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屋島の合戦最終章

2005年09月25日 | 平家物語
四国阿波の国上陸後の足取りをたどってみましょか。

【1185年2月18日】
午前6時頃に阿波勝浦(桂津)に到着し、平家に味方する。田口良成の弟桜間良達の桜間城をはじめ、熊山城等を攻め落とし、夜中に大阪峠を越えて讃岐に入り、馬宿でひとまず人馬が休息した。平家が海戦に持ち込むものと思われたので、源氏は軍勢を丹生で2隊に分け、本隊は田面峠を越え長尾から前田・新田へ進み翌朝屋島の対岸に進出した。支隊は海岸通りを進み志度から屋島の対岸の牟礼村の海岸に進出した。

【1185年2月19日】
辰の刻(午前8時)に屋島の対岸に到着した源軍の本隊は、牟礼高松の民家を焼き払い、堀江集落で2隊に分かれ、本隊は王墓付近に向かって前進し総門を占領した。堀江集落で分かれた別働隊は、屋島の赤牛崎に上陸し、枯木集落を通り湯ノ谷を越えて、なだれをうって、屋島に布陣する平家の背後を攻撃し、屋島の内裏や平家の陣屋を焼き払った。総門を攻め落とした源義経は、田代冠者信綱・金子十郎家忠・金子余一近則・伊勢三郎義盛等と共に水際に駈せ向い、船上の平家と互いに矢を射合った。

源氏の奇襲をうけた平宗盛は、一旦海上に逃れたが源氏の兵力が弱小であるのに気づいたので、船列を整えて総門の汀で激戦となった。しかし、逆上陸することもなく19日の戦いは終わった。

同夜は源義経と伊勢三郎義盛の二人が不寝番をし、他の将兵は仮寝をした。しかし、義経は平家の夜襲があるものとして、付近の農夫を雇って松明を持たせ、つぎつぎ瓜生ケ丘に向かって歩かせた。源氏方は、佐藤継信・鎌田光政が戦死。平家方は、菊王丸が戦死。義経は畠に立って指揮をとっていたが、そこへ平能登守教経の放った弓の矢が、義経目がけて飛んできた。あわや義経に命中というその時、側に居た継信は自分の身体を盾に、義経の身代りになった。指3本もあるという太い教経の矢は、継信の胸板を貫き義経の鎧の袖まで達したという。

【1185年2月20日】
この日は総門付近で一進一退の小競り合いが続いたが、あの有名な源氏の美尾屋十郎と平家の悪七兵衛の「錣引き」のあった日で、那須与一が扇の的を射た日でもあった。平家方は、鞆六郎が戦死。

【1185年2月21日】
平家は船を志度湾に回航し、志度寺に立て籠って陣を布いたが、源氏の大将梶原景時が率いる後続部隊約140艘の軍船が屋島に到着し志度合戦に参加したため平氏全軍は西海に去ったのである。
義経26才 平教経26才 佐藤嗣信28才 菊王丸18才 那須与一17才?だった。

【那須与一】死亡の日不明なるが1189年らしい。義経が死んだとき?
父は那須資隆でその子はなんと11人?女の子はうまれなかったのでしょうか?
11人全員が男である確立は約2000分の1です。
太郎光隆(てるたか)
次郎泰隆(やすたか)
三郎幹隆(もとたか)
四郎久隆(ひさたか)
五郎之隆(ゆきたか)
六郎実隆(さねたか)
七郎満隆(みつたか)
八郎義隆(よしたか)
九郎朝隆(ともたか)
十郎為隆(ためたか)
与一宗隆(むねたか)ときて、末っ子なのでした。普通は十一郎ではないのか。
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