1755 画家の娘として誕生@仏 マリーアントワネット誕生@ハプスブルク家
先祖はシャルル・ルブラン1619-1690
ルイ14世の第一画家、王立絵画彫刻アカデミーやゴブラン工場の設立運営に関与、17世紀フランス工芸・美術界に強い影響を与えた
1774 聖ルカ組合会員となる 同年マリーアントワネットが王妃となる
1776 画商ピエール・ルブラン(王室アカデミー初代会長シャルル・ルブランの子孫)と結婚し仏宮廷画家としてセレブの肖像を手掛ける
1780 ジャン・ルイーズ(通称ジュリー)を出産
妊娠中に、ルブランが落とした画材をマリーアントワネットが拾ったという逸話あり
1781 フランドル地方に旅行中、オランダ王の肖像画を手掛ける:ルーベンスの影響
1783 仏王立絵画彫刻アカデミー会員となる
女性画家ラビューユ・ギアールとともにルイ16世の推挙があったという
ギアールの弟子がマリー=ガブリエル・カペ1761年-1818年
フランス革命後はイタリア、オーストリア、ロシアへ逃亡
1802 フランス帰国
1814 プロイセン軍により家屋没収
ロココが終わり新古典主義の時代に大流行したのがルブランが来ているシュミーズドレス(モスリンドレスとも言う)、冬は極めて寒いため、カシミアショールが流行する。カシミアはインド・カシミール地方の特産品、英国はこれを大量に輸入した。英国の港ペーズリーにちなんで、ショールの柄をペイズリー柄という。口を少し開けて歯を見せている、これは今でこそ微笑ましい感じであるが、当時は品がないと捉えられて、この絵は誹謗中傷された。
1781 フランドル(現在のベルギー)、オランダに旅行し、ルーベンス1577-1640の影響を受ける
シュザンヌ・フルーマン(ルーベンスの妻・エレーヌ1614-1673の姉にあたる)の帽子に影響を受けて自分の肖像画にも取り入れている
当時はやりのミューズドレスに麦わら帽子 + カシミアショール(インドカシミール地方の羊毛+ペーズリー柄)
1783 仏王立絵画彫刻アカデミー会員となる マリーアントワネットやルイ16世の後押し
貧乏貴族であった美人ポニャック1749-1793公爵夫人の肖像画を手掛ける
ルイ15世と言えば公式愛妾ポンパドール夫人
【ルイ15世の愛妾の一人 ポンパドール夫人1721-1764】 ジャンヌ・アントアネットは公妾。その権力を大いに利用して政治に強く干渉し、オーストリア、ロシアの女帝と組んでプロイセン、イギリスに対抗したペチコート作戦は良く知られている。平民でありながら高い教育を受け、超一流のサロンに出入りするようになる。あの欲深いシャトールー侯爵夫人の死に悲しむルイ15世の目にとまり、ポンパドール侯爵夫人の称号が与えられて、夫と別居後正式にルイ15世の妾になった。するとあちことに邸宅を建てさせ、政治に無関心なルイ15世に代わって権勢を振うようになる。夫人に推されて大臣になったエティエンヌは事実上の宰相となった。オーストリアとは宿敵であったが和解。かくして後にマリーアントアネットがフランス王室に嫁ぐことになる。芸術にも秀でてサロンを開催し優雅なロココ様式に発展時代となった。ルイ15世と寝室を共にすることがなくなると、自分の息のかかった女性を紹介するべく、鹿の園を建てて好みの女性200人を住まわせたという。現在のリーゼント髪型はポンパドール夫人が好んだ髪型で、当時はポンパドールと呼んだらしい。かくしてルイ15世は夫人が42歳で亡くなる迄寵愛したという。
1789 フランス革命ではマリーアントワネットが処刑@1793 伊、オーストリア、ロシアへ逃亡
美人ポニャック1749-1793公爵夫人はマリーアントワネットに寵愛され、贅沢三昧。
かくしてボニャック家のフランス市民から憎悪の目が向けられ、逃亡中に病死している
1802 仏に帰国
1807 スイスへ旅行 小説家スタール夫人の肖像画
1807 仏に帰国
1814 プロイセン軍により自宅没収
1842 86歳で没する