現在、IPR現象学研究会社会人ゼミではマルティン・ブーバーの『対話の倫理』を輪読しています。先週の社会人ゼミで、「第3章 現代における神の沈黙——実存主義と深層心理学について」を読了しました。この賞の後半でユーバーは深層心理学者であるユングを鋭く批判するのですが、章の終わりにハイデッガーの言葉を引用しつぎのように述べています。
われわれはハイデッガーのこの言葉にしっかりと耳をかたむけなければならない。なぜなら、われわれはこの言葉が言いあらわしている事柄や、ほのめかしている事柄が、今日この世において真実であるかないか、われわれ自身ではっきり判断を下さなければならないからである。(p.167)
この本が書かれて70年以上経ちますが、今回追記したハイデッガーの言葉は今なお、わたしたちにとって新鮮かつ重要な問題ではないでしょうか。いや、ブーバーやハイデッガーが生きた世界大戦の時代よりも現代の方が、途方もなく巨大なシステムがわれわれ人間にとって最も重要な真実をおおい隠し尽くしてしまっているので、より一層困難な問題になっているのかもしれません。
今回、この文を抄本に追加し、読者の方々と共有して一緒に考えていきたいと思います。
改訂版 『対話の倫理』抄本 版1.5
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ipr_phenomenology/Buber_conversasion_1.5.pdf
IPR現象学研究会社会人ゼミ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ipr_phenomenology/zemi2.htm
***追加引用文(抄本 p39-40, 41)***
ニーチェは「死せり、すべての神々は。されば、われらは望む、超人よ生きよ」と力強く叫んだ。ハイデッガーは、ニーチェのこの警告にたいして、ちょっとかれらしからぬ調子でつぎのような付けたしをしている。(111)「人間の本質はいかにしても神の本質的領域には及びえない。だから、人間が神の位につくということなどけっしてありえない。しかしながら、この不可解事にくらべれば、はるかに不気味なことが起こりうるのである。われわれはその本質をいまようやく考え始めたところである。形而上学的にいって、神にふさわしい位とは、存在者を被造物として創造的に生み出し、またそれを維持する活動の場所であるといえよう。この神の位は空っぽのままのことがある。そんなときには、そのかわりに、形而上学的にそれに対応するもう一つの場所が口を開く。この場所は神の本質の領域とも人間の本質の領域とも同じではないけれども、それにしても人間はそれと卓越した関係を結ぶことができるのである。超人は神の位につくのではない。そんなことがあるはずがない。そうではなく、超人の意志が到達する位は、被造物と存在を異にする存在者を、神と異なる仕方で基礎づける活動の領域なのである」と。
われわれはハイデッガーのこの言葉にしっかりと耳をかたむけなければならない。なぜなら、われわれはこの言葉が言いあらわしている事柄や、ほのめかしている事柄が、今日この世において真実であるかないか、われわれ自身ではっきり判断を下さなければならないからである。
訳注
(111)『森の道』235頁参照。この引用とつぎのユングの言葉とを比較されたい。「神の座が空位となっている期間というものは、一触即発の危機をはらんでいる」(『心理学と宗教』中「ある自然的事象の歴史とその心理的構造」)これは本文とほとんど反対のことを意味している。