大原作戦を認可した参謀本部作戦部長石原大佐は、くしくも辻少佐に「長城線以南に指一本触れてはならぬ」と諭した人物。もはや戦争が始まってしまった以上、拡大に反対をとなえるのは非現実的だ。
張家口(ヘックス1422)までとされていた作戦範囲は大原(ヘックス2122)にまで広がった。すでに第1ターンのサバイバルチェックのラインを越えている。
9月なかば、中国軍は大同(ヘックス1723)を放棄して撤退。第5師団板垣中将は三浦支隊に作戦参謀として辻少佐をつけ、大原へ向かわせた。
9月19日、三浦支隊は平型関で中国軍の巧みな用兵により補給路を遮断され、9月23日〜30日の戦闘で食糧も弾薬も尽き、全滅の危機におちいる。この方面の中国軍はあきらかに以前とは異質のものだった。
以下、辻少佐の回想録より抜粋。
板垣師団長は先ず三浦少将の指揮する歩兵四大隊と、砲兵一大隊、工兵一中隊で平型関口附近の敵に一撃を与えるよう命令された。
九月二十三日早朝、三浦支隊は霊邱を出発し、勢いに乗じて一気に平型関口を突破しようとした。併し、戦況は如何にも不思議であった。
前面の敵はジワリジワリと、ゴム球を抑えるように抵抗するが、それに反して、我が進撃の側には鋭い楔を打ち込んで来る。
自動車二中隊を率いて支隊の補給を担任していた新庄輜重隊が、九月十九日の未明、強大な敵の待ち伏せを喰って、約百輌に近い車輌と共に全員壮烈な戦死を遂げ、連絡に来た橋本参謀もその側杖を食った。その為折角正面に突込んだ兵力を、一部後退させて、この後方の敵に備えねば ならなかった。
だが前方を破ったら、後方の敵は自然に退るだろうとの判断で、激しく平型関口の敵陣地に殺到した。 平型関の門を取るには取ったが、その前方には堅陣が幾重にも築かれ、南北の高地から側面に対し、激しい逆襲を受ける。
旅団の中堅たる粟飯原連隊は、遠く北方に道を誤ったか、或は敵に脅えたか、一向に予定の線に進出して来ない。
戦況は日を経る毎に悲惨になった。
僅かに二大隊で三方から包囲する敵の猛撃を支えたが、七日間の苦闘の後には、弾薬が皆無となり、糧も亦尽きて、死馬の肉や草の根を噛った。後方が遮断された結果であり、幾度か旅団長と共に最後の決心を固めた。
平型関南方の高地は、三回も争奪を繰り返し、味方と敵の屍体が狭い浅い壕内に、二重、三重 に折り重なっている。
平岩大隊の兵約四十名で、僅かに残った山砲弾二十発の協力下に、どうにか三度これを奪い返した。その戦場に立って、敵と約百米に接していた時、防雨マントを着た敵の高級将校らしいものが、俄かに仁王立ちに立ち上った、胸を反らし、「撃って見ろ!」というように、暫くの間動かない。距離僅かに百米である。
「✕✕✕ではなかろうか? 何という男だ。」