本当の人間関係を学び続ける学徒のつぶやき

人間関係学を学び続ける学徒の試行錯誤

悩みの尽きない人間関係

2017-08-26 09:25:52 | コラム

  先日、会社の事業戦略会議が午後8時半ごろに終わり、空腹を満たすのと会議の疲れをいやすため新橋のなじみの小さな焼鳥屋にひとりで入った。狭い店の中は込んでいたが幸い奥のカウンターの隅が一席空いており中に入ることができた。焼き鳥、煮込み豆腐などのつまみを肴にビールを飲んでやっと人心地をつきながらスマートフォンで研究会仲間とメールのやり取りをしていると、ふと、隣に座っている40代と思しき女性と50代と思われる男性の二人連れが話しているのが耳に入ってきた。「○○先生は事務所のスタッフやアルバイトの人たちの気持ちをわかろうとしていない。」、「○○先生は、仕事はできるかもしれないが冷たい感じがして一緒に仕事するのがどうも苦手。」などなど。どうも二人は新橋界隈の法律事務所に勤める弁護士のようだ。いろいろと職場の同僚や上司の人間関係で不満があり二人で飲みに来たらしい。

 弁護士といえばもちろん法律の専門家で知的レベルの高い人たちだと思うが、このような人たちも自分たちと同じように職場の人間関係に悩んでいるのかと妙に安心した気分になった。古今東西どこでも人間が人間である限り人間関係の悩みは尽きない。

 私たちは職場でも家庭でもどこでも人間関係に囲まれて生きている。まわりには実に様々な人がいる。権威主義的な人、自己中心的な人、ええかっこしい、カワイコぶりっ子、誠実な人、温厚な人、冷たい人、口だけの人、枚挙にいとまがない。はっきりしていることは、私たちはこの世の中を生きて行くときに出会う人のタイプを選べないことだ。自分の思い通りにならない、言うことを聞かない様々な人々の中で生きてかなければならないということだ。最も大事な問題は、その中で私たちはどうやって生きて行くのか、ということだと思う。ほとんどのだれもが認めるように私たち一人ひとりはとてつもなく非力で、単独では私たちの住むこの世界、この国、この社会はもちろん、職場や家庭を変えることはできない。子育て一つとっても他人を変えることは至難の業だ。そんな中で唯一私たちが出来ることは、自分がどう生きるのかに向き合い、どう生きて行くのかを決めていくことだと思う。

 そして求められる生き方とは、自分に本来備わっている「生命の源のようなもの」に誠実に生きることだ。自分に本来備わっている「生命の源のようなもの」は個々に閉じているのではなく関係性の中に存在する。この「生命の源のようなもの」を大切にし、関係の中で誠実に生きることのみが、自分を取り巻く諸々の人間関係と繋がり孤独から解放できる唯一の道だと思う。

 日本IPR研究会では年2回参加者を募りIPR(対人関係、人格間関係)トレイニングを開催している。このトレイニングに参加すれば人間関係を改善させる魔法の杖を得られるわけでも、他者を変えさせる秘法を習得できるわけでもない。3泊4日のベーシックトレイニングと1泊2日のメイントレイニングで参加者とスタッフは車座の椅子に座り、「本当の」人間関係を学ぶ旅に出る。そして、「本当の」コミュニケーションに集中した末に関係性の中に存在する「生命の源のようなもの」を参加者自身が実際に確認し、「本当に」生きることを実践できるようにすることがこの旅の目的だ。

 私も生身の人間なので、職場や家庭、様々なところで悩みは尽きない。酒も飲む。しかし、スタッフとしてトレイニングに何回も参加しているうちに段々とこの「生命の源のようなもの」がたくましくなってきたような気がする。本当に心を開ける仲間も増えてきた。これがこのトレイニングの最大の効用ではないだろうか。


人工知能(AI)を考える

2017-08-26 08:06:32 | コラム

 最近、新聞紙面で「AI (Artificial Intelligence)」に関する記事を見る機会が著しく増えてきた。例えば「国産囲碁AIが初白星 趙名人相手 ハンディなしで」、「AI、医師試験合格近づく 慶大、正答率55%超に」(共に日本経済新聞 2016年11月21日)、「がん治療にAI活用 超早期診断などをめざす 国立がんセンターなど」(同2016年11月30日)などである。また、AIが人の知性を上回るというシンギュラリティー(特異点)についての議論もますます活発になってきた。同じく日経新聞の2016年5月23日の記事に「(日本の)内閣府は、急速に進歩する人工知能(AI)とうまく付き合う方法を探る検討に入る。」とあり、この記事によれば内閣府の専門家会合では「意識や心を持つAIに人格権を認めるべきか」「人間側はどんなリテラシーを身につけるべきか」といったテーマも想定し、議論を深めていくらしい。別の記事では「AIに非常停止ボタン グーグル 「暴走」阻止へ開発推進」(同2016年6月9日)と報じている。急速に進化するAIの悪用への懸念や社会の不安に応えることが狙いで、AIが非常停止ボタンを無効化しないよう、あたかもAIが自分で判断したかのように“だます”ことがポイントらしい。IT業界の片隅で生業を得る私としてもこのAIのことは決して他人ごとではない。

 製造業の生産管理から自動車の自動運転、医療現場のがん判定などさまざまな分野での応用が期待されているAIであるが、いわゆる道具であるコンピューターの進化形であるAIとこの道具を使う人間との関係の深くて長い模索はこれから一層難題としてついて回るであろう。そんな中、興味深い記事があった。「人間中心のAIめざす 米マイクロソフトCEOに聞く」(同2016年11月29日)である。この記事の中でマイクロソフトのサティア・ナデラ最高経営責任者(CEO)は記者のAIによる人間の置き換えについての質問に対しAIに簡単に置き換えられない仕事の例として「医療の世界では“医師”の仕事は自動化できたとしても、看護師や介護福祉士などは人が足りない。AIが普及した社会で一番希少になるのは、他者に共感する力を持つ人間だ。」と答えた。マイクロソフトが今夏に公表した「AI開発原則」の中で「人間に求められるもの」の筆頭に「共感力」を挙げ、「他者に共感する力をAIが身につけるのは極めて難しい。だからこそ、AIと人間が共生する社会において価値を持つ」と規定している。

 サティア・ナデラ氏が「共感」についてどの程度の洞察を持っているのかはこの記事を読む限りでは判らないが彼のこの見解は哲学者マルティン・ブーバーの言葉を思い起こさせる。患者や病気を単に観察する対象としてしか見ることのできない医療従事者は遠くない将来AIにとって換わられ、患者を人間として「ありありとあらしめる態度(現前化)」をとることができる医療従事者のみが生き残り、更に一層世界から求められるような時代が来るということだ。医師や技術者、弁護士など知的レベルの高く、知性や技術、論理能力のみが人間性の優位性のよりどころと信じている人々にとっては、AIはまさに自分の仕事と価値を奪う脅威に他ならない。(近ごろは医療技術の急激な発達のせいか、かつて早坂泰次郎先生が指摘した“Nursing is nothing”という看護関係者の最大の美徳を忘れ、技術や知識、論理のみに固執する看護関係者が増えてきたと聞くが嘆かわしい限りである。もしそうだとすれば、彼(彼女)らもAIに職を追われる危機が近づいていると言えよう。)


 さて、「共感」について少し考えてみよう。マルティン・ブーバーはその著書『哲学的人間学』の「原離隔と関わり」の章のなかで「共感」について以下のように述べている。

「他者の意志行為を表象する私の表象には、意志行為の本質であるものがいっしょになって働いているというが如きである。このための通例としては、いわゆる『共感』ということが引かれ得るであろうが、しかしその場合には曖昧な『同情』ということは考慮からはずして、『共感』の概念をかの『事態』に制限する必要がある。それは、私がたとえば他者の特殊な痛みを経験する時、他者のその特殊なものを、従って一般的な不快或いは一般的な悲しみではなく、この特殊な痛みを、しかもまさしく他者のそれを、感得し得るようになるという仕方で、経験するということである。」(24ページ、筆者注:「事態」とは「現前化」を指す。)

また、この「現前化」についてブーバーは『対話的原理Ⅱ』の「人間の間柄の諸要素」の章で「感得は、私が他者に根本的に関わるとき、つまり他者が私にもつ現存となるときに、はじめて可能なのである。それ故私は、この特別な意味での感得を人格の現前化と名づけるのである。」(102ページ)と述べる。再び「原離隔と関わり」に戻る。「私と他者が共通な『生の境位』によって取り囲まれており、そしてたとえば私が他者に加えるところの痛みが、私自身の内で痙攣し、遂には人間と人間との間の生の矛盾が深淵としてあらわになるところでは、この『現前化』はその極み、魂の逆説までに高まる。そのとき、これ以外の仕方ではけしって促進され得ない或るものが起こり得るのである。」(24ベージ)と述べ、「私と共に他者が自己となること」すなわち「人間の間にあっては、殊にかの『現前化』の相互性から―私が他者の自己を現前化すると共に、逆に他者によって私が私の自己において現前化する」(25~26ページ)と言明する。要約すれば、「共感」とは根本的に他者と関わるときに得られる感得である「現前化」が前提であり、この「現前化」によってのみ私と共に他者は自己となることができるということだ。ブーバーの言う「共感」とは、一般に「共感」と混同される「同情」のような、なんとなく理解し合えたような生温い感じとは全く異質でレベルの異なる、人間存在の本質にかかわる問題、生命が持つ根源的な関係性にかかわる問題として捉えなければならない。


 再びマイクロソフトの「AI開発原則」に戻ろう。AIの開発主体である彼らはこの原則で「人間中心」や「共感力」を謳い、「(人間の)代替より(人間の)能力拡張」を訴えるが、AIの進化への期待や情熱とはうらはらに人間そのものの成長についての記載はない。

 AIが技術革新のなかで強化されていく一方で、人間の力が弱体化してしまえば、たとえAIの緊急停止のボタンを作ったとしても、便利で安全な社会システムのインフラを支えるに至ったAIが万一暴走し人々に危害を加えるようになった際、本当に人間は便利さや安全を犠牲にする覚悟と勇気をもってAIを止めるボタンを押すことはできるのであろうか。


 AIが急激に進化する現代という時代の中で、我々の人間力がいよいよ試されることとなってきた。この「人間力」とは生きている人間であろうとする力であり、この力はブーバーの言う「現前化」を前提とする。もちろん「人間力」が問われるのは医療従事者だけではない。私たち現代人全体の問題だ。現代社会の中で複雑さを増した、ブーバー流に言えば「我―それ」の世界は今まさにAIにとってかわられ、私たち人間には「我―汝」の態度のみが生存のための喫緊な課題となってくるであろう。そのような時代の中で現象学と実存心理学を学問的根拠とし「本当の人間関係」を実践的に確認し学ぶための場であるIPRトレイニングに対する社会の要請は高まざるを得ない。この先、研究会スタッフの意識と覚悟が一層問われることは間違いない。


横断歩道

2017-08-26 07:33:29 | コラム

横断歩道

最近僕は手を挙げて近所の信号のない横断歩道を渡る。

以前は車の流れが切れるまで何もしないで待っていた。子供のころは親に言われたり学校から指導を受けたりして素直に手を挙げて横断歩道を渡っていたと思うが、たぶん中学生や高校生になったころ、手を挙げることは子供っぽくて恥ずかしいと感じ、手を挙げるのをやめたのではないかと思う。大学生になって自動車の運転免許を取った後は、自分が歩行者の時も運転手気取りで頑なに手を挙げなくなった。そして車の流れがなかなか切れないときには、一体何時になったら渡れるのだろうと内心苛立ったり、横断歩道で歩行者を見ても停止しないで通り過ぎていく運転手を恨めしく見送ったりしていた。逆に僕が運転手の時も信号のない交差点で手を挙げずに立っている歩行者のことをほとんど気に留めずにいた。 


僕に変化が起こったのは昨年四月までの二年間の名古屋での生活だ。

僕は単身赴任で名古屋市丸の内一丁目にあるマンションで暮らした。毎朝運動不足解消のため、30分から45分ぐらい近所を散歩することを日課としていた。丸の内界隈は昔の城下町の面影を色濃く残しており、徳川家康が名古屋城を築城した際に整えた碁盤割という整然とした町割りが特徴だ。街中には縦横に道が走り至る所に信号のない交差点と横断歩道がある。車は交差点で必ず徐行し歩行者がいれば停止して道を譲る。僕も運転者に目配せをし、軽く会釈をして道を渡った。そして自然と軽く手を挙げて「渡らせてくださいね。」と合図を出し、止まってくれたら「ありがとう。」と手を振るようになった。運転手も心地よく応えてくれた。

単身赴任を終え、藤沢での以前の生活環境に戻った。土日の近所の県道は相変わらず遠方からの観光客などで車の量が多い。スーパーマーケットに買い物に行くために信号のない横断歩道を渡らなければならないが、なかなか車の流れが切れずに渡れない。それで僕は名古屋で覚えたように手を挙げた。なかなか車は止まってくれなかったが何台か目の車が止まってくれた。対向車線の車も止まってくれた。僕はうれしくなって感謝しながら道を渡った。待っていた何人かの人たちも渡った。


名古屋在住時に参加したマルティン・ブーバー勉強会で、段差のある人間関係においても限定的な「我―汝」は実現できると学んだ。段差のある人間関係とは例えば、教師と生徒、経営者と従業員、上司と部下、医師と患者など社会的役割に明確な違いのある関係をいう。この段差のある人間関係には横断歩道での運転手と歩行者の関係も含まれると思える。自動車という機械を操縦する運転手は生身の歩行者よりも圧倒的に強力だ。もし運転手と歩行者がお互いに我を張り同時に横断歩道内に進入すれば確実に歩行者が傷つく。その意味で歩行者は完全な弱者である。歩行者はこのことを自覚し横断歩道を渡りたいときは素直に運転手に手を挙げて合図を出し、止まってくれたら感謝を示すことが自然であり重要なことだと思う。そしてこのことによって限定的とはいえども「我―汝」の関係を実現できる可能性を広げることができる。


気のせいかもしれないが、最近近所のこの横断歩道で止まってくれる車が増えた。手を挙げて横断歩道を渡る歩行者も増えたようだ。

必要な時に手を挙げて合図を出し、止まってくれたら感謝を示す。とても当たり前で些細なことではあるが、段差のある人間関係で「我―汝」という相手に語りかける態度を実現していくための貴重な一歩だと思う。情報氾濫の中で忙殺され、相手を利用する態度である「我―それ」ばかりが横行する世知辛いこの世の中で少しでも豊かで人間的な生き方を実現していくために、こうした些細なところから、出来ることから大切に大事にしていきたいと思う。

僕も車を運転するときに信号のない横断歩道で渡ろうとしている人を見たら、出来るだけ車を止めよう。そして横断歩道を渡る歩行者が会釈をしてくれたら、ニッコリ笑顔を返そう。


「いとおしい」ということ

2017-08-26 06:58:32 | コラム

それでは自己紹介の代わりに今まで研究会のブログに掲載した私の記事をいくつかご紹介しましょう。

***2017年01月30日***

「いとおしい」ということ

僕は健康診断が苦手だ。

もちろん健康維持のために必要なことは理解しており、会社の規定でもあるので、必ず年に一回人間ドッグを受診はしているが、僕が40代前半のころ都内のあるクリニックで受診した際、ある医師に言われたことがいまだに僕の心の中の棘となって残っている。

当時、僕は海外のコンピューター通信システム製品を国内のサービスプロバイダーに展開する営業の最前線で働いていて、海外メーカーの技術者や国内の取引先の担当者と銀座や赤坂で接待三昧、酒にタバコ、連夜の夜なべと無節操な生活をしていた。そのあげく高血圧症など成人病の兆候が早くも出始めていたのだろう。その医師に僕は「最近は医療技術が発展したため脳卒中などで倒れても昔みたいにすぐに死なずに、半身不随になって生きながらえる。このままいくとあんたは死に損なって、家族に迷惑をかけることになるぞ。」と脅された。医師としては僕にお灸をすえようと心配して忠告してくれたのだろう。が、その時分の僕はこんな忠告を素直に受けるはずもなく、それっきりそのクリニックでの受診を止め病院を変えた。以来、僕は健康診断というものに身構えるようになっていた。


最近某大病院で心臓の精密検査を受けた。

僕は大分以前から心電図の波形に少し問題があり、人間ドッグのたびに指摘を受けていた。そのたびに再検査で心電図をとったが、特に自覚症状もなく日常生活に支障もないため、結局「しばらく様子を見ましょう」ということになり、長い間なにもしないでいた。昨年の人間ドックでも心電図の項目に要再検査と所見があった。まぁ今回も今までと同様もう一度心電図をとって様子見かなと思っていたら、会社の健康推進室から面談に応じるようメールで通達がきた。

僕が勤務する会社は、経済産業省・東京証券取引所から「健康経営銘柄2016」に選定されたり、「第5回 健康寿命をのばそう!アワード」(生活習慣病予防分野)で「厚生労働大臣最優秀賞」(2016年11月)を受賞したりと健康経営や従業員の健康促進に相当気を使っている。僕は十年ぐらい前にタバコを止め、以前のような無節操な生活はしていないものの、昨年春に名古屋での単身生活から神奈川の自宅に戻り体重が少し増えてしまった。血圧もあまり芳しくない。そんな負い目もあり、今回、健康推進室から呼び出されたのは、会社が僕の無節操を糾弾し、以前の医師のように健康推進室の担当者が僕をまた脅かすことではないかと内心恐怖に慄きビクビクと身構えた。

僕と面談したのはかなり経験を積んだ感じの僕よりすこし年上の女性のナースだった。身構えた僕は、彼女に最近読んだアトゥール・ガワンデの『死すべき定め』の話を持ち出して「医療技術がどんなに発展して死ににくい時代になろうとも、僕は自分の『生』をしっかりと生きて行く」と必死に彼女につっかかった。そんな僕を彼女は優しく笑顔でいなし、「わたしはあなたの心臓がいとおしい」と言った。

彼女は真剣だった。初対面の人間から僕の身体のことをいとおしいと言われた僕も驚いた。僕が驚いたのは、彼女が心電図のグラフが示す僕の心臓の動きが「心配だ」とは言わずに、僕の心臓のことが「いとおしい」と言ったことだ。僕はこの言葉を受け止め、即座に彼女が大病院に僕の精密検査の予約をとることに同意した。


大病院での精密検査はまず問診から始まり、改めて心電図の採取、ヨード造影剤を投与してのCTスキャン、心臓超音波検査と続き、かなりの時間とそれなりの費用、そしてリスクと不安に向き合うものであった。そんな自分を支えたのは彼女の「いとおしい」という言葉だった。彼女がいとおしいというなら僕だって自分の身体をいとおしく思わなくっちゃいけない。

「心配している」と「いとおしい」という感覚の違いは、かつて哲学者マルティン・ブーバーが『哲学的人間学』の「原離隔と関わり」の章で指摘した「同情」と「共感」の違いを想起させる。「心配している」私は他者に心を配るが「私自身」は痛くもかゆくもないと言えば言い過ぎだろうか。一方、「いとおしい」は日本の古語の「いとほし」であり一般的には「愛ほし」をあてるが、「いと惜し」に通じるかもしれない。滅びや死を内在する「生命」 ー生きとし生けるもの― に対して「私」自身が感じるの痛みの感性だ。僕は人から「心配だ」と言われても何かよそよそしい感じがするが、「いとおしい」という言葉には、共に痛むような感覚の共有 ―共感― を感じる。だから健康推進室のナースに「いとおしい」と言われたとき、僕は自分でも信じられないぐらい素直に精密検査の受診指示に従ったのだと思う。

先日検査の結果が出た。若干心筋が厚くなっているものの心臓・冠動脈共に健全で日常生活に支障なしとの所見だった。病院から会社に戻り真っ先に彼女に結果を伝えた。彼女は本当に喜んでくれた。僕も嬉しかった。


「いとおしい」という言葉を思う時、最近僕が参加したあるIPRトレイニングの「終わりの全体会」で、最後まで気になっていたあるメンバーに対して「いとおしい」と相手を見つめながらしっかりと語りかけた一人の素晴らしいナースのことを思い出す。

僕は本当の人間存在 ―人格間関係(IPR:Inter-Personal Relationship)の中に存在する人間の現実存在― が最も洗練され、昇華されたときの姿は「いとおしい」という感性であらわされるのではないかと思っている。