西行法師も今は70歳になろうとしていたが、ある目的があって奥州平泉を目指して旅をしていた。俗名は佐藤義清とい若かりし頃には、平清盛とともに兵衛尉に任ぜられ、鳥羽上皇の北面として奉仕していたが23歳の時に出家し、のちに西行と称した。袈裟御前と縁多い文覚(俗名 遠藤盛遠)も北面時代の仲間である。出家の動機は諸説あるが、一説に白川院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子への恋着のゆえであったとも言われている。出家後はしばしば旅に出て多くの和歌を残した。讃岐国では崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えられている。先日鎌倉の頼朝に面会したあと、静御前を慰めていた安達新三郎清経と話を交わしたあの貧乏法師が、西行でもある。この旅では、途中病に倒れ木賃の者から芋粥などを乞いながら、やっとの思いで奥州にたどり着いていた。次のような歌からも伺える。「捨て果てて 身はなきものと おもひしも 雪の降る日は 寒くこそあれ」 鎌倉を出たのが八月であったが思わぬ病気などで奥州に着いたのは雪深い真冬である。奥州藤原秀衡は西行の到着を心から歓迎し、いたわった。実は秀衡と西行は遠い親戚にあたり、会うのも今回が二回目である。西行は東大寺重源上人の切なる依頼から、ぜひなく下ってきたこと、そして大仏殿造営の寄進を乞うのが目的であることを告げた。西行はしばらくこの平泉に逗留していたがいろいろなことが耳に入ってくる。秀衡には長兄・国衡のほか、正妻の嫡子・泰衡、高衡、忠衡、通衡、頼衡と六男がいたが、父秀衡を受け継ぐ器量の持ち主がいないとか、義経の奥州入りがまじかとみえて、館拵えの造作で忙しいとか。 何故か悪い予感に憂いを抱く西行である。いつか頼朝の命で夜襲を行った土佐坊昌俊が義経の返り討ちに会ったときには、頼朝は、頼もしい弟になったことよと喜んでいる。また、今回の義経奥州くだりも、頼朝にとっては奥州攻めの大義名分ができて、喜んでいるのではないかとさえ、思う西行であった。春になると西行は奥州を後にした。かつては門脇殿の所領とか小松殿の所領とか、いずこの地でもみられた門が、今や鎌倉の地頭にいれかえられている。守護地頭の兵がなだれ込んだ際に、平家の末の末という人々は皆山の奥地へ逃げ込んだ様をみると尚一層憂う西行である。
嵯峨小倉界隈
西行法師が住んでいた京都嵯峨・二尊院の境内