平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

源氏の勇将と平氏の若武者

2005年09月25日 | 平家物語
屋島の合戦ではお互いに勇将を失っています。継信と菊王丸です。

平家方の能登守教経(のとのかみのりつね)は、京都一の強い弓引きであった。(那須与一と弓で、K-1グランプリしてほしかったなあ。失礼・・)義経を守ろうと盾になっていたのが佐藤三郎兵衛継信、佐藤四郎兵衛忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶です。しかし勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして能登守教経の強弓に倒れます。

教経に仕えていた菊王丸は継信の首を切り落とそうとしますが、そうはさせまいとする継信の弟忠信の弓に倒れます。菊王丸は教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰るが息を引き取ります。18歳でした。能登守射抜かれた佐藤継信は、陣の後方へと運びこまれます。
継信は「何を思い残すことがあるでしょうか。あなた様がご出世なさるのを拝見しないまま死にますのが残念ですが、弓矢を取るものが敵の矢にあたって死ぬことは覚悟していました。とりわけ『源平合戦で、奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、屋島の磯にて、主君のお命にお代わり申し上げ討たれた』と末代まで語り継がれるならば、現世での名誉、冥土(めいど)に旅発つ思い出でございます」

義経は、志度寺から僧侶を探し出し、継信を弔うよう、黒く立派な馬に縁を金でおおった鞍を置いて、僧に下された。この馬こそ、義経の愛馬太夫黒(たゆうぐろ)、あの一の谷の戦いで断崖をともに駆け下りた馬でした。
義経は強弓ではなかったので継信にはひとしおの想いを寄せていたと思われ。

義経が兵を引き上げようとすると、沖のほうから立派に飾った小船が一艘渚に向かって漕ぎ寄せ磯まで近づいたところで、船を横向きにしたのです。船の中から十八、九ほどの優雅で美しい女官が、柳の五つ衣に紅のはかまを着て真紅の地に金箔で日の丸を描いた扇を竿の先につけ、手招きをしたのです。弓の名人が幾人もおりますが、中でも下野国の住人与一宗高が指名された。
「海へ一段ばかりうちいれたれども、なお扇のあはひ七段ばかりあるらんとこそ見えたりけれ」と平家物語には描かれております。一段が11メートル弱なので約76メートルになります。
実は私、洋弓(アーチェリー)の経験がありまして;;競技では30m,50m,70m,90mの距離を各6本の矢を放って競います。オリンピッククラスですと30mではほぼ真中に命中します。
(真中10点の部分は径10cmくらい)しかし70mでは、6本(1セット)のうち真中命中は1,2本です。90mでは・・・・・。当たったかどうかは、小さい望遠鏡で確認します。照準器がない和弓の場合、76mで真中命中は風があれば不可能に近いのです。風がなくても私は無理です。 あったりまえか・・・。っはっは
コメント    この記事についてブログを書く
« 壇ノ浦の合戦  | トップ | 平家最期の武将 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

平家物語」カテゴリの最新記事