平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

役小角縁の護摩行事

2012年11月04日 | 奈良・飛鳥時代

 兵庫県加古川にある鶴林寺では、国宝太子堂再建900年記念ということで、本堂秘仏本尊薬師如来・太子堂 特別参拝が10月6日より始まっている。紅葉も期待して出かけてみると本日は16:00から護摩行事も行われるとのこと。護摩の荒行などとよく聞くが、どんなものなのか実際には見たことがなかったので最後まで居残ってみることとした。護摩行事といえばその開祖は役行者で有名な役小角である。

 役小角(えんのおづぬ、634年伝 - 706年伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、役行者と呼ばれ修験道の開祖とされている。 『続日本紀』は、699年に、役君小角が伊豆島に流されたことを伝えている。 小角ははじめ葛城山に住み、呪術によって有名になった。 弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると讒言したため、小角は遠流になったという。 役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。 霊異記で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。 大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金剛山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。

 当時は持統天皇朝で、天武天皇の意思を受け継ぎ藤原京(698年遷都)を造る前のことである。 大宝律令により戸籍の原型が出来上がり、民に租税を課し苦しめる一方で朝廷は贅沢を極めている。 藤原鎌足の子である不比等が中臣連大嶋を追い抜き権勢を拡大していこうとしていた頃である。 持統天皇の寵愛する息子・草壁皇子は亡くなり、軽皇子(後の文武天皇)を次期天皇に擁立させようと躍起になっていた頃である。 役小角は道昭という禅僧を師としていたらしい。 因みに行基や玄坊も道昭の門下から出ている。 藤原京の造営にはどれだけの民衆の苦役が課せられたか想像を絶する。 かくして大規模な集団脱走が起こった。 追っての総隊長は大和一の武術家・坂上忌寸大国といい東漢氏出身で坂上狩田麻呂の祖父にあたる。 不比等の放った律令制度に対して不満を抱く貴族も中にはいて、中臣連大嶋や彼の意思を受け継いだ三輪朝臣高市麻呂もそのひとりである。 また太政大臣である高市皇子もそのひとりといって良い。 脱走した集団のほとんどは捕らえられたが中には山賊になるものもいる。 集団の首謀者と思われる者は北伊勢の首長であった朝日郎子の血を引いた気骨のある氏族で、火焙りの刑になるという。 この件で早速三輪朝臣高市麻呂と役小角は密談をかわした。 三輪朝臣高市麻呂は壬申の乱で武勇をあげ、学識にも優れた人物である。 火焙りの刑が行われる場所を聞こうとしての密談である。 三輪朝臣高市麻呂は女帝に御幸は農民に負担をかけることになると諌めたために、謹慎の身であったが故に情報収集力が弱かった。 当時不比等よりも実力を持ち、闇に暗躍していた石上朝臣物部連麻呂は昔、大友皇子に仕えてはいたが大海人皇子と密通しており、壬申の乱後重用され、今や持統天皇にも重用される存在となっている。 役小角の動きを今のうちに断ち切っておかなければならないと考えていた人物である。 そしてこの火焙りの刑で役小角をおびき寄せようと考えていたに違いない。

 役小角の弟子・虫麻呂が三輪朝臣高市麻呂の間者・山虫から受けた情報によると、刑の場所は葛城、室の大墓のちかくらしい。 室の大墓といえば葛城襲津彦の墓と云われている場所である。物部連麻呂は太政大臣・高市皇子に呼ばれ、火焙りの刑が令には無いこと、女帝が憤慨していることを告げた。 物部連麻呂は、反逆者である役小角をおびき寄せるために物部連広川が仕組んだものであり、火焙りの意思はなかったことを説明した。 今高市皇子は天皇位を巡って微妙な位置にいる。 物部連麻呂を敵に回すのは得策ではないと思ったのか、話題を役小角逮捕に変え、女帝には火焙りの刑などなかったと伝えることにした。 坂上忌寸大国は朴井連雄君の甥にあたる朴井連子麻呂の役小角攻略について意見を求めるが、感心がないような口調である。 物部連麻呂は石上神宮を擁して今の持統天皇朝で頭角を現したのであるが、朴井連雄君が早くに亡くなった後物部に押されたためか闘争心に欠けている。

コメント    この記事についてブログを書く
« 新・平家物語 第14話 少... | トップ | 川村茉由さん »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

奈良・飛鳥時代」カテゴリの最新記事