平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

新・平家物語 第7話 清盛嫡男・重盛 42歳で死去

2012年10月27日 | 平家物語

平重盛は唯一清盛をいさめることができた武将といわれる。平家の栄華を極めた頃、重盛は平家ももぉ終わりよ・・・・と感じた。昔若かりし時には平治の乱で、敵大将 悪源太・義平と一戦交えてもなんとも思わなかったこの体も衰え、まだ42歳というのに吐血するまでになった弱気のせいかもしれない。しかし叔父の教盛・頼盛などは、さして能もなく身に過ぎた栄職・官位につき、甥・一門の子弟など一様に身内でありながら、疑問を持つことも大いに原因であった。福原・大輪田の港の建築やら、厳島の造営やら内外の政務で多忙な清盛とはまったく対照的に、重盛は小松谷の館の持仏堂に聖者のように籠もっている。別名灯篭の大臣ともいわれ、小松殿の庭園には精舎があり、内部には48体の金色の十二光仏を安置し、その一体ごとに灯篭をかけて、18歳の頃の美女48人に灯篭の下に座らせて油の番をさせていたからである。そして重盛はその中央に座り、香煙らせながら浄土極楽境を心ゆくまで楽しんでいたのである。     
 ・「心の闇のふかきをば 灯篭の火こそ照らすなれ」     
 ・「弥陀の誓いを頼む身は 照らさぬところも なかりけり」      
東宮(皇太子)誕生の宴のあと吐血し、危ぶまれたものの快復の兆しをみせると、重盛は熊野詣に旅立っている。今生の参詣である。さきの地図でもわかるように、洛から熊野詣を行い、帰りに清盛がいる福原に立ち寄っているのだから、すごいとしか言いようがない。重盛の死期が遠くないことは知れ渡り、小松殿がなくなられたら平家も終わりよ・・・とささやかれたことからもわかるように、世間の重盛への人望の深さがうかがわれる。また反面、実質的には平家の力があっても、人の心の動揺が大きな力で平家滅亡への一途をたどらせるのも事実かもしれない。    
     
やがて重盛は髪を下ろし、浄蓮と名をあらため出家した。その後、後白河法皇が小松谷の館に見舞ったころから危篤の噂が流れた。そしてその一月後に清盛に先立って亡くなったのである。病名は不明であるが、恐らく胃潰瘍と思われる。胃潰瘍は食が細くなり、年々やせていき吐血するが、今の医学ではなんということはない病気である。ともかく重盛に対して悪く言う公卿・僧侶はだれもいない。平家をうらむ相手ですら、重盛を悪く言う人はいなかった。それだけに、彼の死は平家繁栄の将来に影をさす大きな意味をもっていたのだと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
« 新・平家物語 第6話 鞍馬-... | トップ | 新・平家物語 第8話 近江... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

平家物語」カテゴリの最新記事