鶴ヶ岡八幡は鎌倉武士で埋まっている。
・平家ですら全国の約半分の所領を持つに過ぎなかったが、今頼朝は全土を支配していた。
・各所領の守は二心あらずと鎌倉を訪れ、帰っていく。後に頼朝の嫡男・実朝は時の勢いを次のように歌っている。
・ 「宮ばしら ふとしき建てて よろづ代に いまぞ栄えん 鎌倉の里」
・例年の四月八日は鎌倉じゅうの寺社が鐘の音で賑わう日である。潅仏会の花祭りという。鶴岡八幡宮でも式事が行われる。
・正式な通達が安達新三郎清経のもとに届いていた。静母子ともども罷り出よという状であった。
・このときに何故か黄蝶が異常発生した。もともと黄蝶というのは平家の象徴である。
・そして平家の怨霊が鶴岡から鎌倉御所の上をひらひらと呪っているのではないかとのささやきもあり、
・頼朝は八幡宮に大神楽を上げさせ神馬を献納している。
・これらの奇事、記録は吾妻鏡に残されているが、この筆者は静御前を鎌倉で取調べを行った藤原俊兼、藤原盛時などである。
・神事が終わると、頼朝、側近らを前にして、静御前が白拍子の舞を披露することになっていた。
・静御前の意に反し強要されたのであるが、八幡の照覧に供え奉じるだけのものと受け入れた。
・左衛門尉工藤祐経が鼓、畠山重忠が銅拍子を務めた。静は檻の人には見えない。
・芸の力と絶対な姿勢は清爽な磨きを加えて気高くすらあった。
・したがって頼朝夫婦、諸国大名、その他権力への媚も、恐れもないのである。ただあるのは、義経を想う運命の忍受だけである。
吉野山の金峯寺
「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の おとぞ恋しき」
・吉野山では女人禁制ゆえ、生き別れてしまったが、あの御方の今を想うと恋しさが募るばかりで御座います・・・と舞った。
「しづやしづ 賤のをだまき繰り返し 昔を今に なすよしもがな」
・静よ、静よ・・と呼んでくれた昔のような平和はいつになったら訪れるのでしょうか。
頼朝の面前もはばかりなく、不逞の徒義経を慕い別れの曲を歌うとは何事! と 頼朝の激怒に触れたのは云うまでもない。
・しかしこのとき、頼朝の妻。政子はなだめた。
・昔、頼朝が挙兵し、石橋山の合戦で敗れた際に政子はひとり良人とわかれて、伊豆山に身を潜めたことがあった。
・いまの静に当時の自分を見たからである。しかし、また 静が身は義経の胤を宿していることも察していた。
・帰り着くなり、静は「夢の中にでも、かの君に・・」と願って寝たが、夢ですら願いは叶わなかったのである。
静への吟味も済み、親子の放免もま近と思われていたが、急に取りやめになったという。もちろん静の懐妊が頼朝の耳にはいったからである。
・そして月満ちて身二つと相成るまで安達の邸にとどまり、子が女子ならばお構いなし。男子ならば沙汰改めて・・との御旨であった。
・静の身を預かる安達新三郎清経でさえ、生まれるお子よ、女子であれ・・と祈るほどになっている。
・頼朝の真意は安達にはわかっているだけに、静にいうこともできずにいたのである。臨月を迎え、生まれてきた子は男であったのである。
そして15日ほどが過ぎた頃に、「反逆人義経の胤、男子とあっては将来の憂い、芽のうちに摘む。 由比が浜に捨てよ」
・との沙汰が頼朝からあった。
・静は死力を振り絞って
・「和子は、離しません、我が良人も功こそあれ、何故反逆者と呼ばれましょうや、何の罪もなきわが子は、ましていわんや」 と訴えた。
・しかし、頼朝はそのような慈悲のある御方ではない。
・わが子大姫の許婚・義高でさえ、木曾義仲の嫡子であるが故に後の憂いを恐れて、容赦なく首にしてしまい、今も尚大姫は閉じこもり臥せているのである。
・安達は説得にあぐねた末、静の母禅尼を説得にあたらせた。離すまいと珠を抱いた静を母は説き伏せようとするが、それも空しく
・「あなたには子を売ることもできましょうが、静は子を売るような気持ちにはなれません」 と気丈に云うのである。
・そのときあわただしく梶原らの手により、珠を無理やりに引き裂かれた静の叫びが響き渡っていた。
・由比ヶ浜に流されたのはいうまでもない。安達新三郎清経と頼朝の遣いは小船に重しを乗せ、二度と上がらないようにして浜に流した。
・その直後最期の別れにと浜に来た静と安達新三郎清経はひとこと話を交わすと、静はひとり浜の向こうへ消えていったという。
・それを陰から密かに聞いていた貧乏僧は、「おかげで人の世もまた面白しと心温められました。」 と一言いい残して去ったとか。
・後でわかったことであるが、この貧乏僧が西行法師であったらしい。いまにも自害せんとする静をとめようとしたが聞き入れようとしない。
・安達は天に誓って誰にも告げまいとしていた一事を静にだけ漏らしたのである。
・「沖に沈めたものは必ずしも静が産んだ珠と限ったことではない・・・」 と。