1945年菊水作戦により特攻が開始された4月11日午後二時四十三分鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、ミズーリに対して爆装零戦特攻機1機が低空飛行で右舷甲板に突入した。突入機の右翼は第3副砲塔上にぶつかり、燃料に引火した。艦は表面に損傷を受けたが、速やかに鎮火した。この攻撃の跡は現在もハワイ真珠湾内に記念艦として保存されているミズーリ船体に残っている。突入機の飛行士の遺体の一部が40mm機銃座から回収され、ウィリアム・キャラハン艦長はこの飛行士を、名誉を持って自らの任務を全うしたとして海軍式の水葬で弔うことを決定した。乗組員からは反対もあったが、艦長の命により翌日12日礼砲5発、全員敬礼をして水葬が執り行われた。永遠のゼロでも描かれている場面である。この飛行士の官姓名は長らく不詳であったが、ミズーリ記念館の調査の結果、鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹の機であったと判明した(同じく第五建武隊の石井兼吉二等兵曹の可能性もある)。1945年9月2日、このような逸話をもつミズーリ戦艦で降伏調印式が行われた。従って8月15日の玉音放送をもって敗戦となっているが、ミズーリー号での調印式日が正式には敗戦日である。
私も知らなかった広島・似島の戦争遺跡、実は広島のとあるカメラマンに案内頂いて訪れました。主には似島学園の近くの弾薬庫跡。
似島陸軍兵器支廠似島弾薬庫跡
階段を上がると上部には弾薬庫の見張り台がある
眺めの良い上部にも弾薬庫の跡地がある
倉庫や弾薬庫を行き来するための通用トンネルは、各所に多数設けられたようです
広島陸軍被服支廠の後に訪れたのが似島という広島港の南に位置する小さな島である。広島港から小型のフェリーに乗って約20分行くと、富士の山に似た似島に到着する。この島に標高300mくらいの山があるが、島全体が山といって良い。見たとおりその山は安芸小富士と呼ばれるらしい。元々この周辺は浅瀬のために大きな舟が入れなかったために、一端荷をおろし小船で安芸の国へ運搬していたという。この説は極めてうさんくさい。まず江戸時代には外洋への渡航が禁止されていたため船舶の発展は途絶えたから大型の舟は無い。一方フェリーで似の島まで行った感じでは充分な水深がある。そして似の島の状況であるが、平坦なところは少なくほとんどが山という島であるから、荷を下ろすにもそんな場所は無いといって良い。つまり似の島を荷卸の中継地点にするには不便すぎるのである。この広島南には島が多く点在している。番号をふって、二の島の名が定着していたと考えるのが妥当だろう。
さて、ここには1895年から第二次世界大戦終了直後まで陸軍の似島検疫所が置かれており、現在でも当時の軍事施設の遺構が数多く残っている。今回はそれらの遺構の案内をして頂いた。その一つが検疫所近くの桟橋。荷は中継しなかったと思うが、軍人はこの島を中継して検疫を受けて本土へ帰っていった。検疫所内にはドイツ人捕虜が収容されていたところもあるという。1945年広島市への原子爆弾投下後には、検疫所が病院として使用され、多くの被災者が似島に運び込まれた。検疫所跡地には戦災孤児に対する福祉を目的とした似島学園があった。
運び込まれた被爆者は1万人、検疫所には軍医や衛生兵が勤務し、設備や医薬品が充実していたためである。8月25日、生きて島をでたのは約500人だったという。
桟橋遺構
帰還兵、軍用武器類はここで荷揚げされた
検疫所・収容所跡
検疫所で亡くなった人達はここで焼却されたという
広島原爆ドーム、平和祈念公園の後に訪れたのは広島陸軍被服支廠。日本陸軍により明治38年12月に竣工したこの被服支廠では兵員の軍服や軍靴などを製造していたが、現在では遺構として管理されている。1905年9月に日露戦争が終わり、その3ヵ月後に竣工というのを考えると、軍国主義の日本に突き進んで言った象徴が、呉海軍工廠(1903年合併)であり、この巨大な陸軍被服支廠(50mx400mくらいの広さであった)といえる。解体か保存かの協議を重ねて現在に至るが、その外観・扉からは「被爆建物」の看板のとおり原爆の爆風によって湾曲した状態を真近に見ることができる。是非建物の中に入ってみたいところであるが、関係者以外は立ち入り禁止である。
琉球王国に降臨したアマミキヨが築いたといわれる琉球最古の古城である。玉城城跡は、琉球を創生したと言い伝えられる神アマミキヨが築き、子孫の天孫氏が城主となり、13~14世紀頃には、玉城按司が居城として城を守り修築拡大をおこなったと伝えられている。王府時代から現在に至るまで「東御廻い(アガリウマーイ)」の霊地として参拝者が絶えない。
広島・原爆ドームに続いて訪れたのはここ長崎。70年前の8月9日、原爆が投下された。時刻は11時02分。元々標的は長崎ではなく小倉であった。先立って発進した天候観測機を含むB-29の編隊6機は都市上空に進入した。原爆を搭載したB-29はボックス大尉が搭乗したボックスカーである。この時小倉上空は天気が悪くて目視で投下地点の確認ができなかったと言われているが、前日の八幡市空襲の煙が漂っていたためとの記録があるという。かくして小倉目標を定めきれないうちに燃料不足、 気候悪化のためボックスカーは小倉上空を離脱し、長崎へ向かった。長崎上空到着は午前10時50分頃、原爆・ファットマンを投下したのは11時02分である。ファットマンは広島に投下されたリトルボーイに比べて威力は1.5倍あり、小倉に投下されていれば、その被害はもっと甚大であっただろうといわれている。「ボックスカー」が投下した原爆は当初の投下目標より、北北西3.4キロの松山町で炸裂した。高度約9,600m上空から投下された原子爆弾は、大小の工場や民家の密集する浦上松山町171番地上空約500mで炸裂、熱線と放射線と強大な爆風はあらゆるものを一瞬にして破壊して焼き尽くしてしまった。熱線は、爆心地表面温度で3,000~4,000度、1km以内で約1,800度。爆風は、爆心地から1km離れた所で秒速170mに達する。長崎型原爆のファットマンの長さ3.25m、直径1.52m、重さ4.5トン 核物質・プルトニウム239 6.2kg TNT火薬換算で21,000㌧相当の爆発力があるという。因みに広島型原爆・リトルボーイの長さ3.0m、直径76㎝、重さ4.0トン 核物質・ウラン235 64㎏ TNT火薬換算で16,000㌧相当の爆発力がある。
長崎原爆といえば、平和公園にある平和記念像、浦上天主堂を思い浮かべるが、原爆が投下された地点は違う。現在の浦上天主堂は新しく建設されたものであり、平和公園の入口の近くにある原爆投下中心地にまずは行ってみた。寂しいことに誰もいない有様である。修学旅行などでも平和公園には行っても投下中心地には行かないと聞いて愕然とした。原爆投下中心地には黒御影石の石柱が置かれ、この上空約500mで炸裂したことを表す同心円の広場となっている。
原爆中心碑から下の川に降りると、被爆当時の地層を見ることができる。上の層は被爆後の復興工事で埋め立てられたもので、その下の黒い地層が被爆以前の地表面。地下2m程にある赤い地層からは100余りの人骨や石に付着した溶けたガラスの破片や気泡だらけの瓦、 炭化した木片が出土した。この地層では、瓦、レンガ、熱で溶けたガラス、茶碗、針金など、当時ここに住んでいた人の生活の様子がうかがえる。長崎ん町HPより抜粋。
「下の川・銘板碑文より」 1945年8月9日、午前11時2分、この松山町上空で原子爆弾は炸裂した。町の東部を流れるこの下の川は、おびただしい死体で埋まっていた。 水を求めて川辺にたどりつき、そこで力尽きて息絶えた者、また、川まではい寄る途中で倒れ、焼死した人々の遺体が数多く並んでいた。その惨状を目撃した被爆者は次のように書き残している。「下の川の、なかば崩れた松山橋を渡る時―ああ、その下には川の水も流れることもできないほどの人間の死体が埋まっているではないか。それはあたかも聖書に出ている世の終わりを想わせる。この世の生き地獄図そのままだ。空は白雲一つない晴れわたった青空というのに、地上はなんという悲惨な光景だ。」(「長崎の証言」1970より抜粋)
ここは平和公園。入口から歩く歩道、エスカレータを使って誘導された場所。正面には平和記念像が見える。高く持ち上げた右腕、水平にかざした左腕等それぞれに意味があるという。確かに平和公園は広大で綺麗な花壇や芝生で整えられている。しかし修学旅行などで当時の様子を説明するにはあまりにも材料が少ない。是非とも原爆投下中心地と松山町を流れる下の川の悲惨な状況説明を最優先にすることを望む。
「日本のいちばん長い日」が8月8日から上映されている。私はチケット予約をし、今日見に行った。案の定盆休みということもあってすごい人である。この映画の原作は半藤一利氏で夏目漱石が義祖父にあたる人物である。文芸春秋に入社した半藤はやがて司馬遼太郎の付き人となる。締め切り迫る原稿の催促をすることも仕事の一つであっただろう。やがて司馬遼太郎と半藤は、太平洋戦争をテーマにノンフィクションを作り上げる活動を行う。そして約15年にも及ぶ調査を経て、出版の仕上げを断念した。それは何故か、太平洋戦争における英雄を誰一人として見出すことができなかったからである。その詳細については既に当ブログで紹介したのでここでは省略する。 「日本のいちばん長い日」を是非とも見てみたいという方にとってはネタバレになるかもしれないが、1945年7月27日から8月15日の玉音放送までのことについて詳しくない方にとっては予習の意味で読んで頂いても差しさわりのない程度に記載する。「日本のいちばん長い日」は一言で言うと終戦に向けて努力をした人々のことを表している。映画のタイトルは「日本のいちばん長い日」なので、昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した1945年8月14日の正午から発生した宮城事件から、国民に対してラジオの玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いているともいえる。
アジア太平洋戦争勃発年表
1937-07-07 盧溝橋事件 : 簡単に北京陥落
1937-12- 南京虐殺 : 南京陥落 東京ドームほどの記念館では反日教育
1938- - 蒋介石@重慶(長江の中州にある高台) 英仏米蘭が物資供給:援蔣ルート
1939- - ノモンハン事件で満州(日本)惨敗Byソ連
1940-09- 石油を求めて南下@仏領北印 : 仏はドイツヒトラーの傀儡ビシー政権
仏領南印には進めない
1941-04-13 日ソ中立条約@松岡洋祐外務大臣 : ソ連はドイツに侵攻したい、日本はさらに南下したい
1941-06- 独ソ戦勃発
1941-07- 南部仏印に進駐して米を怒らせた:ABCD包囲網(America briten dutch china)
日米が宣戦布告してもおかしくはないが・・・1941-12-8までの5か月間
近衛文麿は何をしていたのか?
大東亜共栄圏 : 西欧諸国の植民地化された東南アジアに日本が入り込んで独立させることを目的とする
しかし対米参戦は不利、勝ち目無し → 対米仲直り政策 Fromソ連 By近衛文麿
かくして近衛内閣は崩壊して東条英機内閣発足
1941-11- ハルノート : 1939ノモンハン事件迄さかのぼれば仲直り合意するよ
太平洋戦争は米に仕掛けられた・・・とも言うが・・・途中でやめることもできた
1941-12-08 真珠湾攻撃
1942-06- ミッドウエー海戦 :日本の空母壊滅
1943-02- ガダルカナル島撤兵
1944-10- レイテ沖海戦 :神風特攻+多くの武器投入で惨敗
1945-06- 沖縄戦
1945-08-15 敗戦
さて、主役の一人・鈴木貫太郎(1868年1月18日-1948年4月17日)は、元々海軍大将で、予備役編入後には侍従長に就任し、昭和天皇とともに生きた人物である。二・二六事件において襲撃されるが一命を取り留め、小磯國昭の後任として内閣総理大臣に就任した。もちろん推したのは昭和天皇であるが、当時77歳の高齢であったことから硬く辞したのであるが、押し切られたのである。昭和天皇の真意・戦争を早期に終息させるためには、陸軍の暴走を止めることができる鈴木貫太郎しかいないと天皇は考えたのである。一方1億総玉砕を旗印にポツダム宣言受諾に反対したのは陸軍であり、当時の陸軍大臣は阿南惟幾(1887年2月21日-1945年8月15日)で、鈴木貫太郎の推薦により陸軍大臣に就任した。阿南惟幾は陸軍のトップではあるが、本土決戦にはどうやら同意していなかったようである。では何故陸軍大臣に鈴木が推したかというと、陸軍の暴走・決起を食い止めるのには適任者であったからである。1945年4月、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任し、太平洋戦争継続を主張したが、それは陸軍の決起を抑えるためのものであったようだ。決戦を主張する陸軍とポツダム宣言受諾を主張する海軍による閣議が続くが決着がつかないままに時は流れ、いよいよ聖断を仰ぐこととなった。かくして昭和天皇によりポツダム宣言受諾の聖断が下されて、玉音放送録音が開始されたのである。
この時にあくまで本土決戦を主張した陸軍の若き少佐が畑中健二である。陸軍士官学校予科を経て、1940年6月陸軍大学校を卒業している。陸士教官を経て太平洋戦争に第3軍参謀として出征、1942年3月にはフィリピンに出張し、同年陸軍少佐に進級。この畑中が宮城事件(玉音事件ともいう)の首謀者の一人となり、玉音放送を阻止すべく決起し森赳近衛師団長を殺害したのである。しかしこの決起は未遂におわり、1945年8月15日午前11時頃に二重橋と坂下門の間の芝生上で自決し、辞世の句 「今はただ思ひ殘すことなかりけり 暗雲去りし御世となりなば」を残した。彼は陽明学を学び、吉田松陰に心酔した。それは、遺書からもはっきりと見ることができる。時代が違っていたら間違いなく彼はヒーローであったように思えてならない。しかし結果的には、玉音放送阻止は失敗して敗戦を迎えることとなる。もしも敗戦を受け入れていなければ、3発目の原爆は京都に投下されていた。ご存知のように京都は周りを山で囲まれた盆地であるがゆえに、その被害は甚大で計り知れなかっただろうと思う。私はこの映画での主役は畑中謙二と捉えている。幕末の吉田松陰・久坂玄瑞と重なって見えてしまうのは私だけだろうか。
70年前の今日、長崎に原爆が投下された。時刻は11時02分。元々標的は長崎ではなく小倉であった。先立って発進した天候観測機を含むB-29の編隊6機は都市上空に進入した。原爆を搭載したB-29はボックス大尉が搭乗したボックスカーである。この時小倉上空は天気が悪くて目視で投下地点の確認ができなかったと言われているが、前日の八幡市空襲の煙が漂っていたためとの記録があるという。かくして小倉目標を定めきれないうちに燃料不足、 気候悪化のためボックスカーは小倉上空を離脱し、長崎へ向かった。長崎上空到着は午前10時50分頃、原爆・ファットマンを投下したのは11時02分である。ファットマンは広島に投下されたリトルボーイに比べて威力は1.5倍あり、小倉に投下されていれば、その被害はもっと甚大であっただろうといわれている。
5月7日にドイツが無条件降伏したことで連合国と対峙するのは日本のみとなり、日本の敗北は濃厚となるなか、鈴木内閣は終戦に向けて模索。陸軍主戦派の抵抗が予想されるなかで鈴木首相、木戸幸一内大臣、昭和天皇は意思を一致させていたころ、連合国は7月17日対日攻略方針を固めるためにドイツベルリン近郊のポツダムで会議を開催した。ソ連首相スターリンはヤルタ会談での合意のとおり8月15日の対日参戦の実行確認をとろうとしていた。しかしアメリカ大統領トルーマンは原爆を用いて早期戦争終結をもくろんでいた。というのは戦争終結後のアジア地域へのソ連の影響力拡大を阻み、日本占領の主導権を握りたかった。こうしたなか、7月26日、アメリカ・イギリス・中国三首脳によるポツダム宣言が発せられた。つまり、この戦争は軍国主義者達によって引き起こされたものであり日本国民は彼ら軍国主義者と決別すべきであるという宣言である。これに対して鈴木貫太郎首相は黙殺した。昭和天皇の揺れ動く複雑な思いを熟知していただけに、戦争終結を軽々しく口にできなかったためであるが、結果的には混乱を招くこととなる。日本が戦争終結への展望を見出せないでいる中で、アメリカ政府は単独で日本を降伏に追い込もうと、ポツダム閉幕の8月3日原爆投下作戦を命じた。トルーマン極秘指令を受け取ったB-29エノラ・ゲイは原爆を搭載してテニアン島(サイパンの南西8kmの島)を飛び立ったのである。
テニアン島を出発したB-29は1945年8月6日午前8時15分、原爆を広島に投下した。広島市の上空600mで爆発した原爆は半径2km以内のすべてを破壊し、投下から4ヶ月の間に12万人が死亡、重軽傷者を含めると20万人が犠牲となった。これを知った天皇は早期戦争終結を明言し、最高戦争指導会議で終結協議をしていた矢先の8月9日午前11時すぎ、長崎に原爆が投下され15万人の死者を出すこととなる。二発目の原爆投下によって混乱の極みにあった鈴木貫太郎内閣は、同日150万人の極東ソ連軍が満州・樺太方面に侵攻中であることを知り、対ソ和平に望みをかけていただけに戦争終結の道が閉ざされたと思い知ることとなる。ソ連にしてみれば原爆投下により日本の単独占領を狙っているアメリカへの牽制が必要であった。この動きは米ソ冷戦時代の幕開けでもあった。かくして鈴木内閣と天皇はポツダム宣言での降伏条件検討にはいった。ところが戦争終結派と戦争継続派は相互理解の糸口が見つからないまま時間はすぎていったのである。主戦派を抑えるためには天皇の採決、つまり聖断に頼るしかないとして鈴木首相は聖断を天皇に要請、天皇はポツダム宣言受諾の方向で聖断は下された。
久しぶりの歴史ネタ。暑くて休憩してました。知念城は17世紀末に改築され知念按司の居城であると伝えられ、城跡にはミーグスク(新城)とクーグスク(古城)とよばれる二つの城郭からなる。正門を入ると、「火の神」が祀られている小さな祠がみえ、奥には「友利御嶽」がある。この御嶽や火の神には、地元だけでなく県内全域からの参拝客も多く訪れ、東御廻り(あかりうまーい)の拝所となっている。
昭和20年4月1日から80余日にも及んだ沖縄戦での兵庫県出身戦没者3,073柱の御霊を慰めるために建てられた摩文仁の丘にある「のじぎくの塔」
数多くの沖縄一般児童を祀る小桜の塔は那覇市若狭・旭ヶ丘公園内にある。沖縄戦が濃厚となると学童疎開が許された。1944年8月22日、沖縄から日本本土へ向かう学童疎開船・対馬丸がアメリカ潜水艦「ボーフィン号」の攻撃を受けて沈没。学童826人を含む1661人が悪石島の近海に投げ出され、生存者は学童59人、一般168人だけであった。このことは戦後までかん口令が布かれ、国民に知らされることは無かった。当時県外へ疎開できる者は老幼婦女子のみで、それ以外は疎開禁止令が出ていたのである。つまり軍民一体となることが前提の体制を強要されたともいえる。戦時遭難船舶はまだまだ他にいっぱいあり、厳しいかん口令のために知られていないのが実情であるが、県民が乗船していた船舶は36隻と云われ犠牲者は3427人にも及ぶ。これらの犠牲者のうち約半数は海鳴りの像にて祀られている。
鶉野飛行場跡にある平和記念碑には以下が刻まれている。【神風特別攻撃隊白鷺隊記】 神風特別攻撃隊白鷺隊は、姫路海軍航空隊員より編成され、この地鶉野飛行場において日夜訓練を重ねた。隊長 佐藤 清大尉以下六十三名は、その保有する艦上攻撃機二十一機をもって、昭和二十年四月六日より五回にわたり鹿児島県串良基地より出撃し、沖縄周辺の米軍艦艇にたいし飛行機もろとも体当たり攻撃をくわえ、壮烈な戦死を遂げた。戦いは遂に国土防衛戦に入り、厖大なる物量を誇る米軍の強襲に、わが沖縄守備隊の戦力では如何ともしがたく、菊水作戦が発動され航空機による特別攻撃隊の投入となり、海空による総攻撃が開始されたのである。姫路空白鷺隊も決然としてこれに加わった。隊員たちは出撃にさいし、遙か故郷の愛する家族らに別れを告げ、再び還ることなき特攻に若き命を捧げ、武人の務めを全うしたのである。今ここ鶉野の地に碑石を建立し、この史実を永世に伝え、謹んで殉国された勇士の御霊をお慰めし、併せてそのご加護により、永遠の平和の実現を切に願うものである。 昭和20年4月6日 神風特別攻撃隊・第一護皇白鷺隊、昭和20年4月12日神風特別攻撃隊・第二護皇白鷺隊、昭和20年4月16日神風特別攻撃隊・第三護皇白鷺隊、昭和20年4月28日神風特別攻撃隊・白鷺赤忠隊、昭和20年5月4日神風特別攻撃隊・白鷺揚武隊、いずれも鹿児島串良より九七艦攻にて特攻出撃し、沖縄周辺艦船、嘉手納沖艦船、那覇沖艦船を攻撃した。しかしその成果については不明である。
たまにここへ来ているという長池さんは84歳 敗戦前は零戦に乗りたいという気持ちでいっぱいだったそうで、14歳当時のお話を色々と聞かせていただきました。当時この飛行場で93式中練(赤トンボとの愛称で親しまれた複葉機ですから、第一次大戦中に活躍した機を練習機とした)による飛行訓練が行われていた様子に関する話は印象的でした。17歳前後の若者がここで始めて飛行機を操縦するのです。着陸ができずにバウンドしたり、頭から突っ込んだり、横転したりで大変だったようです。赤トンボによる約30時間の訓練の後は他の飛行場で本格的に零戦訓練を受けるのだとか。またグラマンやムスタングによる空襲により列車が標的にされた話、20mm機銃による攻撃音のすごい話、上官の命令には絶対服従の話、敗戦当時防空壕に大量にあった弾薬の行方話、当時の記録が現在では何も無くどこに保管されているのかもわからずの話、特攻隊員は軍神と崇められたがほかの兵隊の命もまったく同じであるはずの話、何ら戦略なく後へ続けの命令が下された話、戦闘機用燃料に松根油が使われた話、ハリマ化成長谷川社長による松根油話、そしてそもそも特攻隊などあってはならない話、など大変有意義なお話を聞かせていただいたのは2年前。さて今年の盆休みも鶉野飛行場跡に行って、この御仁と再会できることを楽しみにしよう。
ネタ切れではないのですが、新聞記事で失礼します。鶉野飛行場の北西にある大願寺には、軍需工場の第11海軍航空廠姫路補給工場の事務所が置かれた。1945年夏、本土決戦に備えて戦闘機80機が鶉野に集結したが、B29重爆撃機の迎撃に飛び立つことはなかった。戦闘機温存のため飛び立つことは無く、代わって対空砲火が行われたが届くはずも無かった。しばらくすると、広島に新型爆弾が投下され、聞き取りにくい玉音放送によって敗戦を雰囲気で知ることとなる。