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押坂彦人大兄皇子・牧野古墳

2008年09月23日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 牧野古墳は直径が55mで高さは13m、三段に築造されていて、三段目の封土の中に巨石を使った横穴式石室が築かれた円墳である。  1983年に実施された調査によって、巨石を使用した全長17.2mの両袖式横穴石室の全貌が明らかになった。馬見丘陵地帯は粘土質で、自然石の少ないところであるにもかかわらず、最大の石は60トン近い大きさで、奈良県では石舞台古墳の天井石についで二番目の大きさである。 大型石室の内部には奥壁に添って横向きに刳抜式の家形石棺が安置され、その手前には組合せ式の家形石棺が置かれている。 副葬品は意外に多く残されていて、総数で2万点にもおよんだという。 装身具類は金環と各種の玉(金銅製梔子(くちなし)玉・ガラス小玉・粟玉)が、馬具は本心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)や、縁金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板と杏葉等がニ組分出土した。 武器は、銀装の大刀と400本近い鉄鏃があり、羨道に集中していた容器類のなかには、木心の金銅張容器と総数58点の須恵器があった。 須恵器の形式その他から6世紀後半から6世紀末にかけて築造された墓であることが分かった。

 

 巨大な前方後円墳が数多くある馬見古墳群の中では、直径50mの円墳は決して目立つ存在ではないが、注目しなければならないのは、巨大な前方後円墳が築かれなくなった6世紀後半から6世紀末に造られている点である。大和地方の最後の前方後円墳は、明日香の欽明天皇陵(509-571 梅山古墳)であると言われており、その後は一辺50m程度の方墳が王陵の墓になる。 したがって、牧野古墳は築造当時としては最大級の墓だったといえるのである。  牧野古墳の石室は、桜井市の赤坂天皇山古墳(被葬者として崇峻天皇が想定されている。)のものと非常に似ており、同じ設計図、つまり同じ技術集団によって築かれたと見なすことができるという。  崇峻天皇は、西暦592年11月、蘇我馬子が放った刺客・東漢駒によって殺された。 方墳と円墳の違いが、天皇の墓と天皇より少し身分の低い人の墓の差であると仮定した場合、牧野古墳の被葬者は、崇峻天皇が死亡した頃の皇族に範囲を特定することができる。

 927年に編まれた『延喜式』は、舒明天皇(593-641)の父にあたる押坂彦人大兄皇子の墓は、大和国広瀬郡にある成相墓ならいのはか)であると記している。 広瀬郡は現在の河合町や広陵町にまたがる地域で、その大半は馬見丘陵が占めている。 『延喜式』に記された成相墓の墓域の広さは東西15町、南北20町と、広大であり、『延喜式』に記された墓域では最大の広さをほこる。 また、馬見古墳群を構成する墓はいずれも前期から中期古墳時代のものであるが、牧野古墳だけが後期古墳時代の墓であり、考古学会では、押坂彦人大兄皇子の相成墓である可能性はかなり高いと考えられている。

 押坂彦人大兄皇子は第30代・敏達天皇と皇后・広姫の第一子として生まれた。またの名を麻呂子皇子という。  母の広姫は、近江国坂田郡を本拠としていた息長真手王の娘とされている。 押坂は皇子の出生地・桜井市忍坂を意味し、忍坂には息子の舒明天皇(田村皇子)の押坂内陵、后の糖手姫(あらてひめ、田村皇女)の押坂墓、叔母の大伴皇女(欽明皇女)の押坂内墓がある。 彦人皇子が大兄の位にあった確証はないが、大化2年(646)3月の詔では、舒明天皇系の祖として皇子を「皇祖大兄」と呼んでいる。 そのため、『日本書紀』編纂時になされた文飾の可能性が強い。大兄であれば、敏達天皇亡き後皇位に登ってしかるべきだが、そのような形跡はないからである。 結局、登極したのは、敏達天皇の異母弟の橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)、すなわち用明天皇であった。 記紀には、彦人皇子の行業を記述した箇所はほとんどなく、敏達天皇が即位した572年の5月に、天皇は皇子と大臣の蘇我馬子に「高句麗の使者は今どこに滞在しているか」と聞いている一文のみである。 この皇子が彦人皇子を指すと解釈されているが、定かではない。 さらに、『日本書紀』は用明天皇2年4月に"太子彦人皇子"と記している。これも『日本書紀』編纂時の文飾と見なされている。

 用明天皇亡き後、皇位継承の有力な候補であったことは間違いない。『日本書紀』は3人の候補者の名前を挙げている。一人は後の推古女帝の息子である竹田皇子(たけだのみこ)、一人は用明天皇の異母弟にあたる穴穂部皇子(あなほべのみこ)、そして彦人皇子である。三人の中では彦人皇子が最年長であり、先々帝の嫡子とあって最有力候補だったと思われる。 このころの天皇継承者は有力氏族の合議によって決められていて、最高執政官だった大連の物部守屋は穴穂部皇子を推し、中臣勝海(なかとみのかつみ)も守屋に同調したのであるが、もう一方の最高執政官だった大臣の蘇我馬子は、この時点で誰を推挙するのか明確にしていない。

 日本書紀』によれば、皇位継承問題に絡んで蘇我馬子と物部守屋の武力対決が不可避となった頃、中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子の人形を作り、その像を傷つけて死を祈った。しかし、効果がないことが分かると、彦人皇子側に寝返るために、水派宮(みまたのみや)を訪れた。その帰り道、待ち伏せしていた皇子の舎人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)によって殺されてしまった。

 587年7月、蘇我馬子は諸皇子と群臣を糾合して、物部守屋を河内の渋川に攻めた。このとき、ほとんどの皇子や有力氏族は馬子側に荷担した。しかし、その中には彦人皇子の名はない。 だが、皇子は迹見赤檮を参戦させている。赤檮は剛の者だったらしく、木の上に登って応戦する守屋を射殺し、守屋の子供達を殺した。その功により田一万代(一代は百畝)を下賜されたという。自分本人は参戦しなかったが、迹見赤檮を代理として送ったことで、彦人皇子は明らかに蘇我馬子側についたことになる。だが、その後に天皇に選ばれたのは、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)、すなわち崇峻天皇である。守屋討伐にそれほど積極的でなかったことが災いしたのか、彼を推挙する群臣たちはいなかったようだ。そればかりか、これ以後、彦人皇子の名はぷっつりと史書から消えてしまう。 

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