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壇ノ浦の合戦 

2005年09月25日 | 平家物語
屋島の合戦報告は1185年3月8日鎌倉に伝わります。
【1185年3月22日】
三浦義澄を先頭に船団を率いて壇ノ浦に向かいます。四国に渡ったときには150騎だった義経の兵力は、この時3000騎になっていたといいます。地元の武将が加勢し平氏で、寝返ったものもあったのでしょうね。でも、増え方がすごくない?勝ったほうにつきたくなる気持ちはわからんでもないが・・・。

【1185年3月24日】
元暦2年の壇ノ浦の合戦が行われ、平家は滅亡してしまいます。治承4年(1180)に源頼朝・頼政らが平家打倒の兵をあげてから5年後のことです。平家・源氏の最終決戦では船の数が平家500艘、源氏700艘といいます。死者の数は5000人を優に越すのではないかと思われます。

戦闘は朝6時頃から始まります。
海戦に慣れた平家がもう後が無い必死さもあって優勢だったが、接近戦になり源氏は次第に挽回し始めます。(義経は弓下手なだけに、接近戦となるとしめたものです)また、平家方は目立つ船をおとりに、要人は小さな船に乗せるという戦法をとっていたが、時間が立つにつれバレ、源氏はさらに優勢度を増します。源氏が少しずつ挽回していくと平家方から源氏方へ裏切る者も相次ぎ、そうして戦局はわずか1時間ほどで逆転してしまいます。午後には、平家は敗戦を認識し、源氏の手にとらえられる前に死を選びます。経盛と教盛、資盛と有盛など一緒に水の中へ消えて行きす。

御座船では二位尼(平清盛の妻で安徳天皇の祖母時子)がまだ8歳の天皇を抱き三種の神器を身につけて入水。建礼門院(安徳天皇の母で清盛と時子の娘、徳子)も飛込むが、衣服矢が刺り沈めずにいた所を源氏の武将に引き上げられます。

源氏は安徳天皇がいるにも関わらず後白河法王との合議により京都で既に擁立していた新天皇(後鳥羽天皇)の地位を正統のものと天下に主張する為、三種の神器の捜索を必死に行いました。が、勾玉と鏡は見つかったものの草薙剣は発見できず。以後草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用することになる。(一説では鏡は別の女官が持って飛び込もうとしていたところを源氏の兵に抱き留められたとも。勾玉は波間に浮かんでいたのですぐに引き上げられたらしい。なお草薙剣の本体はそもそも熱田神宮にあり、安徳天皇が帯同していたの
はその分霊です。同様に鏡の本体は伊勢神宮です。皇居に本体があるのは勾玉だけで、京都が首都であった時にはこの3つの神器の所在地がほぼ正三角形を構成していました)あと少しの所で死にそこねた建礼門院はまだ29歳の若さでしたが尼となり、それから30年間の余生を京都大原寂光院で送りることになりました。
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