加古川城主 糟屋武則
当時の城は山城であり、加古川の現在の地に建てた平城とは考えにくい。
・加須屋城は、播州三木城地図には描かれておらず、野村城(加古川市八幡町)ではないかとの説もある。
・1578-2-23 信長公記では、加須屋城で毛利攻め会議を開いたとある。
・野口城・長井氏、----清州一の名城 3000石:籠城数十人(播州太平記では籠城380人) 今は教信寺
・神吉城・神吉氏、----劣勢で守った悲劇の城
・志方城・櫛橋氏、----光のふるさと
・は三木城・別所氏に味方し秀吉に敵対する。
糟屋武則で代表される糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家
・で、播磨国にて別所氏の家臣であった糟屋忠安の次男である。
・武則の母が兄朝正を産んだ後、豪族志村氏と再婚し、その際に産まれたのが武則である為に本性は志村だったとされている。
・1577年の羽柴秀吉の播磨攻めの時に朝正が別所長治について三木城に入った為、
武則は兄と袂を分かって織田方につき、糟屋の姓を名乗りその後武則は黒田孝高の推挙により羽柴秀吉の小姓頭となっている。
三木合戦は以下の書にある(江戸期)
・別所記
・播磨御征伐記
・法界寺絵図
・播磨鏡
・1583年、賤ヶ岳の戦いで武則は佐久間盛政配下の宿屋七左衛門という武士を討ち取るなどして活躍し、
福島正則や加藤清正らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、
その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。
・その後も小牧・長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐などに兵150名を動員して参加している。 また
・1586年には方広寺大仏の作事奉行、
・1591年には近江国検地奉行を務めるなど行政面でも事績を残し、後陽成天皇の聚楽第行幸の際には天皇の行列に供奉している。
・この他朝鮮出兵にも従軍し、
・1592年には新庄直忠らとともに朝鮮人逃亡流民の帰郷を促す訓令を発布するほか、1593年の第二次晋州城攻防戦に参加するなど活躍し、
・1595年には播磨加古川城主(12000石)になった。
・七本槍の中で唯一西軍に加わり、360名の兵を率いて伏見城の戦いや関ヶ原の戦い等に参加した。戦後改易され、後に許され
・1602年に旗本として徳川家臣となるが、その死後、糟屋家は再び断絶となった。
糟屋忠安?-?
┣糟谷朝正 平井山合戦1579年で討死
┣糟屋武則1562-?(1595加古川城主、関ケ原戦で改易 長浜城歴史博物館に武則所用と伝わる銘助光の大身槍(平三角槍)が所蔵)
┃ ┃1577三木合戦が初陣
┃ ┃1580家督を相続
┃ ┃1582本能寺の変の後、山崎の戦いに参加
┃ ┃1583賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政配下の宿屋七左衛門と槍を合わせ武功を挙げる
┃ ┃1584小牧・長久手の戦いでは、他の七本槍と共に馬廻衆として本陣を守る
┃ ┃1590小田原征伐にも兵150名を動員して参加
┃ ┃1592文禄の役では、目付として片桐且元らと共に200名の手勢を引き連れて名護屋城へ出兵
┃ ┃1595 6,000石の加増を受け、加古川城主1万2,000石の大名となる
┃ ┃1600関ヶ原の戦いで宇喜多秀家隊に属して奮戦。戦後処理で家禄を没収されて改易された
┃ ┃1602領地を1万2,000石に回復したが、1615年大坂夏の陣にて討死?
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┣糟屋宗孝(関ヶ原の戦で改易後復活するが大坂夏の陣にて討死)
┃ ┣十左衛門(加賀藩主・前田利長に召し抱えられた)
┃ ┗加藤権左衛門
┃ ┗娘(黒田二十四騎の一人、益田正親の室)
┣糟谷助兵衛
┃ ┗加須屋武成(保科正之に召し抱えられ弓術日置流道雪派の祖となる)
┣糟谷武政(大坂夏の陣の後、加古川市米田町船頭で帰農)
女(小寺政職の妹)
加古川城跡は現在称名寺となっている