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平家最期の武将

2005年09月25日 | 平家物語
平智盛 平清盛の息子従二位権中納言

平家最後の残照を一人輝かしめた勇将で清盛が一番愛した息子だったとも。名前の「知」ですが「智」とは、実は格がまるで違います。仏教用語では「知」は単なる知識に対して、「智」は極めて高い次元の仏の叡知と言う意味なのです。
平清盛の4男、母は平時子。1181年征夷大将軍として左中将平清経・小松少将平有盛ら3万余騎をもって源行家を尾張洲俣・美濃板倉の合戦で破る。その功により参議・従二位権中納言にすすんだ。
1183年源義仲の上洛に際して粟津で戦ったが敗れ、京都をすて太宰府に落ちた。のち讃岐の屋島を本拠地として瀬戸内海に勢力圏をつくり上げ、源義仲の派遣した足利義清を備中水島の合戦で、源行家を播磨室山の合戦で破った。
1185年壇ノ浦で源義経に敗北したとき、安徳天皇をはじめ二位尼・建礼門院など一門の女官に入水をすすめ、自らも郎等・乳母子の伊賀家長とともに入水した。もう一人、平維盛(これもり)を紹介してみよう。一の谷の合戦で没した敦盛同様、その美貌は女性ファンを引き付けるところである。「桜梅少将」維盛は清盛の長男重盛の長男、そう、平氏の嫡流にあたる御方です。花の美しさも圧倒されてしまうほどに美しく、わたくしたち女房の誰もが、かの君に憧れるほどでした・・・とは建礼門院右京大夫のことばです。維盛15歳のときに、13歳の藤原成親女と結ばれた。維盛は源平合戦の途中、妻子恋しさに一門から離れ、都に戻ろうとするが断念し、出家、入水して果てる。27歳でした。残された北の方は、夜叉御前を連れて、都の貴族と再婚し、六代は出家する。頼朝の死後、六代もついに斬られて、平家の子孫は絶えたとされている。

平宗盛 清盛の三男。母は清盛の正室の時子。
1147年生まれで権中納言兼春宮大夫異母兄。重盛・父清盛の死後は一門を統率したが、兄ほどの力はなかった。甥に当たる安徳天皇を位につけ外戚として朝廷に権勢を振るった。清盛が死ぬと一門を率いて源氏と戦った。木曽義仲は礪波山に平氏を破り京都に迫ったので、宗盛は宇治、勢多に迎え討ったが防戦しきれず安徳天皇とともに都落ちした。一門と共に大宰府に落ち、次いで屋島に移り、備中、播磨に義仲、源行家の軍を破り、一ノ谷に陣を進めたが源義経に敗れ、屋島・箱崎と源氏に苦戦し遂に壇ノ浦で決戦に及んだが大敗し(最後があまり見苦しいので平家の侍達に海の中へ突き落とされますが、泳ぎが達者だった宗盛は死のうとしないで泳ぎ回っているところを他の侍に助けられた。)、宗盛は長男清宗とともに捕らえられ鎌倉に送られた。間もなく京に送られ途上義経に斬られる。

建礼門院徳子 清盛の次女
高倉天皇の中宮として安徳天皇を産み“国母”となる。帝の死により「建礼門院」の院号を宣下された。源氏の上洛に安徳帝を伴って一門とともに都を落ち、“壇ノ浦”で安徳帝とともに入水したが、彼女だけ助けられて京に送られる。まもなく出家し、大原寂光院で余生を送った。 (写真)

【智盛の兄弟】
重盛(維盛、資盛の父)、基盛(行盛の父)、宗盛、知盛(知忠、知章・一の谷で死すの父)、重衡(一ノ谷で捕虜)、徳子(1171年高倉天皇に入内。1178年、安徳天皇を生む)、盛子、寛子、知度(倶利伽羅峠の合戦で討死)、清房(一ノ谷で討死)、廊の御方(常盤御前との子)
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