少佐のいう「5年前」とは第1次上海事変のことである。このときの中国軍には逃げようとする兵士を後ろから狙撃する「督戦隊」というものがいたらしい。
板垣中将はもともと支那事変の拡大をつよく主張していた。
8月末には参謀本部も方針を不拡大から拡大にあらためた。あらたな方面軍司令として寺内大将が天津に入り、第5師団には大幅な増強がなされた。
当初、張家口以東が作戦範囲であるはずのチャハル作戦にも見直しが必要となった。
以下、辻少佐の回想録より抜粋。
八月末、不拡大から拡大に変った中央部の方針で、兵力が割期的に増強された。
寺内大将が、新たに方面軍司令官に着任され、その参謀長は、岡部中将となり、その参謀副長には、河辺少将が任命せられ、従来の香月司令官は第一軍に、新たに西尾中将が第二軍に、夫々任命された。
方面軍作戦課長は下山大佐に、作戦主任は堀毛中佐に決定されたが、どうしたものか、この方面軍司令部の空気はよくなかった。幕僚間には、人を押し除けて、自分の手柄を立てようとする空気が強く、その癖、危い方面や、厭な仕事は引受け手がない。宴會は毎晩のようにあり、浴衣がけに、女中のサービスで、冷い酒を飲んでいる。
偶々、第五師団の用法に関し、意見の衝突が起きた。全般的な戦略態勢から見ても、又現実の状況から見ても、山西省を抑え得ないで、北支殊に河北省の治安は維持出来るものではない。