福原ではあわただしい日々が続いていた。清盛が洛より遷都を決めたからである。無計画な遷都に不自由このうえない公卿殿上などは洛での生活を恋して病まない。二帝に仕えた藤原多子の弟・後徳大寺左大臣実定などがそうである。洛の近衛河原に残った大宮・多子は、このとき40歳を超えた今、古き都を思いつつ嘆いた。平家一門にも東国の挙兵、木曾の叛乱が聞こえてきた。伊豆に流浪の身の頼朝への監視などは、北条時政、伊藤祐親、山木判官などに命じ、源頼政、子の伊豆守仲綱には配所に関する報告を聞き取っていたが、我が身の寛大さに足元をすくわれた清盛は悔恨にまみれたことだろう。ようやく平家側に対策が明らかにされた。頼朝追討の宣旨が発せられ、大将として小松少将維盛、副将に薩摩守忠度が任命された。本来出陣の儀式は紫宸殿(御所の正殿で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が行われた建物)で行われるが、折も折、略式で行われた。清盛は盛装後、雪の御所の正殿で二人の東国への餞別を行った。いよいよ福原から洛を過ぎ、二週間後には駿河の清見が原に着き、先鋒は富士川に到着していた。実はこのとき斉藤別当実盛という老将が少将維盛、副将忠度に付き添って出陣していた。彼はその昔義朝に仕え保元・平治の乱では勇姿を誇ったのであったが、その後宗盛に服していた。今ここに東国に詳しいとあって宗盛の命にて出陣する日、在京の源氏・畠山庄司重能・有重兄弟の源氏加勢の誘いを断っていた。実盛はもはや先なき身、あすは敵味方となって戦おうと杯を酌み交わしたという。兄弟に六波羅の手形を渡すと、次の日には平軍にいた。平軍の戦況は著しく悪かった。伊豆南の伊藤祐親や相模の大庭一族とともに頼朝勢力を取り囲む戦法でいたが、逆に頼朝軍に奇襲をかけられた伊豆南の伊藤祐親や相模の大庭一族はすでに滅んでおり、勝算の見込みがないと悟った老将・斉藤別当実盛は戦法の練り直しを申し出るが、上総守藤原忠清は聞く耳をもたず。そして夜明けには案の定、平軍ちりじりに退散する羽目となった。こうして少将維盛、副将忠度は二万の軍を率いながらも惨めな帰還となり清盛の激怒にふれるのである。
平忠度の埋葬地