆かれたという。興福寺大仏殿の塔舎宝塔を大火と死者数千人という出来事は清盛の予想外ではあったが、後にも忌まわしい出来事として言い伝えられ、清盛の人生にとって最大の汚点として残ることとなる。この惨事の直後、病床にあった高倉上皇は御崩御された。いままで父・後白河法皇と義父・清盛との長きに渡る不和もあり、御年21歳であった。また中宮・徳子 建礼門院は27歳のわかさで未亡人となったのである。高倉上皇にはいくつかの悲恋物語が残されている。もっとも事実かどうかは疑問があるらしいが、徳子の女房として仕えていた藤原成範の娘・小督との物語である。

 小督は高倉天皇との間に娘・範子内親王までもうけて後に、清盛によって遠ざけられもとの嵯峨野へ追いやられたが、実はその昔、徳子に仕えるまえに、ある男と恋仲になっていたことがある。小督の当時の名は千夏といい、誰もが羨望する美しき乙女であった。その相手は一回りも年上の少将である。もとより二人には許されざる恋ではあったが、年に一度の凱旋の折にしか逢うことが許されなかった。それゆえにその恋は中身の濃いものではあり、いつも別れ際には千夏の瞼には熱いものが込み上げていたのはいうまでもない。折りしも千夏の誕生の日の直後に二人は久しぶりの契りをかわすが、それが最後となってしまった。千夏の募る想いはいつしか鬼心にかわり少将を呪うようになってしまった。あるとき千夏の娘・範子内親王から、その母の想いを打ち明けられ母の死を聞いた少将は愕然とするが、少将には鬼心の理由がわからない。治承4年の4月7日に,死んだはずの千夏からの便りが少将のもとにとどけられた。「少将の身を案じて・・」の内容である。恐らくは千夏の娘・範子内親王が母に代わって少将へ文を送ったものと思われる。しかし少将の目に触れることはなかった。すでにその時少将は亡き人となっていたからである。

小督ゆかりの地は嵐山 小督庵というお休み処はいつも賑わっています

 

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新・平家物語 第14話 少将維盛、副将忠度が富士川での惨敗

2012年11月03日 | 平家物語

 福原ではあわただしい日々が続いていた。清盛が洛より遷都を決めたからである。無計画な遷都に不自由このうえない公卿殿上などは洛での生活を恋して病まない。二帝に仕えた藤原多子の弟・後徳大寺左大臣実定などがそうである。洛の近衛河原に残った大宮・多子は、このとき40歳を超えた今、古き都を思いつつ嘆いた。平家一門にも東国の挙兵、木曾の叛乱が聞こえてきた。伊豆に流浪の身の頼朝への監視などは、北条時政、伊藤祐親、山木判官などに命じ、源頼政、子の伊豆守仲綱には配所に関する報告を聞き取っていたが、我が身の寛大さに足元をすくわれた清盛は悔恨にまみれたことだろう。ようやく平家側に対策が明らかにされた。頼朝追討の宣旨が発せられ、大将として小松少将維盛、副将に薩摩守忠度が任命された。本来出陣の儀式は紫宸殿(御所の正殿で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が行われた建物)で行われるが、折も折、略式で行われた。清盛は盛装後、雪の御所の正殿で二人の東国への餞別を行った。いよいよ福原から洛を過ぎ、二週間後には駿河の清見が原に着き、先鋒は富士川に到着していた。実はこのとき斉藤別当実盛という老将が少将維盛、副将忠度に付き添って出陣していた。彼はその昔義朝に仕え保元・平治の乱では勇姿を誇ったのであったが、その後宗盛に服していた。今ここに東国に詳しいとあって宗盛の命にて出陣する日、在京の源氏・畠山庄司重能・有重兄弟の源氏加勢の誘いを断っていた。実盛はもはや先なき身、あすは敵味方となって戦おうと杯を酌み交わしたという。兄弟に六波羅の手形を渡すと、次の日には平軍にいた。平軍の戦況は著しく悪かった。伊豆南の伊藤祐親や相模の大庭一族とともに頼朝勢力を取り囲む戦法でいたが、逆に頼朝軍に奇襲をかけられた伊豆南の伊藤祐親や相模の大庭一族はすでに滅んでおり、勝算の見込みがないと悟った老将・斉藤別当実盛は戦法の練り直しを申し出るが、上総守藤原忠清は聞く耳をもたず。そして夜明けには案の定、平軍ちりじりに退散する羽目となった。こうして少将維盛、副将忠度は二万の軍を率いながらも惨めな帰還となり清盛の激怒にふれるのである。

平忠度の埋葬地

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