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真田幸村最期の天王寺口の戦いの地

2020年01月13日 | 戦国時代

 大阪城の南約3.5キロ、一心寺の南側に隣接してある茶臼山古墳(出土品は発見されていない)で、大阪でも標高が低い5つの山のひとつ。標高26m。因みに一番低い山は天保山で4.6m。

ここは「真田幸村最期の天王寺口の戦いの地」なのである。 以下は朝日新聞の記事より抜粋。
 1615年5月7日、大坂夏の陣。すでに豊臣方の敗色は濃厚のなか、安居神社の南の茶臼山に陣取った幸村は、さらに南の徳川家康本陣を激しい突撃で混乱に陥れ、あと一歩まで追いつめる。だが、家康方の増援に阻まれ、ついには退却を余儀なくされる。そして安居神社で腰を下ろして休息しているところを、徳川方の越前兵、西尾仁左衛門に討ち取られた。後の越前藩の「首帳」で確認できる。しかし、今日の幸村の人気は何と言ってもその後の講談や軍記物語による。講談「難波戦記」では、幸村も主君の豊臣秀頼も夏の陣で死なずに薩摩に逃げ延びるし、大坂で口伝えされた別の講談にいたっては家康が倒されてしまう。明治から大正には、忍者猿飛佐助や霧隠才蔵ら「真田十勇士」が活躍する立川文庫が大ヒットする。「講談の世界での人気は3本の指に入る主人公です」というのは講談師の旭堂南海さん。計略を駆使する冷静な軍師として語られるから、主役だがあまり張り扇をパンパンたたかない。負けるのが分かって豊臣方について忠義を尽くしたところが、大阪人の判官びいきの心をくすぐる。「弱かった時の阪神タイガースが好きなのと一緒」と南海さん。同じ豊臣方の石田三成が人望のない陰謀家で、その人望のなさが敗因として語られるのとは対照的だ。 幸村人気は江戸を首都にした家康のアンチテーゼでもある。南海さんの師匠、故・3代目旭堂南陵さんは、大阪の衰退も阪神が弱いのも全部家康のせいにしてしまう「家康をののしる会」を開いて評判になった。 大阪城で月1度ごみ拾いをしているNPO法人大阪城甲冑隊は、鎧から兜まで赤で統一した幸村の「赤備え」を身につける。03年から大阪城天守閣で開かれるボール紙で甲冑を作る教室の修了者が、「多くの戦死者の上にごみが落ちているのが許せない」と始めた。甲冑隊の理事長を務める河井計実(かずみ)さん(47)は、衣装を赤備えにした理由を、「幸村は自分ができることをきちんと貫いた人。みんなが共感できる。大阪城と言えば真田と自然に決まった」と話す。 安居神社は毎年5月、幸村の慰霊をしている。近年の戦国武将ブームで参拝者が増えたこともあり、今冬には幸村の銅像を建てる。兜を脱ぎ、刀を置いて座る最期の姿。覚悟を決め、家族や豊臣家に思いをはせているという。
 大阪人は太閤さん好きと言われますが、それに劣らず人気があるのが豊臣方の武将、真田幸村です。大阪では徳川家康は、秀吉が築いた天下をかすめ取り、武士を頂点とする身分社会を作った悪玉として嫌われ者。幸村はその家康を苦しめました。大坂夏の陣の前に、故郷・信州にいた姉の夫に出した幸村最後の手紙を、大阪城天守閣で展示したことがあります。武張ったところがなく、小さい頃から修練を積んだ達筆で、落ち着いた知性が感じられた。「定めなき浮世なので一日先のこともわかりません。私などはこの世にあるとはお思いなされますな」という内容が書かれ、死を覚悟していることが分かります。それでも豊臣に忠義を尽くした。そこが共感を呼びます。冬の陣では優れた作戦で徳川方を悩ませ、夏の陣では最後まであきらめず可能性に賭けて家康の首を狙い、敵に「日本一の兵(つわもの)」とたたえられた。ただ滅びるのではなく、一矢を報い、豊臣という一時代の終わりに花を添えました。

徳川家康の勝利は茶臼山のお稲荷さんのおかげであるとして、茶臼山稲荷神社があったが、のちに堀越神社に移設されている。

近隣スポット

・真田幸村 : 安居神社 かんしずめの井戸

・徳川家康 : 霧吹きの松

・阪和商店街: 戦後の闇市発祥

冬の陣@1514で家康が使用したカルバリン砲(英より輸入)と設置位置

 

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