阪神大震災
今日が丸11年。
11年とは・・ちょっとびっくりしました。
私は当時17歳。
大阪・東大阪市の木造二階建てに住んでいました。
今でもあの大きな揺れの衝撃を覚えています。
午前5時46分。
普段絶対目覚めていないはずのその時間になぜか私は
うっすらと目を開けていました。
隣で寝ていた父も布団の中で目覚めていたようでした。
地震が起こる一分ほど前には言葉ではうまく言えませんが
もわっとした空気に変わった気がします。
まとわりつくような空気で、気持ち悪く感じました。
しばらくして
ドーン!!!という爆音(なにか爆発したような音)が響きました。
その音のすぐ後にガタガタガタガタと大きな揺れ。
家自体がギッシギッシと大きく揺れ、立ち上がることもままならず、
泣きそうになりながら布団にしがみついていました。
父はとっさに二つの洋服ダンスが倒れてこないように両手で押さえて
いました。
「大丈夫や!」と叫びながら・・。
揺れている時間はそれほど長くなかったかもしれませんが、
私はいつこの揺れがおさまるのか心配で仕方ありませんでした。
大きな揺れの後には何度か余震があり、
階段で一階へ下りるときにも階段がぐらぐらと揺れてうまくおりることが
できませんでした。
一階に置いてあったピアノは踏み板の上から落ち、
台所のものも多少は落ちていました。
そんなにひどい惨状というほどではありませんでした。
父の事務所では本棚から本がなだれ落ちていました。
その片づけをしている頃にはテレビでは続々と地震のニュースが流れ、
その惨状はどんどん拡大していきました。
各局のヘリコプターは、神戸の街並みを映し出し、
そこからは煙が幾筋も上っていました。
火事だ・・これはひどいことになるんじゃないか・・
細かい状況は分からず、どんどんブラウン管の中の街は黒い煙を増やしていきました。
神戸はよく遊びに行っていたので、あの立地だと火が回るのは
早いだろうと簡単に予測できました。
でもまさか6434人もの命を奪う惨劇になるとは思いませんでした。
あのときの首相は村山さんでした。
対応の悪さはすぐに露呈しました。
中央での情報収集の遅れ、自衛隊派遣の遅さには皆がイライラさせられたと思います。
天災から人災へ。
火災を最小限でおさえられなかったことは、多くの人命を奪い、
悲しい現実をたくさん引き起こしました。
毎日増える、死者の数に涙が出ました。
横倒しになった阪神高速もまるでハリウッド映画を見ているようでした。
こんな大震災がこの日本で起こるなんて・・・。
根拠もなしに安全だと思っていた自分が愚かに感じました。
今の神戸を見て、本当にすばらしいなと思います。
よくぞここまで復興したなと。
震災後、一年ほどして神戸を訪れましたが、やはり傷跡はひどいものでした。
それが今では以前よりも立派な街並みに成長し、
それでいて震災を忘れさせない何かが神戸にはありました。
あれから11年ですが、生活の中でも地震には敏感になっています。
こんなものを棚に置いたら危ない・・とか、通路はきちんと確保しなきゃとか。
富山は地震の発生確率が少ないようなので少しほっとしています。
雪害は多いみたいですが・・。
大きな地震は、トラウマになります。
今でも少しの揺れを感じると、思い出したりします。
あの息をのむしかなかった恐怖はもう二度と経験したくありません。
今日が丸11年。
11年とは・・ちょっとびっくりしました。
私は当時17歳。
大阪・東大阪市の木造二階建てに住んでいました。
今でもあの大きな揺れの衝撃を覚えています。
午前5時46分。
普段絶対目覚めていないはずのその時間になぜか私は
うっすらと目を開けていました。
隣で寝ていた父も布団の中で目覚めていたようでした。
地震が起こる一分ほど前には言葉ではうまく言えませんが
もわっとした空気に変わった気がします。
まとわりつくような空気で、気持ち悪く感じました。
しばらくして
ドーン!!!という爆音(なにか爆発したような音)が響きました。
その音のすぐ後にガタガタガタガタと大きな揺れ。
家自体がギッシギッシと大きく揺れ、立ち上がることもままならず、
泣きそうになりながら布団にしがみついていました。
父はとっさに二つの洋服ダンスが倒れてこないように両手で押さえて
いました。
「大丈夫や!」と叫びながら・・。
揺れている時間はそれほど長くなかったかもしれませんが、
私はいつこの揺れがおさまるのか心配で仕方ありませんでした。
大きな揺れの後には何度か余震があり、
階段で一階へ下りるときにも階段がぐらぐらと揺れてうまくおりることが
できませんでした。
一階に置いてあったピアノは踏み板の上から落ち、
台所のものも多少は落ちていました。
そんなにひどい惨状というほどではありませんでした。
父の事務所では本棚から本がなだれ落ちていました。
その片づけをしている頃にはテレビでは続々と地震のニュースが流れ、
その惨状はどんどん拡大していきました。
各局のヘリコプターは、神戸の街並みを映し出し、
そこからは煙が幾筋も上っていました。
火事だ・・これはひどいことになるんじゃないか・・
細かい状況は分からず、どんどんブラウン管の中の街は黒い煙を増やしていきました。
神戸はよく遊びに行っていたので、あの立地だと火が回るのは
早いだろうと簡単に予測できました。
でもまさか6434人もの命を奪う惨劇になるとは思いませんでした。
あのときの首相は村山さんでした。
対応の悪さはすぐに露呈しました。
中央での情報収集の遅れ、自衛隊派遣の遅さには皆がイライラさせられたと思います。
天災から人災へ。
火災を最小限でおさえられなかったことは、多くの人命を奪い、
悲しい現実をたくさん引き起こしました。
毎日増える、死者の数に涙が出ました。
横倒しになった阪神高速もまるでハリウッド映画を見ているようでした。
こんな大震災がこの日本で起こるなんて・・・。
根拠もなしに安全だと思っていた自分が愚かに感じました。
今の神戸を見て、本当にすばらしいなと思います。
よくぞここまで復興したなと。
震災後、一年ほどして神戸を訪れましたが、やはり傷跡はひどいものでした。
それが今では以前よりも立派な街並みに成長し、
それでいて震災を忘れさせない何かが神戸にはありました。
あれから11年ですが、生活の中でも地震には敏感になっています。
こんなものを棚に置いたら危ない・・とか、通路はきちんと確保しなきゃとか。
富山は地震の発生確率が少ないようなので少しほっとしています。
雪害は多いみたいですが・・。
大きな地震は、トラウマになります。
今でも少しの揺れを感じると、思い出したりします。
あの息をのむしかなかった恐怖はもう二度と経験したくありません。
僕もあの日の事は覚えています。
当時、日曜雑貨品の営業をしていて
僕は神戸担当だったんですが
大阪からお客さんの所まで片道
1時間ぐらいのところが
5時間ぐらいかかりました。
半年ぐらいは仕事になりません
でした。
営業中あちらこちらでお葬式が
あって、現実を目の当たりにして
泣きそうになりました・・・
救援物資を運んでる車を見ると
ガンバッテっと応援したくなり
ましたよ!
完全とは言えないかもしれませんが
復興してよかった!
大阪ですので、あこぎな商売をする輩も
いたようですが・・・。
私も高校生でなかったら色々したかったな。
あ、でも学校で毛布・石けん・服などの
提供はしたかな。
被災した友達が1週間お風呂に入れなくて
水不要のシャンプーが必需品だったことを思い出しました。
なんともいえない感じで読ませていただきました。
しかし、もう11年も経ってしまったのですね。
早いです、時の流れが、、、、、
11年ってすごく長いのにあっという間でした。
ついこの間のことのように思い出せるのは
やはり人生でそれほどの大きな体験を
意味しているのでしょうか。
あれから大地震は各地で起きましたが
そのたびに胸が痛むのです。
地震大国日本に住む限り仕方のないことかもしれませんが。