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石川-福井-滋賀-16 賤ヶ岳の戦い激戦地 羽柴秀吉 VS 柴田勝家

2024年11月09日 | 国内旅行散策

明智光秀の謀反により信長が暗殺される
 ・1583年 織田軍団内の覇権を目指して羽柴秀吉と柴田勝家が激突したのが本能寺の変の9ヶ月後
 ・山崎の合戦で光秀を下して大きな功績をあげ、さらに織田軍団内での地の利を得た秀吉に有利
 ・織田軍団内は秀吉、丹羽長秀勢と柴田勝家、織田信雄、神戸信孝、滝川一益勢の二つに分かれる
 ・1582-11月、勝家は長浜城主の柴田勝豊に命じ、秀吉と和平を図る
   北陸にいた、前田利家、不破勝光、金森長近が介添え役
   前田利家らと勝家は、北陸方面軍の同僚
   利家は、清洲の浪人時代に勝家から世話になって恩義を感
   一方秀吉とは4女を養女に出すなど親しい同僚関係
 ・が、秀吉は長浜の柴田勝豊を囲み、勝豊は勝家の甥の佐久間盛政と不仲だったことからあっさりと降服し、秀吉方
 ・さらに織田家の後継者とされた信長の孫、三法師秀信を手中にしていた美濃の岐阜城の神戸信孝を降服
 ・翌2月には滝川一益を攻める
 ・勝家は、越後の上杉景勝に越中、能登への侵攻を促す一方で、勝家は徳川家康に書状に送るなど外交戦が展開
 ・1583-2月末勝家軍は越前を出
   府中城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣
 ・柴田の近江侵入を聞いた秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせ、佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出
 ・4月に入って滝川一益が美濃侵攻し、織田信孝が再び挙兵
 ・秀吉は木之本を秀長に任せ、15000人を率いて美濃に向かう
 ・戦いの初期に勝家方に寝返った山路将監が、秀吉陣は正面の神明山の守りは堅いが、その奥の余呉湖東の大岩山の守りが薄いと進言
 ・戦意の高い佐久間盛政が攻撃を強く志願、慎重派の勝家も押さえきれず認める
 ・4-20日の未明、佐久間盛政は張り切って山中の陣を出る
 ・近くの岩崎山の高山右近、賤ヶ岳の桑山重晴に急を知らせ、援護を求める
 ・しかし二人は多勢に無勢と退却、清秀は奮戦するも討ち死
 ・初戦の勝利を盛政が勝家に知らせ、全軍での攻勢を求めると、勝家は撤退を求める
 ・賤ヶ岳の秀吉軍の窮地を救ったのが琵琶湖対岸の坂本にいた若狭と近江2郡の領主の丹羽長秀だった
 ・2000の兵とたまたま舟で賤ヶ岳方面に向かっていた船上から賤ヶ岳方面で戦が行われているのを知った長秀は
   部下の反対を押し切って海津から上陸
   いったん賤ヶ岳を降りた桑山晴重らと再び登り、拠点を確保
 ・21日盛政軍は秀吉が駆けつけてきたことを知り、撤退を決意
 ・勝山城主の柴田勝安がしんがりとなるが、この勝安軍に大垣から来た秀吉の本体が攻めかかる
 ・福島市松、加藤虎之助ら後に「賤ヶ岳の七本やり」と宣伝される
 ・新手の勢いをうけて佐久間隊総崩れとなり、勝家与力の不破勝光、金森長近も戦線を離脱し勝家軍はついに総崩れとなった
 ・賤ヶ岳の七本槍
   福島正則 加藤清正 片桐旦元 脇坂安治 加藤嘉明 平野長泰 糟谷武則 

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