写真:磨弧御前撮影、京都時代祭りにて
【義仲の略歴】
1154年生まれ。幼名「駒王丸」。父帯刀先生義賢、母小枝(さえだ)義賢の次男として誕生。1155年8月16日 2歳の時、悪源太義平により父親が大蔵館にて殺害され、母は駒王丸をつれて逃走。斉藤別当実盛・畠山重能の計らいによって、佐久(長野県)の矢田義清の居城「大崖城」に逃れる。1156年 木曾の中原兼遠のもとで養育される。兼遠は駒王丸を文武両刀、気は優しくてちから持ちをモットーに育て、実際そのように育った彼は、1166年、京都石清水八幡宮で十三歳で元服し、木曾次郎義仲と名乗った。清盛が太政大臣に任命されるのはその翌年。
1170年 海野兼保(兼遠の兄)の娘 山吹 と結婚
1173年 義高誕生
1180年に以仁王の令旨を受け挙兵。北陸・信濃で勢力を拡大、上京をめざし固く準備をする日々をすごす。この年、義高元服。
1183年3月 義仲の叔父 新宮十郎行家を匿ったとして、いとこの頼朝と険悪なムードに。義高を大姫(頼朝の娘)の婿として鎌倉へ。それにて、とりあえず鎌倉は黙らしたものの、いざ入京するとそこは飢饉の真っ最中。馬に食べさす草もない。そんで、ちょいと人に黙って田んぼの青葉を食わしたりしたから、都の人はかんかん!みるみる評判は低下、結局頼朝軍に追われるはめに。民衆いじめのようにもゆわれますが、かなりお気の毒です。義仲は1183年、院に「征夷大将軍」「頼朝追討」「三種の神器奪回の為の西国御幸」「新天台座主に俊尭権僧正を」の4つを 要求、12月15日、征夷大将軍となっています。
頼朝がおくりこんだ源範頼・義経と木曾義仲との戦いが宇治川の合戦です。(1月18日)
「宇治川の先陣争い」は有名です。この頃の宇治川は、 上流の雪解け水で、かなり増水しており、流れも速く、水底には乱杭も打たれ網も はられている、危険な状態であったにもかかわらず 敵軍は、 頼朝から授かった名馬の名誉にかけて命懸けで先陣争いをする。見事宇治川を 渡りきった頼朝軍は、勢いに乗り、はじめは何とか防戦を繰り広げた義仲軍を敗退させる。合戦においては、ポイントを確保し、その地形をいかに有効利用するかが大事です。義経はこれを学び、あまたの合戦に勝利していきます。
その2日後1184年1月20日、琵琶湖南岸粟津河原にて兼平より一足お先に没。31歳でした。
義仲最期のとき、「この世のすべてを見た、心残りは何もない」と義経に言い残します。義仲を尊敬していた義経は、旭将軍義仲と戦えて本望であったと応えています。
【木曾義仲の仲間達】
今井四郎兼平 義仲の生涯の友
中原兼遠 兼平の父親。義仲の養父
樋口次郎兼光 兼平の兄。木曾四天王の一人
巴御前 兼平の妹。義仲の妾
落合五郎兼行 兼平の弟。義仲にとっても弟分。
この構成をみてみると・・義経とは全然違います。自分を育ててくれた
兼遠一族で占められています。
【巴御前】
巴(ともえ)御前は女武将で有名です。薙刀(なぎなた)の名手でした。薙刀には男用と、女用(少し短くて反っており、扱いやすい)がありまして、当然女用を使いいます。因みに静御前は男用を愛用していたらしく(謎)巴は義仲が大好きでした。宇治の合戦で、最期を感じたとき義仲より逃げ延びるように言われます。死ぬときは同じと思っていた巴はショックでした。わかるよね・・この気持ち。