前回、ブーバーの「現代人は他人と交わろうとして『まぼろしの汝』をつくり上げてしまいました。かれらがこの病気から立ちなおるには、個人主義にも集団主義にも見いだすことのできない『真の汝』と出会い、それによって失われた人間性を回復すること以外にない」という言葉を紹介しましたが、わたしはここで言われている「失われた人間性」こそ、ウクライナで起こっている悲惨な出来事の核心であり、その病原は現代人をおおう「不信の念」であると思います。
では、どうしたらこの「不信の念」を払拭することができるのでしょうか。どうしたら「真の汝」と出会い、人間性を回復することが出来るのでしょうか。
ブーバーは「『純粋な対話』は、われわれが相手を尊重し、相手に身になって話し合うときはじめて成立します。互いに自分に都合のよいことばかり話していたのでは、絶対に対話は行われません。」と「純粋な対話」の重要性を説き、「この際わたしが心から望みたいのは、世界の国々の代表者が自国の押し売りを止めて、もっとおだやかに相手を理解し、利害が対立したときも、出来る限り共通の立場や利益を見いだそうと努力することです」と述べます。
そして、「このような努力も口先だけならきわめて簡単ですが、実際となると容易なことではありません。個人と個人の間でさえ容易ではないのですから、国と国との間ではまず至難といってよいでしょう。」と「純粋な対話」の難しさを率直に認めています。
ブーバーはこの困難さを克服するために、「それは現代の危機が人間の不信ばかりでなく、神への不信から生じているということです」と、現代人が陥っている「神への不信」に言及し、「人間と人間との和解は人間と神との和解を生み、また人間と神との和解は人間同士の和解を生じます。そしてこの『純粋の対話』が、やがては現代における集団化の傾向を挫折させるに違いありません。」と、人間と人間との和解、そして、人間と神との和解が人類の希望につながると述べます。
ブーバーは、最後に「わたしがともに平和を語りたい相手は、政治のカラクリから離れ、自由に虚心坦懐に対話のできる人です。こういう人が集まって自国と他国との関係を論じ合うならば、それこそ現代の危機を打開する大きな力となるでしょう。なぜなら、真の世界平和は人種も言葉も政治も全く違った国民が互いに相手を信じ『汝よ』と呼び合うときはじめて実現するからです。相反するものの統一こそ『純粋な対話』におけるもっとも根源的な神秘なのです」と書いてこの手紙を締めくくります。
わたしはこの言葉を読み、まったくその通りだと得心する一方、この手紙が書かれた1963年から60年近く経ったいまでも全く世界の状況が改善していないことに愕然としてしまいます。わたしたちは「真の汝」と出会い「純粋な対話」を実現できて来たのでしょうか。これは、国を代表する政治家の話ではありません。わたしたちひとり一人の問題です。「個人と個人の間でさえ容易ではない」とブーバーも認めているように、お互いに相手を信じ「汝よ」と語りかける関係、本当の人間関係を結んでいくことは難しいけれども、わたしたちは「純粋な対話」によって「真の汝」と出会い、「不信の念」を拭い去り、失われた人間性を取り戻さなければなりません。
たしかにウクライナで起こっていることは目をおおうような悲惨な出来事です。しかし、すでに事態が起こってしまった以上、とにかく一刻も早い収拾と平和の回復を祈ることしかありません。わたしたちが、もう二度とこのようなことが世界で起こらないようにするには何をすべきかを真剣に考えるべきです。
60年経っても世界の状況が全く改善しなかったのは、政治家が純粋な対話を怠っていたせいではありません。政治家はわたしたちの鏡にすぎず、主体はわたちたちひとり一人なのではないでしょうか。世界中のわたちたちひとり一人が、「純粋な対話」によって「真の汝」と出会い、「不信の念」を拭い去り、失われた人間性を取り戻せば、戦争など起るはずがありません。
そのためには、まずわたしが、人間を信じ、純粋な気持ちで他人に「汝よ」と呼びかけよう。そして、長い沈黙のあと、わたしは口ごもりながらもあらためて「永遠の汝」に——つまり神に——呼びかけたい。そして、わたしの周りのひとり一人にそれが伝わっていく、響いていく。これが、いまのわたしの希望です。
引用文献
対話の倫理
M.ブーバー原著 野口 啓祐訳 創文社 初版1967(昭和42)年
引用文は、1963年10月27日付けの読売新聞に「世界人との平和問答」と題された特集紙面に掲載された。