源義経が奥州を出て、紀伊の熊野の新宮に身を寄せたのは叔父行家を頼ってである。いつも放浪するその主人はめったに新宮に姿をあらわさないことを心得て、ゆっくりとしていたが、平家の勢力ともいえる熊野田辺から義経への接近を知るや否や、伊勢街道から熊野の海族の手を借りて洛に潜むこととなった。平重盛が亡くなったあとは一層平家への反感は高まり、放火騒ぎなども頻発するようになったころ、一茎二花の怪しい蓮が法勝寺の蓮池にあるとして話題となった。
蓮の茎に複数の花が咲くというのは不吉な前兆であるとの言い伝えもあり、義経・月尊・伊勢三郎一行はその正体を見ようと偵察を始める。そこで怪しい連中の一人が伊豆守仲綱の嫡男有綱であった。蓮の怪奇を企てたものは義経が求める行家であるとか。有盛から仔細をきくと一向は行家が潜むという近江堅田へむかうこととなった。堅田といえば熊野にいたころに行家から隠し名として与えられた堅田の小殿を思い出し、叔父であると確信する。堅田は昔から湖族の庄といわれ、熊野の海族と同じく水路権を握って私税を取り上げる族である。
知将行家は堅田衆を基盤に源氏の与類を招きいれ洛中への乱派組織を作っていたのである。洛では、堅田の武者山下義経という男が横暴を振るっていた。実は行家の三男行宗が影武者として義経を名乗っていた。あるとき怒め坊という叡山で修行を積んだ御坊が、叡山に見きりをつけ洛中徘徊していた。山下義経という賊将に興味をもち、高野川待つことしばし、とうとう義経を捕らえ、検非違使の丁へさしだすとさっさと行方をくらました。怒め坊こそのちに義経の腹心となる武蔵坊弁慶である。左馬頭義朝の子牛若とは似てもにつかない山下義経に時忠はがっかりするが、捕われの身になったと聞いた堅田衆は大騒ぎである。行家一同、堅田の庄からかけつけた輩は義経の意に反し、行宗を取り返そうと洛内に潜入する。しかし警護の硬い六波羅兵は堅田党の面々十数人を生け捕るのである。十郎行家は深傷を負っていたものの堅田へにげかえる。山下義経こと行家の三男行宗ばかりか、堅田の衆・居初権五郎、弾正介の息子・刀禰左金吾の生死もわからず惨憺たるものであった。
清和天皇
┣貞純親王873-916
┃ ┣源経基897-961 藤原秀郷┓
┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021(藤原道長側近)
棟貞王娘 ┣源満季?┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍)
橘繁古娘 ┃藤原元平娘 藤原元方┓
┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)
┃ ┗頼房
┃ ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
┏━━━━━━━━━━┛
┃
┣源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍)
┃ ┃ 安倍忠良┓
┃ ┣頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
┃ ┃┃(1062前九年の役) ┗安倍則仁 ┣貞任1019-1062
┃ ┃┃ ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
┃ ┃┃ ┣娘(平永衡-1056の妻) ┗娘
┃ ┃┃ ┃藤原経清-1062 ┣秀衡1122-1187
┃ ┃┃ ┃┣清衡1056-1128 ┃ ┣泰衡1155-1189
┃ ┃┃ ┏清原光頼 ┗娘 ┣基衡1105-1157 ┣忠衡-1189
┃ ┃┃ ┗清原武則┓ ┣家衡-1087 平氏女 藤原基成娘
┃ ┃┃ ┣清原武貞?
┃ ┃┃ ┣武衡 ┗真衡-1083
┃ ┃┃ ┗娘 ┗成衡(養子)
┃ ┃┃ ┣- ┣
┃ ┃┣義家1039-1106(1083後三年の役)吉彦秀武 頼義娘
┃ ┃┣義綱1042-1132┣義親-1108(対馬守 隠岐に配流)
┃ ┃┃ ┣義弘 ┣為義1096-1156(養子:父は義親)
┃ ┃┃ ┣義俊 ┃┣義朝1123-1160(鎌倉の館を引き継ぐ)
┃ ┃┃ ┣義明 ┃┣義賢-1155(頼長侍従) ┣義平
┃ ┃┃ ┣義仲 ┃┣頼賢-1156 ┗木曾義仲 ┣頼朝
┃ ┃┃ ┗義範 ┃┣為朝1139-1170 ┣範頼
┃ ┃┣義元1045-1127 ┃┗行家1145-1186 熱田大宮司娘
┃ ┃平直方娘 ┃ 義平
┃ ┃ ┃ ┣
┃ ┃ ┣義国1091-1151 ┏娘 義朝妻の姪
┃ ┗頼清? ┗義忠 ┣新田義重1114-1202 ┣
源俊娘(嵯峨源氏) 1083-1109┗足利義康1127-1157(鳥羽院北面)