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源義経が遠征した屋島

2006年08月17日 | 平家物語

源義経が遠征した屋島

 三河守・範頼が西国で苦戦をしている理由は明らかである。 早速義経は、弁慶と鎌田正近を呼びつけると、紀州熊野海峡の一家、鵜殿党の鵜殿隼人介との同盟を説明した。 また伊豆有綱と伊勢三郎には堅田へ使わしたのである。 紀州熊野は海族、近江堅田は湖族が名を馳せている。 義経は奥州平泉から一人抜け出し、この熊野の三山で修行を積み、伊勢街道から近江堅田を経由して上洛するまでに、彼らとの知己を深めていたのである。 

 武蔵坊弁慶と鎌田正近はほどなく、紀州熊野は海族・鵜殿党の鵜殿隼人介に会い、義経から預かった書状をわたすと、状況を説明した。 ところが驚いたことに平家方は奥州の金売吉次を通じて船軍を買い占めていたのである。 残る船も半数ほどはあるが、て熊野全土を取り仕切る別当・湛増の許可がなくては通ることができないとの話である。 

 田辺別当・湛増は昔から平家の息がかかった有力者である。 まして湛増の側室といえば、桜町中納言の娘である。 桜町中納言というのは後白河の側近・藤原通兼、後の信西入道の三男で藤原成範のことである。 つまり桜町の局は高倉天皇が愛した小督とは姉妹にあたるのである。 ところが別当湛増は源氏方の意向を汲み入れてくれた。 かくして、紀州熊野の海族・鵜殿党の船軍は、先に出立していた義経軍と、摂津で合流することとなった。

 合流場所は摂津の「ながらの別所」というところで、その昔、左大臣源融が閑居していた場所である。 その融(とおる)の子孫・渡辺党も結集して摂津に集まった。

 また、しばらくして梶原景時も船軍を率いて集まった。 このなかに、那須与一がいたという。 那須与一は那須太郎資高の子で、12人兄弟の11番目である。 そして12番目の末子が、義経と鎌倉から共に友軍し、静から義経へ宛てた恋文を受け取った那須大八郎である。 

 そして義経が極秘に淡路を探らせていた深栖陵助一向が合流する。 淡路は昔から平家と極めて関係が古い。 由良港から洲本は池の大納言頼盛の所領であり、福良には参議経盛の家人がいる。 熊谷直実が討ち取った敦盛の首は、その後経盛に返され福良港に浮かぶ小島・煙島で弔われている。 ところが、平家の武者は淡路にはいない、というのである。 そこで深栖陵助の一向は淡路から四国へ渡り、阿波から四国の西・伊予まで行っていた。 伊予はたえず平家に反抗してきた強力な豪族・河野一族がおり、 道前、道後にまたがる高縄城主の河野通信は範頼に味方し、平家の糧道の遮断に貢献していたのである。 こうして四国の様子を探った義経は、次の作戦を練るのである。

 ここ摂津の「ながらの別所」には義経率いる強豪が集結した。折りしも強風である。 そのせいか、梶原景時の到着のみが未だであった。 義経は淡路、阿波の状況を仔細に探らせ、強風を利用し、この風雨の中、よもや・・・との平家奇襲出陣を決めるのである。 一番は云うまでもなく主将義経、二番は田代冠者信綱、三番は後藤兵衛実基、四番は金子十郎家忠、五番は淀の江内忠俊の船である。 そして、そのあとには鵜殿党、安宅党、九鬼党などの輸送船団である。 

 夜中の2時に船立ちをし、4時間後には阿波国勝浦(小松島市)に到着したという。 勝浦の近藤六郎親家、桜間の介能遠を破ると、義経一向は、深栖陵助が先の偵察の時に残していた仲間と讃岐路で合流した。 ここまでくればすぐそこは讃岐の平野、 屋島も間近である。 

 一方、屋島では義経軍がここまで迫っていようとは夢にも考えていなかった。 大将・平知盛は長門まで遠征し、また、伊予の河野通信を迎え撃つために、阿波・淡路にいた平家軍勢も集結していた。 かくして屋島の武者は少なく、さびしい限りである。 まして、義経の命で伊勢三郎・深栖が雑兵を連れて各地に松明をかざし、平家の眼を欺いたこともあり、義経本陣はいとも簡単に、牟礼の総門を破ったのである。 

 平家の武者は少ないといっても、源氏軍200騎足らずに比べるとはるかに多い。 しかし、平家方には馬がなく、多くの歩兵も、鵯越に続く急襲と源氏の精鋭の前には、餌食となるのである。 そして平家軍は牟礼を北になだれていった。 そして義経軍は反平家の郷武者が加わり、300騎近くに増えていたのである。

 平家方は水軍では慣れてはいるが、陸での戦闘は弱い。 義経率いる東国武者は田代冠者信綱、後藤兵衛実基、金子十郎家忠、淀の江内忠俊の精鋭揃いである。武蔵坊弁慶、伊勢三郎、佐藤兄弟はいうまでもない。 しかし平家の中でも東国武者に負けず劣らぬものが幾人かいた。 清盛の側近・平盛国の孫、越中次郎兵衛盛嗣や平教盛の次男・能登守・平教経である。能登守・教経は義経を煽り、一騎討ちをよどんできた。 それに応えるべく義経も名乗りを上げたが、義経は総大将である。 弁慶その他が総大将・義経を取り囲み、制止したとき、教経の射た矢が、大将義経をかばった佐藤兄弟の兄・継信を射抜いたのである。 そしてその瞬間、平家の童武者・菊王丸は継信の首を捕らんととびかかってきたが、弟・佐藤忠信は菊王丸を射止めた。 そして憐れ菊王丸は主人教経に馬上へ拾い上げられると、沖なる陣へ引き上げていった。佐藤兄弟と義経とは単なる主従以上のものである。 義経が鞍馬山を出て流浪の果てに奥州に下る途中、佐藤壮司の後家尼で一夜を過ごしたときからの縁である。 そして頼朝旗揚げのときから兄弟として義経のそばから離れたことはなかった。 そしてしばらくして、継信は息を引き取った。

 またこの時に戦死した平家方の童武者・菊王丸はまだ17歳であった。 かつては能登守教経の兄で、鵯越で戦死した越前三位通盛の侍童であったが、その後 能登殿に可愛がられていたのである。 そして義経は継信とともに菊王丸を弔った。

 このとき平家軍の田口左衛門教能約3000騎が伊予での河野通信との戦いから帰讃の途中であった。ここ屋島への到着は二日後である。 平家方はなんとしても大軍を迎え入れる二日間をこう着状態のまま、耐える必要があった。 そうすれば、平家方にも勝算がある。義経は精鋭といえども僅か150騎である。 そして血を流さずに時間稼ぎとして考えた妙案が、扇の的当てである。 平家は一艘の小船に扇の的をしつらえ、その下には玉虫という天性の美女が立った。 玉虫は二位の尼に仕え、愛された雑仕女である。 そして愛する恋人がいたが、先の戦いでその恋人は屍となり果てていたのである。 玉虫は同じ日に死を覚悟して自ら希望して扇の下に立ったのである。

 こうして玉虫は、この扇を矢で見事射てみよといわんばかりに、東国武者の誉れを掻き立てた。 しかし仕損じれば恥、命もないものと思わなければならない。 そのとき弓武者、那須大八郎が名乗りを上げた。 しかし、大八郎の兄・那須与一は弟を制して自らが扇の的を打ち抜かんと申し出る。 なにも己の誉れの為ではない。 与一はもともと義経に仕えていた訳ではない。 梶原景時に不服ながら仕えていたこともあり、若き弟をかばってのことである。 そして見事に打ち抜いた与一が敵味方関係なく喝采を受けたのは有名である。

 そして彼・与一の名は轟いたのであるが、その誉れの報いとして待っていたものは、梶原景時の激怒と軍罰の適用であった。梶原景時にとっては、与一は自分の家臣であり、義経になびこうとする与一を許せなかったのは云うまでもない。

 平家の軍勢3000騎を率いる田口教能を説き伏せた義経軍は、からくも自身の人徳により勝利することになるが、先の屋島の戦いでの負傷者は数多い。 医者として義経に従軍していた、阿部麻鳥は敵味方の隔てなく看護を行っていた。 ここ屋島の先には讃岐・白峰がある。 讃岐といえば、20年も前の保元の乱で讃岐へ流され、8年もの間洛との情報に閉ざされたまま狂気してこの世を後にした崇徳上皇の果てた地である。 崇徳上皇の御謀反をたすけたのは義経の祖父 源為義である。 また上皇と源為義を敵に回して矢を放ったのは、義経の父・義朝である。 義経にとっては、肉親同士が院方と朝廷方にわかれて、血みどろの戦いを行ったのち流された讃岐院と聞けば、思い起こされることも少なからずあった。 阿部麻鳥は讃岐院がここ白峰に流されたときに一度訪れている。 麻鳥は崇徳上皇が新院としてうやまわれていた頃に、柳の水の水守として宮苑に仕えていた。 また義経はそのことを知っていた。 そして今、ここに来て、再度の訪問を義経の乞うたのである。 そして義経とともに、白峰の鼓が丘の木の丸御所跡がどのようになっているのかを見届けにいった。  奥深い地に小さな 崇徳上皇の墓と思われる小石を見つけると、麻鳥は昔の懐かしみ、また後の世で呪われた天狗のように呼ばれた上皇を哀れみ、語った。

源頼朝が崇徳上皇を弔うために白峯寺を建立した

 いまや平家は陸路においても、海路においても源氏に劣ってる。 しかし義経の心のうちは平穏ではない。 たとえ戦に勝利したとしても、三種の神器と安徳天皇の無事を欠いては戦に勝ったとはいえないことはわかっていたからである。 そして平家方にも義経と同じことを考えていたものがただ一人いた。 それは平時忠である。 いくつかの条件付きで、三種の神器を源氏方に渡すことによって無駄な血を流すことが避けられるものならば・・と願っていた。 しかし彼は、いまや平家からは二心の持ち主と非難され牢船のそこに息子・讃岐中将時実とともにつながれる身となっていた。 洛に残してきた娘・夕花や右大弁時宗を想い義経からの遣いが来るのを密かに待ち侘びていたのである。

 あるとき、桜間の介能遠は師の局から受け取った文を携えて牢船の底に近づいた。 桜間の介は義経が屋島攻略の際に邸をぬけ、屋島の本陣へその旨を伝えるため参じたが平宗盛からは義経の差し金呼ばわりされ、義経方に寝返った男である。 平家大将・宗盛の器量の狭さを見限り、義経方についただけではない。 平家の窮地を援護すべく、3000騎の大軍率いて屋島へ向かう田口左衛門教能を義経と引き合わせ、その援護を退かせた男でもある。 その桜間の介が義経の密者となって平時忠の妻・師の局に和義の文を描かせて、今時忠の前に現れた。

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