洛中では、鎌倉の命により義経を躍起になって探している。東国武者幾千騎である。静と別れた義経一向は、藤室の八僧に護衛されながら吉野から伊勢、奈良と転々とし、その居所は全くわからない。洛と奈良近辺で神出鬼没な土佐の君という屈強な僧兵らしき者が義経の居場所を知っているという。しかしその者を、千光坊七郎とも叡山の俊章とも武蔵坊弁慶ともいわれ、全く実態がつかめないでいた。 実は、義経主従は堅田三家に匿われてたのである。三家とは、堅田家、刀禰家、居初家をいい、義経が奥州平泉から熊野へ上った頃から縁があった。平家全盛の頃、洛内にて群盗騒ぎ、放火沙汰が相次いだが、あれは叡山の党衆と堅田党が起こしたものであったが、平時忠に一網打尽にされたことがあった。その時に全員の身柄が放たれたのである。 それは義経が自ら人質となって平時忠を訪れ開放を願い出たからである。 もちろん条件つきである。 今、堅田党はそのときの恩に報いるべく結束し、 匿っていたのである。 今や、頼朝の所領の追尾も堅田に及ぶことも考えられ、頼朝追討の意さえも表していたのである。一方、阿部麻鳥は静御前から預かった義経への文を携えて、あてもなく義経を探そうと放浪の旅医者をしていた。 そして刀禰弾正介の北の方の手当てをする偶然に出会ったのである。 北の方を診るために訪れたのは、刀禰家であった。 そして仔細を聞いた麻鳥は、まもなく義経主従に会うこととなる。 そこで知ったことであるが、土佐の君とは刀禰弾正介の嫡子・左金吾、千光坊七郎とは居初権五郎、叡山の俊章とは堅田帯刀であった。
義経主従が匿われていた場所とは、琵琶湖の北の磯遠くに浮かぶ小さな島、竹生島であった。そして今からは、奥州へ落ち延びる覚悟でいた。そして義経は刀禰弾正介から手渡された静からの文を読んだ。 「今朝鎌倉へひかれて下りまする。君はいずこに。また、身はどこへひかれましょうとも・・・・。吉野山のおことば、日夜、忘れませぬ。今更の、おこたえとて、重ねませぬ。 ただただひとつ、すぐにでも告げまいらせたいうれしい兆しが、身のうちに宿りました。詳しいことは薬師の麻鳥からお聞き取り賜りませ。 もう、迎えの獄卒が門にきております。 ごきげんよう。」 義経は静が身篭っていることは知らなかった。 身重でありながら鎌倉へ詮議を受けにいく辛さを思うと涙がでてとまらない。 かつて、ここ竹生島は木曾義仲が洛入し、平家の大軍が北陸へ下る時に、平皇后宮亮経正が立ち寄り阿部麻鳥と対面し清盛公の臨終の際世話になったと琵琶の音を披露した。 そして経正は一の谷で見事に果てたのである。 老禰宜から、そのようなことも聞くと義経の胸は尚一層痛むのである。 義経は奥州へ下る前に是非ともあっておきたい人がいた。 仁和寺の門主守覚法親王である。覚性入道親王の後を継いだ、後白河法皇の第四王子である。洛入りは至難の業であったと思われる。よほど宮に会って話を望んだのだろう。宮の著書、御室左右記に、このときの出来事が見聞随想として書いておられるのである。
宝厳寺唐門を抜けると頂上には宝厳寺本堂 【真言宗宝山寺派厳金山宝厳寺。俗に竹生島観音。西国札所第三十番。神亀元年に聖武天皇の勅命によって行基が開基。弁才天をまつったことにはじまるという。】
竹生島 宝厳寺