8月11日、坂田支隊(兵員700)は旅団長の指示に反して白羊城から進撃を開始。同日、腰堡を攻略した。
坂田支隊はこの高地を確保しようとするが、敵の反撃は予想外にはげしいものだった。
以下、辻少佐の回想録より抜粋。
「苦笑いされる旅団長の顔が目に浮んだ。
馬が、辛うじて通れる谷底の川原路を北進すると、両側の断崖上に、待ち構えた敵から狙い撃たれた。素早く馬から降りる。
機関銃の音が、初めて見る敵の装備のよさを誇示しているかのようだ。五年前、上海で戦った十九路軍とは、同日の論ではない。川原に散開して射撃を始めたが、地の利は敵にあり、忽ち尖兵長がやられた。常岡中将の令息だ。胸をやられても気丈な少尉。これがその後、約八年間の戦場で見た最初の負傷者である。漸く、敵を退けて腰堡西側の高地によじ上った。山砲の中隊長有川大尉は、陸士の同期生であり、彼自ら砲隊鏡を取って、射弾の観測をやっている。富士の裾野で、歩砲兵の連合演習をやった当時そのままの姿勢で、彼は、今実敵の頭上に必中の弾を浴せている。

北から、続々増加する敵の縦隊が、その出鼻をたたかれて、右に左に、正面を拡げている。
夥しい敵だ。 僅かに七百名の支隊に数倍の敵が、頭上に炸裂する砲弾に眼もくれぬかのように、 後から後からと増加して来る。
本道方面の敵を、この小兵力で突き破る自信はない。何とか手薄な方面を選んで、敵よりも早く長城線に取りつこうと、支隊長は決心した。
僅かな一部を腰堡に残して、本道方面の敵を阻止させ、支隊の主力は尾根伝いに横這いした。
右も左も銃砲声に囲まれながら、八月十二日 の夜をこの山上で明かしたが、戦場は霧に閉ざされて、彼我の識別が難しい。 」