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沖縄-1 貝摺奉行所跡

2020年11月27日 | 太平洋戦争

 王家御用、献上・贈答用などの漆器製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡。相国寺跡から1745年にこの地に移設された。琉球王国では、15~16世紀に馬・硫黄のほか献上品として漆塗りの腰刀などを中国へもたらしており、早くから漆芸品を製作していた。1612年に毛氏保栄茂親雲上盛良が貝摺奉行に任じられ、貝摺師・絵師・檜物師・磨物師・木地引などの職人を監督したといわれ、この時期にはすでに貝摺奉行所が組織されていたと思われる。奉行所では中国皇帝や日本の将軍・諸大名への献上用の漆器の形態・図案が決められたほか、数量及び材料などにかかる金銭の出納などの生産管理事務が行われた。1879年の沖縄県設置により貝摺奉行所は廃され、跡地には1886年に沖縄師範学校が置かれた。漆器は民間の手で製作されつづけ、1912年には漆器産業組合も結成されるなど、本土への移出品、記念品としてもてはやされた。1945年の沖縄戦後には、米兵・本土観光客の土産品として復興し、1980年に通商産業大臣(当時)から伝統的工芸品として「琉球漆器」が指定を受けた。(那覇市内史跡・旧跡詳細HPより抜粋)

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鹿児島-1 進駐軍上陸地の碑 

2020年11月12日 | 太平洋戦争

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鹿児島-2 鹿屋航空基地史料館

2020年11月12日 | 太平洋戦争

 鹿児島県大隅半島に位置する鹿屋市にある鹿屋航空基地史料館の展示機体です。以前、薩摩半島側にある知覧特攻平和会館や万世特攻平和祈念館に行って以来の鹿児島訪問。

コックピット内部を見ることができる珍しい展示の零戦52型

 

二式飛行艇

日本に現存する唯一の機体

 

艦上攻撃機・天山のプロペラ

局地戦闘機・紫電改のエンジン 誉

P-2 ネプチューン

S-2 トラッカー

US-1A飛行艇 水陸両用機

V-107 シーナイト

ベル47

ロッキード P-2J

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生石岬展望台と由良要塞跡

2020年09月08日 | 太平洋戦争

 由良要塞は、大日本帝国陸軍が建設した要塞の一つで、大阪湾防衛の目的で紀伊半島と淡路島の間の紀淡海峡周辺に作られた。ここ要塞跡地に隣接して生石岬展望台があり、絶景と要塞の両方を堪能してきました。

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九州大学生体解剖実験の真実

2020年04月09日 | 太平洋戦争

 1948年3月横浜軍事法廷にて九州大学の医師たちが居た。無抵抗のアメリカ人捕虜に対して海水注入、肺の摘出、肝臓切除など、それまでタブーとされていた生体解剖実験を次々と行ったのである。

 1945年5月空爆を終えたB29に対して、粕谷欣三一等飛行兵曹がのった迎撃機・紫電改がB29に体当たりし、B29の搭乗員12人は脱出し九州の山中に降り立ったものの3人はリンチにより死亡し、9人は捕虜となった。かつて福岡には西部軍司令部がありアメリカ兵は殺せという罵声の中でアメリカ軍の捕虜は西部に送り込まれたのである。捕虜の取り調べを行ったのは山本福一。事実上軍の支配下にあった九州大学では総長を務めていた百武源吾海軍大将が、医学部に代用血液の開発を急がせた。海藻を原料に開発製造に成功と報道していたが、実際には実用化には程遠い状況であった。

 こうした状況の中、捕虜の機長は東京に移送されたが残る捕虜は軍司令部で適宜処分せよという命令が下った。1945年5月17日、九大医学部に運ばれた二人の捕虜は解剖実習室に連れて行かれたという。当時医学部に入ったばかりの学生・東野利夫は解剖実習室に出入りしていた。医師たちの会話などを19才の東野氏は今でも鮮明に記憶している。手術は医学部の権威であった石山教授が指揮し、15人を超える医学部関係者が立ち会った。軍参謀が見守る中、人体実験が行われたのである。それは当時としては最先端の手術ではあるが、死ぬかもしれない。しかし捕虜であるから死んでも構わない。医師たちはやりたい、の悪魔に撮り憑かれているのである。

 まずは血管に海水を注入して代用の可否確認であったという。代用血液の開発ができなかった最中、海水を整理的食塩水に代用できないかというのである。次に行ったのは肺の切除である。当時結核が蔓延していたこともあり、片肺での生存可否実験が行われた。このような解剖事件が8人の捕虜に対して行われた。戦後ポツダム宣言に於いて捕虜を虐待したものは厳しく処罰するとうたわれている。医師たちは多数のGHQに囲まれて取り調べをうけ、人体実験の存在を否定していたが次第に全貌は露呈した。かくして九大関係者14人、西部軍関係者11人を逮捕。現在アメリカ公文書館に当時の膨大な取り調べ聴取資料が治められている。鳥巣太郎助教授の聴取では、捕虜の肺から銃弾を取り除くためと聞いていたが肺全体が切り取られていたと・・・。石山教授の手術は新しい手術を方法を試すことにあった・・・。筒井シズ子看護婦長、平尾健一助教授、いずれも石山教授、軍の命令に逆らうことなどは考えられなかったというものであった。ところが、石山福二郎教授は生体実験の事実は決して認めなかったという。すべては捕虜の命を救うものであったと・・・。この取り調べのあと、石山教授は遺書を残して独房で自殺した。遺書には軍への怒りと、弟子たちへの謝罪が記されていたという。

 1948年8月、横浜軍事法廷で生体事件の判決が言い渡された。5人に絞首刑、18人には有罪が言い渡されたのである。この事実はアメリカの遺族にはどのように伝えられたのだろうか。B29搭乗員(当時20才)の娘・ジンジャーさんら家族の元に連絡されたのは1950年1月。一方実験を行った鳥巣太郎助教授は死刑判決のあと出所後減刑されて恩赦でひっそりと暮らしたというが、人体実験の事実は何も語らなかったという。この事件が発覚したあと、九州大学は「事件は当事者が勝手に大学の設備を使ってやったことであり、あずかり知らないものである」との見解を発表している。この事件、GHQによる調査で3人の首謀者が挙げられている。西部軍佐藤吉直大佐、西部軍小森卓軍医(空襲で死亡)、石山福二郎九大教授(自殺)。佐藤吉直は死刑判決を受けたが恩赦を受けている。

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仁科芳雄による原爆開発計画

2020年04月05日 | 太平洋戦争

 1945年8月3日、日本に於いても原爆が実は完成していたと言われていたが、これは誤りで結局はウラン濃縮さえもできずに敗戦を迎えた。1940年5月、陸軍航空研究所の安田武雄中将1889-1964は鈴木辰三郎陸軍中将1877-1952に原爆の開発可否検討を依頼し、その結果、可能であるとの報告を受け取ったのが事の発端である。1941年4月には安田武雄は理化学研究所に原爆研究を依頼したことで「二号研究」が始まった。その研究のリーダーが仁科芳雄1890-1951で、その中には後のノーベル賞受賞者朝永辰一郎1906-1979が居た。彼らは核物理学の中心人物であり、最年少は1942年から二号研究に加わった木越邦彦1919-2014で、当時東京大学の理学部の学生である。原爆の開発研究を行えば軍役を免除するという誘いに乗ったという。同じく誘われた竹内氏は仁科博士から誘いを受けた真意について「二号のいきさつ」という手記の中で木越氏と同じことを書いている。かくして原爆開発のPJが始動した。この時の戦況はというとミッドウエー海戦にて日本軍は壊滅的なダメージを受けており、山本五十六は画期的な兵器が必要だと述べている。これに対して海軍技術研究所の伊藤庸二大佐1901-1955は、不利な戦況を打開するためには原爆が必要であるとした。1943年初頭、仁科から安田中将へ報告がなされた。ウランを濃縮すれば原爆の製造は可能であると。これを受けて東條英機は原爆の製造命令を出したことで、理化学研究所に於いて二号研究、つまり原爆製造が本格稼働したのである。そして予算資材等は要望通りに供給されることとなる。研究所は49号館、この時の予算は二千万円、現在の価値に換算すると60億円。一方アメリカはマンハッタン計画により原爆を開発するのに230億ドルを費やしている。

 原爆の開発にはウラン235が必要であるが、ウラン鉱石にはウラン235が0.7%しか含まれておらず、問題はいかにしてウラン235を濃縮して取り出すかである。仁科は濃縮のために熱拡散法を用いた。この研究には竹内柾研究員1911-2001が担当、分離装置の開発にあたった。ウラン235濃縮装置・分離筒が立ち上がったのが1944年2月であった。ちょうどその頃、京都大学の荒勝文策研究室1890-1973でも海軍からの依頼によりウラン濃縮の研究を始めていた。その方法は超遠心分離法といって、研究者の清水栄によれば、効率よく濃縮できるというものであった。10万回転/秒で回転させることにより軽いウラン235だけが中央に残る仕組みである。研究者の中には後の中性子理論でノーベル賞に輝く湯川秀樹1907-1981が居た。核分裂Fissionの頭文字をとって暗号名はF号研究と呼んでいた。この海軍の研究予算は30万円、現在の価値で2億である。原料は酸化ウラン100kgで、米軍の機密文書によれば、上海から現金1億円で輸入したもので船で輸送されたのであった。結局この研究は机上の空論で終わることとなる。

 戦況が悪化してくると、理化学研究所の熱拡散法研究も難航するなか、陸軍や政府からのプレッシャーが強まる。ウランを分離筒に入れるには六フッ化ウランというガス状にしなければならず、これに奮闘していたのが化学班・木越邦彦博士であったが難航していた。川村清元陸軍の化学班の支援もあり1944年春に六フッ化んの合成に成功した頃には、パラオ大急襲、そしてサイパンは玉砕という状況である。この頃の新聞には決勝の新兵器、ウラン10gでサイパン攻撃、原爆成功といった記事が乗り、国民を鼓舞していたのである。いよいよ六フッ化ウランの量産体制にはいり化学班・木越から分離班・竹内に六フッ化ウランが届けられ、分離実験が行われたのはサンパン玉砕の一週間後である。1944年11月東京大急襲があった頃に、分離班・竹内はウラン235らしきサンプルの濃縮に成功する。11月10日サイクロトロンという質量分析計でウラン235の分析を行ったのは分析班の山崎文雄博士。山崎氏が分離度を測定したが濃縮されていなかった、失敗である。検出班の中根良平氏は原爆などはできるはずはないと思っていたという。 敗戦後、仁科博士は日本の原爆研究についてGHQには、その存在を否定した。というのも日本にはウラン鉱石はなかったからだという。

 広島に原爆を落とされたときには二号研究は敗北したのだから我々は腹を切らなければならないと若い研究者に言ったというが、結局腹を切ることはなかった。二号研究者で構成された原爆災害調査団が広島で見たものは自分たちが開発しようとしたものがもたらす悲惨な光景であった。

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重巡洋艦・インディアナポリスの沈没

2020年03月26日 | 太平洋戦争

インディアナポリス(CA-35)、アメリカ海軍の重巡洋艦は、日本の潜水艦伊58の雷撃により沈没した。インディアナポリスの艦長はチャールズ・マクベイ大佐、一方潜水艦伊58の艦長は橋本中佐である。インディアナポリスの使命は原爆をテニアン島まで運ぶことであった。これは極秘任務であり護衛は一切なしというもの。1945年7月26日に無事テニアン島へ運んだが、その後7月30日フィリピン・レイテ島に向かう途中で、日本の潜水艦伊58の雷撃により沈没した。

インディアナポリスは、乗員約1200名のうち、約900名は沈没直後は生存していたが、救助されるまでに、水・食料の不足、体力消耗、サメの襲撃などにより多くが犠牲者となり、救助されたのはわずか300名ほどであった。艦長のマクベイ大佐は生き残ったが、1945年11月軍法会議にかけられ有罪とされた。アメリカは第二次世界大戦で約700隻の艦艇を失ったが、艦長が軍法会議にかけられたのはマクベイ艦長ただ一人である。有罪になったことで、マクベイ大佐は、死んだ乗組員の遺族に責め立てられ1968年に自殺した。悲劇から50年以上後に、この軍法会議が誤審であるとの認識が提起され、2000年の再審では無罪となる。ここに至るまでに、潜水艦伊58の艦長・橋本中佐が尽力していたという。以上を映画化したのが、「パシフィック・ウォー」

 実は、知り合い父上殿の勤めていた会社の社長が、海軍の高官で、橋本中佐と懇意だったようで、インディアナポリスの話は、酒の席で、良く話題にしていたという。アメリカ軍は、今でも旧日本海軍については、リスペクトしているそうですというお話を聞いてホッとした次第である。

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久米島守備隊住民虐殺事件

2019年06月26日 | 太平洋戦争

 久米島守備隊住民虐殺事件のことを知る沖縄県民は多い。久米島守備隊の兵曹長は鹿山正(当時32歳)である。1944年、沖縄県の久米島に配属になった鹿山正は、40人ぐらいいた日本海軍守備隊の指揮官として、配属となる。1945年6月26日、久米島にアメリカ軍が上陸した翌日、投降文書を持ってきた仲里村民を、「敵に寝返ったスパイ」として鹿山正が殺害したのである。もちろん一介の下士官・鹿山正には殺害する権利などはなく、海軍刑法・陸軍刑法・国内法違反である。その後、具志川村北原区長ら四家族9人の殺害などを含めて70人以上の住民殺害に関与したことで、「久米島守備隊住民虐殺事件」として、語りづがれることとなる。鹿山正を含む守備隊は、沖縄県警糸満署によって捜査されたが、事件の重大さより連合軍総司令部に送致された。そして「国外に於ける事犯であるため取り上げられない」との回答により、鹿山正らは、戦犯としてまた殺人罪等の刑事責任を問われることはなかったという。戦後30年が経過した頃、鹿山正は殺害の事実を認めるものの、「いまは戦争を罪悪視する平和な時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、良心の呵責もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ」という発言を残している。

 戦後戦犯で戦争なのだから仕方ない・・・という言い分なのだろうが、罪なき住民を下士官の判断で殺害することのどこに正義があろうか。また久米島の住民が明らかにスパイであったとしても、軍法会議等の最低限の措置が必要なのである。従って鹿山正を弁護する余地は微塵もない。なのに鹿山正は戦後裁かれることなくのうのうと生きながらえた。鹿山正に関わらず、未だに大本営のトップは何ら謝罪することもなく現在に至っている。恐らくこのような責任は誰にもとられることなく闇に葬られるのだろう。

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沖縄-読谷-13 残波岬

2018年05月21日 | 太平洋戦争

 昭和20年3月、米軍は日本本土侵攻を目指し、ついに沖縄へ上陸。残波岬は、辺り一面米軍の艦船でいっぱいにになるほどだったという。実はこの残波岬に限らず、現在は有数の観光地となっている万座毛も悲惨な戦争を体験している。そしてその戦争は太平洋戦争だけではなく、琉球王が薩摩藩の支配下にあった時代から続いている。今となっては周知のこととなったが、太平洋戦争末期に沖縄住民は究極の選択を余儀なくされた。青酸カリと手りゅう弾による自決である。選択できず、また米兵の捕虜にもなりたくないとの思いで多くの沖縄住民が万座毛や残波岬から飛び降りたという。

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呉・高烏台 砲台跡、兵舎跡

2018年05月18日 | 太平洋戦争

1901年旧陸軍が外国艦船の侵入を防ぐために、標高218mの高烏台に28センチ榴弾砲6門を装備した砲台を築いた。その砲台基礎や弾薬庫の一部と兵舎跡などが、100年以上経った今でも立派な外観を保って残されている。この花崗岩造りの一連の構築物は、旧高烏砲台の跡である。明治十六年第二海軍区鎮府の候補地として呉港があげられ、明治十九年七月軍港設置とともに敵の艦砲射撃に備えて軍港防備の陸上砲台は陸軍において構築することになり、陸軍予算として閣議にあがったが、第一期計画からは除外された。たまたま日清戦争が起こるにいたって、広島に大本営が置かれるなど情勢の変転に伴って再び砲台構築の議が起り、明治二十九年陸軍の手により砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、引き続き同三十二年から三ヶ月の歳月を費やして完了した。後になって海軍の所管に移され太平洋戦争においては専ら防空砲台として使用されたが、明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものである。呉市説明板より

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工廠神社(産業神社)@呉

2018年05月06日 | 太平洋戦争

 工廠神社(産業神社)は海上自衛隊潜水艦教育訓練隊(旧海軍工廠本部)の串山公園内にある。境内へ上がる階段の途中にのトーチカ跡がある。

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和歌山加太砲台跡

2018年04月30日 | 太平洋戦争

 大日本帝国陸軍が作った由良要塞は4つの地区に分けられている。友ヶ島地区、淡路島の由良地区、加太・深山地区、鳴門地区で、今回紹介する加太・深山地区の深山砲台は紀州加太にあり、1889年に建設が開始されたため主建材はレンガという佇まいが美しい要塞である。第2次世界大戦中、この休暇村一帯は深山銃砲連隊が大阪湾の入り口を守っていた。由良は古くから瀬戸内海に入る交通上の要地であり、中世からは軍事的な意味から大阪湾の守りの地で、大阪湾に侵入する軍艦を迎え撃つため、合計17箇所に砲台がおかれた。

 


この場所には28cm榴弾砲の砲台が6門編成で置かれていた。砲台は2門ごとに仕切られ、トンネルの通路でつながっていた。現在、砲台はないが、トンネルの通路や地下の弾薬庫などが残っている。ここ深山第一砲台は、32年に正式に由良要塞に編入されてから、昭和20年の終戦時まで使用されていた。以下はレンガ造りの弾薬支庫跡、弾薬支庫である。

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鹿児島-10 特攻基地・万世に保存されている旧日本陸軍98式直接協同偵察機のエンジン

2018年04月24日 | 太平洋戦争
 地上の作戦に直接協力する近距離偵察機で、短距離滑走による離着陸が容易であった。日華事変以来、中国大陸、フィリピン、南方各地において広く活用され、沖縄作戦には特攻機としても使われた。そのエンジン部分が万世特攻平和祈念館に展示されている。
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鹿児島-9 ホタル館 富屋食堂

2018年04月23日 | 太平洋戦争

 ホタルという映画を記念して建てられた石碑である。この映画は高倉健主演の元特攻隊員の苦悩を描いた作品。ホタルというのは、特攻隊員として帰らぬ人となった魂をホタルにたとえたもののよう。富屋食堂の鳥浜トメと特攻隊員とのふれあいから生まれたホタルを映画のタイトルとしたようです。

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鹿児島-8 知覧特攻平和会館

2018年04月15日 | 太平洋戦争

 知覧特攻平和会館は、鹿児島県南九州市知覧町にある第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示する施設である。陸軍飛行学校が教導飛行師団と改められるのに合わせ、 1945年2月太刀洗飛行学校は第51航空師団と改称。知覧分校は上部組織の第6航空軍に隷属する「第7飛行団」となる。かくして知覧特攻基地が誕生すると振武隊と名付けられた特攻隊が出撃することになった。1945年3月20日付で、陸軍特攻隊の編成が発令される。同時に陸軍第6航空軍は連合艦隊の指揮下に入り、振武隊は海軍側の特攻隊として既に動き出していた神風特攻隊と共同歩調を取ることになる。そして沖縄戦始まった4月1日、第二十振武隊を皮切りに知覧からの特攻出撃が始まった。以後は海軍の鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となり、戦艦大和の最期となった坊ノ岬沖海戦で一度の戦いでは最大級となる陸海軍合わせて300機もの出撃の一翼を担うことになる。

一式戦闘機「隼」III型甲

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