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越中富山・前田正甫と薬売り

2020年06月01日 | 戦国時代

 越中富山の薬売り。その元祖となったのが、富山藩2代藩主、前田正甫です。1690年、江戸城において、岩城三春の藩主、秋田河内守がにわかの腹痛に苦しみ、それを見た正甫は常備している薬「反魂丹」を印籠から取り出し飲ませたところ、たちまちのうちに痛みがおさまったという。 これを見た諸国の大名が「ぜひ拙者の国にもひろめてくだされ」 と正甫に頼み、そこで正甫は、領地から出て全国どこへでも商売ができる「他領商売勝手」を発布。これにより富山の薬売りが生まれたとのことです。 反魂旦や万金旦、そして最近ではケロリンは有名な商品で、訪れた製薬会社の展示室で飾られておりました。

 春になると立山連峰からの雪解け水により洪水をおこし、山風が大火を誘い、富山藩の財政は悪化するばかりであった。これを立て直すためにも、前田正甫が行ったのは反魂丹などの薬を生産し全国に販売することであった。富山には薬の製造に適した条件が揃っていた。立山連峰からの良質な水を大きな亀に蓄えたという。富山城の南東の清水地区には500件もの製薬工房が軒をつらね、大火のときには清水地区ではほとんど被害がなかったという。また薬が発達したのには漢方薬の知識があったからだという。中国との交易が盛んで中国人が漢方薬の原料を富山で売っていた。かくして前田正甫は薬売りを富山藩財政の根本としたのである。かくして富山藩には反魂丹役所がつくられ、薬の製造販売ルートを公認化し、富山の薬売りという仲間組を結成して値段の安定、情報の共有を図ったのである。

 しかしながら薬は高価でなかなか売れない。思いついたのが薬を置いておき、使った分だけ後で徴収するシステムであった。これは立山連峰の修験道が持っているお札を買ってもらう・先用後利というものがヒントになった。そして江戸時代半ばには東北から九州までその販売範囲は広がったという。そして懸場帳といって今でいう顧客名簿を発達させることによって、どこに、どのような薬が必要なのかを詳しく見える化。このようなサービスによって益々商売は拡大していく。実は現在でも薬売りはされている。江戸時代中期から後期にかけては臨池居といって教育機関も設けられた。幼いころから薬売りになるための英才教育が行われていたのである。

 幕末になると、全国22組に分かれて活動していた薬売りの中でも薩摩組は、薩摩への出入りを禁止された。薩摩の財政悪化が原因である。薩摩は財政再建のために、昆布を中国へ輸出しようと考えたが、これは江戸幕府の許可が必要、ご法度である。一方富山は蝦夷から物資運輸の中継地点であることから、昆布を蝦夷から運輸して、同時に薬も薩摩の人々のために届けようと考えた。かくして富山の薬売りは薩摩への出入りを許され、また薩摩は昆布を中国に輸出することで財政再建を果たし、近代化を行ったという。このような薬を通じて富山と薩摩が通じていたことはとても興味深い。

在(金晴院)     
 ┣知好1590-1628     
前田利家1539-1599(金沢藩主初代)     
  ┃┃┣利長1562-1614(加賀藩主初代)
  ┃┃┃┣-
  ┃┃┃永姫1574-1623(織田信長娘)
  ┃┃┣利政1578-1533(前田土佐守家初代)
  ┃┃┃┗直之1604-1674(前田土佐守家2代)
  ┃┃┣摩阿姫1572-1605(豊臣秀吉室)
  ┃┃まつ(芳春院)1547-1617
  ┃┃  
  ┃┣利常1594-1658(加賀藩主2代)
  ┃┃ ┣光高1616-1645(加賀藩主3代) 
  ┃┃ ┃┣綱紀1643-1724(加賀藩主4代) 
  ┃┃ ┃大姫(徳川家光養女)清泰院 
  ┃┃ ┣利次1617-1674(富山藩主初代) 
  ┃┃ ┃┣前田正甫1649-1706(富山藩主2代)
  ┃┃ ┃┃ ┣利興1678-1733(富山藩主3代)
  ┃┃ ┃┃須磨
 ┃┃ ┃八尾
 ┃┃┏珠姫1599-1622(天徳院 秀忠次女)
 ┃┃┗千姫
 ┃寿福院1570-1631
  ┣利孝1594-1637
お幸和(明運院)

 

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