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高知・帝国海軍高知飛行場 掩体壕

2018年03月29日 | 太平洋戦争

 高知県南国市にある高知龍馬空港の前身が、帝国海軍航空隊の高知飛行場である。滑走路の周辺には有蓋掩体壕9基と無蓋掩体壕が32基が建設されていたが、現存しているのは有蓋掩体壕7基だけとなっている。高知飛行場には練習航空隊が配置され、練習機「白菊」が使われていた。1945年戦局が悪化すると、この練習部隊は実戦部隊として前線に動員されることなる。同年3月、練習機「白菊」で『神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊』が編成され、翌4月、連合軍の沖縄上陸を機に発令された菊水作戦に参加した『白菊隊』は、機上練習機「白菊」で特別攻撃に参加。高知航空基地から鹿屋基地や串良基地に進出し、両基地から飛びだった「白菊」のうち26機が敵艦に突入。搭乗員合計52名の搭乗員が散華された。まったく節操のない作戦である。白菊の最高速度は200km/h程度、当時の主流戦闘機の速度が600km/hだから、本当に敵艦に突入できたのかは疑わしい。

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鹿児島-6 幻の特攻基地・万世

2018年03月19日 | 太平洋戦争

 特攻基地と言えば、知覧飛行場が広く知られているが、知覧から西へ約15kmの吹上浜に面する位置に万世飛行場という特攻基地があったことを知る人は少ない。南方戦線の激化にともなって、急遽南さつま市の万世に補助飛行場が造られた。急造のため、滑走路は短く、飛行場の使用期間が約4ヶ月間と短かったこともあり、万世飛行場は世間の人々から見過ごされ、「幻の特攻基地」と言われた。終戦直前の1945年3月から7月までの約4ヶ月間に、特攻機121機が飛び立った。飛行場への空襲などによる被害も合わせると201人の特攻隊員らが戦死した。軍の内部でも秘匿された基地で、戦後、関係書類は処分され、施設も米軍によって取り壊されたため、ほとんど知られてこなかった。1945年3月30日に特攻隊員として出撃するよう命じられた特攻隊員は、わずか1週間後の4月6日に飛び立ち、家族が特攻隊員の死を知ったのは出撃から1年もたってからだったという。しかも出撃地は知らされず、ずっと知覧から飛び立ったと思いこんでいたという。遺族のほとんどは、終戦から約30年たち、旧加世田市から慰霊祭の案内状が届いて、初めて万世飛行場の存在を知ったのである。

 ここ万世特攻平和祈念館は1993年に開館し、1階には1992年に吹上浜より引き揚げられた日本でただ一機の旧海軍『零式水上偵察機』が展示され、2階には若き特攻隊員の遺書・遺品など約700点が展示されている。

外観は憧れの練習機「赤とんぼ」の複葉型を模している

旧海軍『零式水上偵察機』

 

 子犬を抱く少年兵・荒木陸軍伍長はあまりにも有名。撮影場所は知覧ではなく万世飛行場である。彼ら陸軍特別攻撃隊第72振武隊員は1945年3月27日、九九式襲撃機に乗って万世飛行場を出撃後、沖縄本島中部に広がる金武湾の東約50kmの位置でアメリカ軍のレーダーピケット駆逐艦「ブレイン」に突入したと推測されている。

今は跡形も無い万世補助飛行場滑走路

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鹿児島-5 特攻艇・震洋

2018年03月18日 | 太平洋戦争

 震洋とは、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻特攻艇である。この特攻兵器開発は、1944年10月下旬レイテ沖海戦に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に始まっていた。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に250kg炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。「震洋」の名称は、特攻部長・大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したものである。震洋と共に運用された陸軍の攻撃艇・マルレもよく知られている。

 ベニヤ板を貼り合わせた船体は、戦局が悪化し物資が不足する中でも量産が可能で、6000艇あまりが建造され、本土防衛のために広く配備されていた。訓練中に沈没したり、出撃しても敵艦にたどりつかずに数多くの命が戦わずして失われた。米軍からは「自殺ボート」とも呼ばれていた震洋の犠牲者は、2500人以上にのぼる。このように長さが僅か5mほどのボートで敵艦に特攻する無謀な作戦が行われていた事実を知る人は少ない。

 

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鹿児島-4 掩体壕

2018年03月16日 | 太平洋戦争

 掩体壕とは、コの字型に土塁を築き、爆弾が近くに落ちた場合でも、その破片及び爆風から飛行機を守るシェルターである。特攻隊は、日本及び満州などで編成され、訓練を積み前進命令が下されると、沖縄に近い南九州及び台湾の飛行場から進出した。昭和20年以降、日本各地は空襲を受けるようになり、特に南九州の飛行場は標的にされた。そのため、特攻隊が知覧に進出すると機体は直ちに掩体壕に格納され、米軍機の目を欺くため松や杉、雑木などの枝を被せて偽装された。

 

写真は沖縄・読谷村にある義烈空挺隊玉砕の地碑と掩体壕

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鹿児島-3 三角兵舎跡

2018年03月15日 | 太平洋戦争

 三角兵舎跡は 空襲を避けるため知覧飛行場から少し離れた松林の中に造られた。半地下式木造のバラック建てで、屋根には偽装用の幼木をのせていた。ここで特攻隊員たちは出撃までの数日間を過ごしたのである。現在、その跡地には三角兵舎跡の石碑が建てられ、知覧特攻平和会館の隣には復元された三角兵舎が移設されている。

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鹿児島-2 旧陸軍特攻基地・戦闘指揮所跡

2018年03月14日 | 太平洋戦争

 旧陸軍特攻基地「戦闘指揮所」跡の碑。出撃前に特攻隊員はこの戦闘指揮所 前で司令官の訓示を受け、訣別の盃を交わした。そして基地内外の人々が滑走路脇に並び、日の丸や桜の小枝を打ち振って離陸する特攻機を見送った。

 昭和二十年(1945)、ここ知覧から多くの若人が青春の名残りを振り切って、南の空に飛び立って往った。知覧は陸軍の特攻機地のあったところなのである。ここ知覧に陸軍が飛行場を建設して運用をはじめたのが昭和十七年(1942)のことで、大刀洗(たちあらい/福岡県)陸軍飛行学校知覧分教所としてであった。大空にあこがれる少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習仕官らの飛行訓練の場であった。しかし昭和十九年(1944)ともなると戦局は悪化の一途をたどり、十月にはついに海軍は神風特別攻撃隊をフィリピンにおいて編成、特攻の第一陣を出撃させた。陸軍も時を同じくして特攻隊を編成、出撃させた。フィリピンにおける特攻作戦は翌二十年一月まで続けられた。フィリピンにおける戦いで勝利した米軍は四月には沖縄へと殺到した。米軍の沖縄来襲と同時に陸軍では航空総攻撃という名の下に数えきれぬほどの特攻隊を南九州の複数の基地から出撃させ、多くの若者たちを死出の空に送り出したのである。この沖縄に向けての特攻出撃は六月まで続いた。

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鹿児島-1 指宿海軍航空基地

2018年03月13日 | 太平洋戦争

 指宿市東方にある『田良浜』には、指宿海軍航空基地があった。昭和18年から実際に飛行機の発着が行われ,特攻隊として飛び立っていった若者が82名、敵機迎撃によって亡くなった基地隊員が100名以上に及ぶ。「指宿海軍航空基地哀惜の碑」が建立され毎年5月27日の旧海軍記念日には慰霊祭が執り行われている。

 昭和20年2月、米軍が硫黄島の攻略に転じた頃、海軍では戦況の逼迫と燃料の欠乏から練習航空隊の飛行訓練を中止し、予想される沖縄戦に備えて3月に入ると各隊の保有する練習機をもって特攻隊を編成し、特攻訓練を開始した。水上機は北浦空・詫間空の零式水債と九四式水偵の実用練習機を特攻機に転用し、隊員の構成は既に隊付の予備学生十三期生出身者と実用機の訓練を中止して予備学生十四期生・予備生徒・予科練出身者に、これらと出身が同じ偵察員と、3月半ばに偵察の訓練教程を卒業した偵察員が来隊し、ペアが組まれて特攻隊が編成された。水上機特攻の最大の狙いは、指宿基地を中継基地として月明の夜間に乗じて出撃し、沖縄周辺海域に侵攻する米軍艦船、特に輸送船を撃滅して機動部隊の補給を断つことであった。そのために零式水偵は800kg爆弾一発を、九四式水偵は500kg爆弾一発を零式観測機は250kg爆弾一発をそれぞれ搭載し、350浬の飛行実験の結果、重量超過のために片道燃料ならば攻撃可能と断定され出撃を敢行した。

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秋山好古陸軍大将

2018年01月20日 | 太平洋戦争

 秋山好古1859-1930は、日本の陸軍軍人で最終階級は陸軍大将従二位である。満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽力し、日本騎兵の父と云われた。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主役で、連合艦隊先任参謀として、日本海海戦の勝利に貢献した秋山真之は弟にあたる。連合艦隊先任参謀として、日本海海戦の勝利に貢献したとされる秋山真之は実弟にあたる。

墓は道後温泉の北端にある


 1904年の日露戦争勃発を遡ること10年前の1894年7月25日、朝鮮半島をめぐって大日本帝国と清国との戦いが日清戦争である。日清戦争に勝利した日本は1895年4月17日の下関条約(日清講和条約)により、多額の賠償金と領土を清国から譲り受ることとなる。領土の中でも遼東半島はアジア進出を目論んでいた日本にとっては戦略的に重要な場所となる。しかし、清の広大な土地を狙っているのは日本だけではなく、特に南下政策をとっていたロシアは1895年(明治28年)4月23日に日本に対してドイツ、フランスとともに三国干渉を行ったことで、日本は遼東半島を清に返すこととなる。かくして清は欧米列強国に次々と侵略を許し、清の従属国であったベトナムやビルマなどへも進出するのである。そんななか、清で義和団が立ち上がり、「中国から外国の勢力を追い払おう」という義和団事件(1900年6月20日-1901年9月7日)が起こり、清の指導者・西太后も義和団を支持し各国に宣戦布告をするが、日本、ロシアを含む8カ国は共同出兵することでこれを鎮圧、清は更に過酷な条件の北京議定書を受け入れたことで中国の半植民地化は加速していったのである。他国が中国から兵を引き上げる中、ロシアだけは部隊を増強し満州に留まって南下政策を推し進める。これに対して、イギリスと日本は1902(明治35)年1月30日、日英同盟を結び、多くの租借権益がロシアに侵されるのを防いだ。いったんロシアは満州からの兵の引き上げに合意したが後にそれを無視、満州だけではなく、韓国にまで南下政策続行の動きを続けるロシアを危険とみなした日本は遂にロシアとの戦争を1904年(明治37年)2月8日に決意したのである。

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さくら@沖縄・園比屋武御獄

2017年06月15日 | 太平洋戦争

 御獄と書いて「うたき」と読む。琉球王国が制定した琉球の信仰における聖域のことを言う。御嶽は琉球の神話の神が存在する場所であり、祖先神を祀る場でもある。実は琉球の信仰では神に仕えるのは女性とされ、王国時代は完全に男子禁制で、現在でもその多くが一定区域までしか男性の進入を認めていないという。ここ園比屋武御嶽は観光地化していて稀な例であり、多くの御嶽は、現在も地域の女性ノロによって維持されている。 

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さくら@沖縄うるま・シルミチュー霊場

2017年06月15日 | 太平洋戦争

 浜比嘉島の南南東の比嘉集落の南端に、琉球開闢の祖神アマミキヨ(アマミク、 アマミチュー)、シネリキヨ(シルミチュー)の居住跡があり、そこにある洞窟をシルミチュー 霊場といいます。 海岸線を抜け、細い林道を走ります。突き当りがシルミチュー霊場です.宇比嘉の南南東端の森の中に大きな洞穴がある。地元では琉球開びゃく祖神、アマミチュー、シルミチューの居住したところと伝えれれている。毎年、年頭拝みには比嘉のノロ(祝女)が中心となって、海浜から小石1個を拾って来て、洞穴内に安置された壺に入れて拝んでいる。また洞穴内には鍾乳石の陰石があり、子宝の授かる霊石として崇拝され、信仰圏の広い貴重な霊場である。

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さくら@沖縄-世界遺産・玉陵

2017年06月15日 | 太平洋戦争

 沖縄旅行の目的は沖縄戦の歴史、琉球王国の歴史。いずれもかなりの数の史跡を巡り、どこから紹介しようかと迷っている。今日は琉球国王の墓にしよう。玉陵と書いて「たまうどぅん」と言います。尚真王が父・尚円王の遺骨を改葬するために築かれた代々王統の陵墓である。陵墓は3箇所に別れ、東側の室は洗骨後の王・王妃、西室は限られた家族、中央は洗骨前の遺骸を安置する部屋だという。城壁には無数の弾痕が残っていて沖縄戦の激しさが伺える。歴代国王の系図は以下。   
  
┏尚宣威②1430-1477 
┗尚円王①1415-1476 
  ┣
尚真王③1465-1527  
  ┃ ┃ 琉球王国第二尚氏王統の第3代国王
  ┃ ┗尚清王④1497-1555 
  ┃  ┗尚元王⑤1528-1572 
  ┃     ┗尚永王⑥1559-1589-尚豊王⑧1590-1640 
 世添大美御前加那志

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さくら@沖縄 第二尚氏の菩提寺・円覚寺跡

2017年06月15日 | 太平洋戦争

 円覚寺!京都五山の一つに数えられる格式ある寺院である。筆頭はもちろん南禅寺。そもそも五山という制は鎌倉幕府が始めた禅宗寺院の格付けで、後醍醐天皇の建武の新政下では南禅寺と大徳寺を五山の第一位とし、建仁寺、東福寺、建長寺、円覚寺の順位を定めた。南北朝では足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために嵯峨に天竜寺を建立し、足利義満が室町幕府に隣接して相国寺を建立すると五山の制に変化がおこった。南禅寺を五山の上におき、京五山として天竜、相国、建仁、東福、万寿の各寺を位置づけたのである。この京五山に対して鎌倉五山というのがあり、円覚寺は臨済宗円覚寺派の大本山で、鎌倉五山第二位に列せられる。この円覚寺は鎌倉時代後期、北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建されたのである。

 そしてここ沖縄首里にある円覚寺も京都・鎌倉と同じく臨済宗の寺院であり、鎌倉の円覚寺を模して建立されたという。第二尚氏の菩提寺として1494年建立以来繁栄し、寺前にある円鑑池では中国からの冊封使を招いて宴が開かれるなど、琉球王朝史の中で極めて繁栄を見せた寺院なのである。第二次大戦では伽藍など国宝の全てが焼失したが、1968年に総門だけが復元されている。

┏尚宣威②1430-1477 
┗尚円王①1415-1476 
  ┣
尚真王③1465-1527  
  ┃ ┃ 琉球王国第二尚氏王統の第3代国王
  ┃ ┗尚清王④1497-1555 
  ┃  ┗尚元王⑤1528-1572 
  ┃     ┗尚永王⑥1559-1589-尚豊王⑧1590-1640 
  ┃       ┗□・・・・・□尚泰王⑲1843-1901(最後の琉球国王、ペリーと琉米修好条約を締結1854年) 

 世添大美御前加那志

復元された円覚寺の総門

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さくら@沖縄守備隊・陸軍第32軍総司令部の地下壕

2017年06月15日 | 太平洋戦争

 太平洋戦争中の沖縄戦において、日本陸軍は首里城の下に地下壕を掘り、陸軍第32軍総司令部(牛島満司令長官、長勇参謀長)を置いた。地下壕入口は、守礼門から園比屋武御獄石門の前を通って円鑑池に向けて行く途中にある。1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦・ミシシッピなどから砲撃を受けたために27日に焼失したという。さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の多くの文化財が破壊されている。戦後、首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、1992年11月に正殿を中心とする建築物が再建されて首里城公園が完成した。

 ところで陸軍第32軍とは何かというと、1944年3月15日に編成され沖縄本島だけではなく近隣の群島、諸島をその守備範囲として米軍の上陸に備えた守備隊である。この作戦は八原博通・高級参謀によって立案されたもので、司令部はここ首里に置かれ、米軍上陸後は先に紹介したように嘉数台地、前田台地を第一線として戦い悲惨な戦いとなった。私がいつも思うのは、沖縄戦の戦略を立てた高級参謀・八原博通大佐の戦後処理である。歴史を学ぶとき、英雄が何故英雄と呼ばれるかの一つに戦後処理がある。八原博通は大本営参謀・作戦課の軍人である。沖縄戦の作戦を立案し、沖縄県民を巻き込み、23万人とも云われる犠牲者を出したのにもかかわらず、何ら責任をとらずに生き延びている。海軍司令部の大田実少将や牛島満陸軍中将の生き様とは大きな違いがある。日本では、司令された軍人は玉砕・自決し、司令した軍人は無責任に生き延びる構図があり、戦後70年間、公式には何も反省されていないのである。靖国問題はこういうところから始まる一面を持つ。前に少し紹介したが、日本も現在のドイツを見習わなければいけない。ドイツはヒトラー政権の下で極めて残虐な行為を行ったが、国民全員で反省をし教育をすることで戦後処理を世界に発信している。ドイツに旅行に行けば日常からそれらを読み取れる面があるのである。一方、日本はというと日本帝国軍・大本営、参謀本部は70年間何も語らず、何も責任を取らず沈黙を続けている。70年も経った今では生き残っている軍人官僚はほとんどいないだろうが・・・。

 旧海軍司令部地下豪は現在公園として整備されて戦歴が後世に語り継がれている。しかしここ陸軍第32軍総司令部地下壕は何ら整備されることなく放置状態であり、ご覧の通り戦争史跡として無残と言わざるを得ない。その理由はどこにあるのかを考えることが私の根本である。追ってその理由についての持論を紹介したい。

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3式戦闘機・「飛燕」@神戸ポートターミナル 川重120年記念

2016年10月23日 | 太平洋戦争

 3式戦闘機・「飛燕」が神戸ポートターミナルにて公開されると聞いて行ってきた。川崎飛行機・土井武夫氏の開発による飛燕は、1943年に正式採用量産された。土井武夫氏は、三菱が開発したゼロ式艦上戦闘機を開発した堀越二郎氏と同期である。さて、この飛燕、日本にはこの機以外には無い。展示の2型改試作17号機は、敗戦後次々と廃棄・破壊されていく中で、米軍横田基地にて保存展示されたことから生き残った。1953年、日本に返還された後は各地のイベントで展示されたため、部品の損失・機体の損傷が相次ぎ、米軍による修復が行われ1986年から知覧特攻平和会館で展示されてきた。今回飛燕の生まれ故郷である川重の岐阜工場にて修復を実施完了し、展示に至ったものである。

 

 1945年3月9日-10日の東京大空襲では、330機以上の爆撃機B-29が高度2000mという超低空飛行によって38万発、総重量2000トンの爆弾を投下したことで東京はわずか1日にして焦土と化した。では何故このような攻撃を許さざるを得なかったのか。それは日本が完全に制空権を失っていたからである。1944年以前の防空航空部隊は海軍航空隊と陸軍航空隊に分かれており、相互協力関係はなく、1944年以降は日本本土防空戦で実質的な敗北を喫してしまった。海軍では零戦の後継機開発が後手に回り、零戦を使い続けなければならなかった。零戦は艦上戦闘機であり、高高度戦闘性能は低かった。一方米軍の爆撃機B-29戦の主要飛行高度は約1万mである。零戦がその高度まで到達するのは不可能であり、戦闘機能は無いに等しかった。迎撃戦闘機の雷電・紫電・紫電改は、9,000m以上の高高度には達したものの、B-29の主要高度1万mには及ばない。

B29に空対空特攻を実施した三式戦闘機・飛燕

 一方、本土防空の責任を担った陸軍航空隊が、隼の後継機として開発した迎撃機が鍾馗、屠龍、疾風と並ぶ飛燕である。B-29に対抗できるほどの十分な高高度性能は持っておらずに苦戦を強いられたのであるが・・・。ではB-29とはどのような性能を持っていたのかというと、1万mの高高度を約500Km/hの速度で飛行可能で、対戦闘機用にほぼ死角なく機関銃を配置し、乗員の安全に最大限の配慮を行った設計であった。高高度性能に乏しく、レーダーや誘導システムもなく、日本の航空部隊は防空指揮系統や連携訓練などが出来ておらず、各部隊が個別に散発的に戦闘を行っていたのだから戦果が得られないのもあたりまえである。そして、昭和20年3月の硫黄島陥落後は、B-29にはアメリカ軍の戦闘機P-51ムスタングの護衛が付くようになり、もはや太刀打ちができない状態となっていった。一方、一万m以上の高高度を飛ぶB-29に対抗できる高射砲が東京、大阪、神戸などに配備されたが、絶対的な数量不足で対抗不能であったといえる。

 空対空特攻隊はB29の本土空襲を防ぐ防空戦闘隊の要となり、東京防空にあたる244戦隊が全員特攻に徹したといわれるように、通常の戦闘機隊も体当たり攻撃を実施するようになっていく。1945年2月までは幾分かの迎撃・特攻成果を上げたが、2月25日以降は爆撃戦術の主体を夜間爆撃に変更してきことにより特攻の成果はほとんどなくなった。また、3月26日の硫黄島陥落により、B29の絶好の中継地点となり、第7航空軍のP51戦闘機が昼間爆撃するB29の護衛として活躍するようになる。このようにして昼間精密爆撃が4月7日より再開され、4500mの高度でP51ムスタングに護衛されたB29はわずかな損失のみで陸軍戦闘機を撃墜、中島飛行機武蔵工場は度重なる空襲でとうとう壊滅した。最新鋭戦闘機P51の登場はB29の昼間爆撃を可能にしただけではなく、本土防空戦における日本軍戦闘機隊の終焉の始まりとなった。5月に入るとB29は日本上空を思うがまま飛び回り、6月26日の飛燕に搭乗した中川少尉によるB29への特攻を最後に空対空特攻は終結した。

空気抵抗を軽減した液冷エンジン と 高高度性能を達成した過給機

 対戦闘機戦闘には不向きであった飛燕の設計者は川崎飛行機・土井武夫、唯一の国産液冷エンジンを搭載、1943年6月に正式採用されるとニューギニア戦線で活躍するがやがて液冷エンジンの生産が困難にあると1945年2月には空冷エンジンに変更となった。ほとんど故障がなかった海軍の零戦に比べて飛燕は故障が多く、一度出撃すると50%以上が故障のためにメンテを必要とした。そのような状況ではあったが高高度性能に優れていたためB29迎撃機となったが、実際には有効な迎撃はできなかった。飛燕がB29の高高度10000mに到達するのに1時間かかる。一方調布・伊豆大島にしかない警戒レーダによりB29が感知されてから東京上空へ侵入するのに50分であるから、実際にはB29は何の迎撃も受けずに高高度爆撃を開始することができた。それでもふらふらになりながら高高度特攻を試みた飛燕は少なからずB29に損害を与え、パイロットの多くは落下傘による生還を果たしているという。

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天皇皇后両陛下がフィリピンに慰霊

2016年01月31日 | 太平洋戦争

 両陛下は戦後50年に沖縄、長崎、広島、60年にサイパン、70年にはパラオで慰霊を行い、1月26日からはフィリピンでの戦没者に対する慰霊を行った。訪れた日本人戦没者慰霊園は、ルソン島中部カリラヤにあり、ここには太平洋戦争で亡くなった約52万人戦没者が弔われている。しかしフィリピン人犠牲者が100万人にも及ぶことは忘れてはならない。

 1944/7/6 サイパンが玉砕すると、1944年10月11日、大西瀧治郎はフィリピンに向かう途中で中継地の台湾・高雄基地に降りた。この日、索敵機が台湾東方海域に敵機動部隊を発見、台湾は艦上機による大規模な空襲を受けたために、台湾・沖縄を統治していた第二航空艦隊司令長官・福留繁中将は敵機動部隊に対して航空総攻撃を命じた。10月12日から16日にかけての総攻撃で空母10隻撃沈などの成果が報じられたが、すべて誤報とわかり、撃沈した敵船艇はなく、日本側が失った戦闘機は400機にも及んだ。この台湾沖航空戦での惨状を大西は目の当たりにしたあとフィリピン・マニラに到着したのは10月17日、また同日、敵攻略部隊の先陣はレイテ湾東のスルアン島に上陸を開始し本格的な侵攻が始まった。この晩、寺岡中将にかわって大西中将が第一航空艦隊司令長官として就任したとき、必死必中の特攻作戦が練られたという。18日夕刻、艦隊司令部はフィリピン防衛のため捷一号作戦を発動、栗田健男中将率いる戦艦・大和、武蔵などの第一遊撃部隊が、敵が上陸中のレイテ湾に突入して敵上陸部隊を殲滅し、戦艦・扶桑、山城などの別動隊、重巡洋艦・那智、足柄を主力とする第二遊撃部隊が栗田艦隊に呼応してレイテに突入する。その間空母、瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田を基幹とする機動部隊が囮となって敵機動部隊を北方に誘い出すという作戦である。10月19日、大西は第一航空艦隊戦闘機隊・第201海軍航空隊が展開するマバラカット基地を訪れ、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するために、敵空母の甲板使用を不能にすることを理由に、零戦に爆弾を積んだ体当たり攻撃の編成を指示した。隊員の人選は第201海軍航空隊副長玉井中佐と中島少佐に一任された。玉井中佐は気心知れた予科練出身の搭乗員を集めたという。この隊の指揮官が関行男大尉、5月に結婚したばかりの23歳、艦上爆撃機出身の教官であり零戦の搭乗経験はなかったが、後に続くべき隊員の士気高揚を狙っての指揮官選抜と考えられる。

 かくして発動されたフィリピン防衛のための捷一号作戦であったが、状況はどんどん悪化。アメリカ連合軍がレイテ島攻略着手にあたり、20万以上の陸上部隊が投入された。航空支援には陸上機約3200機に加え、艦載機約1200機も参加、海上からも艦隊が火力支援をしていた。アメリカ軍第24軍団と第10軍団は、レイテ島東岸から上陸を開始した。猛烈な艦砲射撃で、沿岸の日本軍陣地は壊滅した。連合軍は急進して26日までに6個の飛行場を確保した。この戦闘の間、日本軍の通信状態は悪く、大本営やマニラの方面軍ではレイテ島の戦況の把握が困難であった。日本が配備した第16師団の残存部隊は増援部隊と合流しながら翌年2月頃まで戦い続けたが、11月20日時点で約3800名、翌年3月には約800名まで消耗していたのである。

 1945年1月9日になると、アメリカ連合軍は、ルソン島リンガエン湾に上陸を開始した。アメリカ軍の第6軍が上陸すると、2個師団がマニラ奪還を目指して南下をはじめ、2個師団が北部の制圧へと向かった。対する日本側の山下大将率いる第14方面軍総勢29万の兵は持久戦を図る。南部へ向かったアメリカ軍2個師団は、1月下旬にはマニラ郊外へ到達した。連合軍は、マニラ南方へも上陸、多方面からマニラ市への攻撃を開始した。マニラにはマニラ海軍防衛隊などが立て篭もり、約1ヶ月間の激しい市街戦となった。3月3日にマニラは陥落したが、それまでに連合軍の激しい無差別砲爆撃によって市街地は廃墟と化した。市民の犠牲者は約10万人と言われ、民間人を巻き込んだ無差別爆撃が行われたのである。日本軍の損害はマニラ市街戦のみで戦死1万6千名に及び、コレヒドール要塞は3月に陥落し、9月上旬に投降した時の日本軍残存兵力は僅かに約280名だった。

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