この章では、あまり知られていない2つの事実が語られる。その一つは、人類史において、奴隷制度がいくども廃棄されてきたということである。
「もしわたしたちの政治的・法的な諸理念が本当に奴隷制の論理に基礎づけられているならば、わたしたちはいったいどうやって奴隷制を廃止することができたのか?」
「『廃止なんかしていない、せいぜい呼び方を変えただけさ』(奴隷を賃金労働者と呼び変えただけさ)というかもしれない。その冷笑家にも一理ある」
「古代ギリシア人にしても、奴隷と借金を背負った賃労働者の違いをせいぜい法的な文言の違い程度とみなしていたのは確実である」
「それでもなお、公式の動産奴隷(だれかの所有物として売買のできる奴隷=人間)の廃棄だけでもめざましい達成とみなさねばならない」
「たとえばヨーロッパにおいて、この制度はローマ帝国の崩壊につづく数世紀ものあいだ、ほとんど消失していた」
その原因について、つぎのように述べられている。
「キリスト教の普及がなんらかの影響を与えたに違いないということは、ほとんどの人びとが同意している。だがしかし、直接の原因ではありえない。なぜなら、教会自体が奴隷制度にはっきり反対したことはなく、それどころか、多くの場合、奴隷制度を擁護していたからだ」「当時の知識人と政治権力ともに奴隷制擁護の姿勢であったにもかかわらず(奴隷制度廃棄が)起こったようなのだ」
それが原因だと、明確には述べられていないが、「一般大衆のあいだでは、奴隷制は、実に広範に反感を買っていた」ことは大きな要因であったようだ。しかし、そのことに関して、非常に興味深い見解が示されている。
「そのため、1000年後、奴隷売買を再開しようとしたのはよかったが、ヨーロッパ人商人たちは、自国の同胞たちが自国内での奴隷所有を支持しようとしないことをおもい知ることになる。プランテーション経営者たちが、結局、アフリカで奴隷を捕獲し、新世界にプランテーションを建設しなければならなかった理由のひとつがこれだ」
「近代的人種主義(modern racism)――おそらく過去二世紀における最大の悪――が案出されねばならなかったのは、主としてこのためである」
この指摘は衝撃的である。いま世界中で問題になっているレイシズムの淵源がここにあったのかということである。人間は人種というもので分類が可能であり、人種間には優劣が存在し、そして、劣った人種は優秀な人種のための道具、すなわち奴隷となるべくして存在しているという考え方が案出されたわけである。「一般大衆のあいだでは、実に広範に反感を買っていた」というその奴隷制度への忌避が裏返って近代的人種主義が生まれてきたということになる。
近代的人種主義における奴隷制は、古代奴隷制とはまったく性質が異なる。古代奴隷制においては、前章で述べられているように、「ある種の人びとは先天的に劣っているので奴隷であることを運命づけられているというような考え方は、そこには存在しなかった。その代わり、奴隷の境遇は、だれにもふりかかりうる不運とみなされていた。その結果、奴隷が自分の主人より、あらゆる面において優っているという事態も何ら不思議なものではなかった。主人が喜んでそのことを認めることすらあったかもしれない。なぜなら、純粋な権力の関係でしかないような関係性なのだから、そこにそうした奴隷の優越性は何らの影響も与えないからだ」「多くの王が奴隷をはべらせ、奴隷を大臣に任命した。エジプトのマムルーク朝のように、実際に奴隷たちからなる王朝まで存在している」
「奴隷売買を再開しようとした……ヨーロッパ人商人たちは、自国の同胞たちが自国内での奴隷所有を支持しようとしないことをおもい知ることになる」。そこで、「アフリカで奴隷を捕獲し、新世界にプランテーションを建設」することになる。アフリカ人ならば奴隷にしてもよいというわけである。
日本では、韓国、朝鮮、中国、そして東南アジアの人たちを自分たちより劣った人間として蔑視する人たちがいる。特に現政権との親和性が高いようで、そのような人たちが、いま表面に這い出してきた。露骨な差別表現を、表現の自由だとして路上デモまでして表明するようになってきた。大勢の警官によって、それに抗議する人たちから守られながらである。明治以降、韓国併合や中国侵略を正当化するために、かつては、模範にすべきと、その文化や技術を取り入れてきた国に住む人たちを、植民地化されても当然な人種として貶めたい権力によって、意図的に刷り込まれてきたことが、現在の環境の中で吹き出してきたようである。潜伏していたウィルスが、身体が弱ったときに表に出てきて悪さをするのと似ている。いまの日本は、政権によって隠蔽されてはいるが、経済を始めとしていろいろな方面で劣化が進み、国民の中に不満が高まってきている。その不満の矛先が現政権に向くのを避けようと、オリンピックや万博などのお祭り騒ぎでごまかそうとしたり、テレビなどで「日本スゴイ!」番組を量産して自画自賛したりしている。お祭り騒ぎや自画自賛はまだましだが、人種差別によって攻撃相手を作り出し、不満解消のサンドバッグ代わりにすることは許されるものではない。
「古代奴隷制の消滅はヨーロッパに限定された出来事ではなかった。注目すべきことに、まさに同時期――後600年頃の――インドや中国でも、ほとんどおなじことが起こっていたのだ」
「以上の事態が示唆しているのは、……重大な変化が可能である諸契機は、明確で周期的でさえあるパターンにしたがって生起していること、これまで想像されてきたよりはるかに足並みをそろえたかたちで広範な地理的空間を横断して生起していることである」
「過去にはかたちがあり、それを理解することによってのみ、わたしたちは現在のうちにひそむ歴史的諸機会がどういうものか、理解することができるようになるだろう」
*****
「こうしたサイクルを可視化する最もかんたんな方法は、まさに本書が問題にしてきた現象、つまり貨幣、負債、信用の歴史を再検討することである。ユーラシア大陸における過去5000年の貨幣の歴史を図式化してみるなら、すぐさまおどろくべきパターンが浮上する」
このパターンが、あまり知られていない2つ目の事実である。
「貨幣については、なによりも硬貨鋳造という出来事がきわだっている。硬貨鋳造は、ほとんど同時に、3つの異なった場所で、それぞれ独立して開始されたようだ」
「中国北部の大草原、北東インドのガンジス川流域、エーゲ海周辺地域で、ほぼ前500年から600年頃のことである。」
「突然の技術革新が原因なのではない。最初の硬貨を製造するために用いられた技術は、いずれの場所においても、まったく異なっていた」
(だからその原因は)「社会的変容だったのである」
「以下のことだけはわかっている。リュディア、インド、中国において、現地の支配者たちは、ともかくなんらかの理由で、みずからの王国に長らく存在していた信用システムはもはや有効ではないと判断し、貴金属の小片――それまでは鋳塊状で国際的な交易に幅広く使用されてきた――を臣民たちに支給し、日常的な取引に利用するよう奨励しはじめた」
「しかし、およそ後600年頃、つまり奴隷制が消失をはじめた時代に、この動向は突然、逆流しはじめる。現金が干上がってしまったのだ。あらゆる場所で、ふたたび信用システムへの回帰の動きがみられた」
「ユーラシア大陸の過去5000年の歴史をみると、信用貨幣が支配的な時代と金銀が支配的になる時代とが長期にわたって交互に入れ替わる、という事態が観察される」
「なにゆえそうなったのか?最も重要な要因をひとつだけあげるとしたら、それは戦争である。地金が優位になるのは、なによりも暴力の全般化する時代である」
「それには単純な理由がある。金銀の硬貨は、あるひとつの顕著な特性によって信用協定と区別される。盗むことができるということだ」
「戦争と暴力の危険の蔓延する世界においては、……あきらかに取引を単純化することが有利になる」
「このことは兵士たちに対応する場面にはなおいっそういえる。かたや兵士たちは、戦利品――その大部分が金銀からなる――を手にしやすいし、常に、生活のためにもっと必要なものとそれらを交換しようとしている。かたや重装備した移動兵士は、まさに高い信用リスクの定義そのものである」
「経済学者の物々交換の筋書きは、小さな田舎の共同体内の近隣どうしのやり取りについては不条理ではあるが、そのような共同体の住民と通りすがりの傭兵集団のあいだでは、がぜん意味をもつようになる」
「信用システムは、相対的に社会が平和な時代、ないし(国家か、あるいはほとんどの時代では、商人ギルドや信徒共同体のようなトランスナショナルな機構によって形成された)信頼関係のネットワークを横断して支配的な傾向をもつが、戦乱と掠奪の蔓延する時代には貴金属にとってかわるのである」
「仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、ユーラシア大陸の歴史を次のように区分してみよう」
「そのサイクルのはじまるのは、仮想の信用貨幣に支配された最初の農業帝国時代(前3500年――前800年)である」
「つづいて枢軸時代(前800年――後600年)。……この時代には硬貨鋳造の開始、そして金属塊への全般的転換がみられる」
「次は中世(600年――450年)である。……そこでは仮想の信用貨幣への回帰が起きる」
「資本主義帝国の時代……この時代は、1450年頃に地球規模での金地金、銀地金[金銀塊]への揺り戻しとともにはじまり、実質的には1971年まで、つまりリチャード・ニクソンがドルの金への兌換可能性の終焉を宣言したときまで継続したといえる」
(そして、ニクソンの兌換可能性の終焉宣言は)「その全体像も当然いまだ未知である、新たな仮想貨幣の時代の開始をしるしづけた」
これら各時代の詳細は、続く9章から最終章である12章までの中で語られる。
この章の後半は、つぎの3つの地域について、枢軸時代(前800年――後600年)以前における貨幣、負債、信用の歴史が紹介される。
● メソポタミア(前3500――前800年)
● エジプト(前2650――前716年)
● 中国(前2220――前771年)
[メソポタミア(前3500――前800年)]
「メソポタミアでは信用貨幣が支配的であった」
「大いなる神殿と宮殿の複合体において、貨幣はその大部分が、物理的な取引というより、計算の尺度として利用されていた。さらに、商人や小売人たちは、独自の信用協定をさまざまに発展させていた」
今日の為替手形、約束手形に通じるものも流通していた。「つまり貨幣として流通していた」
「利子の起源は永遠に不明瞭なままだろう」とするも、「最初に拡がりをみせた有利子貸付が商業的なものだったという見方」を示す。
「神殿や宮殿が売り物を商人や仲買人に委託する、次いで商人や仲買人がそれをもって近隣の山岳王国や海外へむかう隊商と取引する、といった商業活動に[有利子貸付の最初の普及が]あるというのである」
「この慣行が意議深いのは、それが信頼の根本的欠如を含意しているからである」「利益分配の提携がむすばれるとしたら、典型的に商人どうしのあいだで、あるいは、たがいを点検しあうことのできる似た経歴と経験をもつ者たちのあいだでだった」「宮殿や神殿の官僚たちと、世界を股にかける商業的冒険者たちの共有するものはほとんどなかった」「固定された利子率であれば関係がない。かくして返済額が前もって固定されたわけである」
「モラル上の関係が負債として把握される世界とは、不可避に堕落と罪責性と罪業の世界でもある」
「シュメール最初期の記録があらわれたころまでには、まだこうした世界は到来していなかった。それでも、有利子貸付の原理、複利さえもすでにだれにとってもおなじみだった」「徴利(ウスラ)――有利子消費貸与という意味での――もまた、エンメテナの時代までには十分に確立されていた」
「エンメテナ王」による「王国全土に渡る全面的な債務帳消し」
「後継者ウルイニムジナが全面的恩赦を宣言」したとき、「帳消しの対象は、未払いの貸付のみならず、あらゆる債務による束縛、手数料(fee)あるいは罰金の支払い不能による負債さえもふくまれていて、外されていたのは商業的融資のみであった」
「似たような宣言はシュメール、のちのバビロニアやアッシリアの記録にもくり返しあらわれる」「つづく数千年にわたり、これとおなじ項目――負債を帳消しにし、記録を破壊し、土地を再配分する――が、農民革命の起きるところ、どこででも標準的な要求項目になっていった」
「メソポタミアでは、支配者たちが、こうした壮大な宇宙規模の刷新の身ぶり、社会的宇宙の再創造として改革を制度化することによって、騒乱の可能性を断ち切ったようだ」「さもなくばなにが起きるか、彼らの恐れていた事態もまたはっきりしている。世界が混沌にたたき込まれることである。逃亡した農民たちで遊牧民の群れが膨れあがり、混乱がつづくようであれば、ついには舞い戻って都市を脅威にさらし、現存する経済秩序を全面的に破壊する、そんな混沌である」
[エジプト(前2650――前716年)]
「エジプトは有利子負債の発展を完全に回避することに成功した」
「エジプトは、メソポタミアと同様、古代の基準では桁外れに豊かだったが、それはまた、砂漠に流れる川辺に位置するメソポタミアより、はるかに集権化された自己充足的社会であった」
「ここにおいても貨幣は、あきらかに計算手段としてあらわれている」
「エジプトにおける貸付は、ほぼ隣人たちのあいだの相互扶助のかたちをとっていたらしい」
「メソポタミアにおいては宮殿や神殿の官吏による有利子貸付が包括的な税制の欠如を穴埋めしていた。ところがエジプトでは、これが必要なかった」
「負債による従僕や債務奴隷さえ記録にはときおりみられるが、それらは例外的な現象であって、メソポタミアやレバント地方でしきりにみられるような規模の社会的危機に達したことはなかったようだ」
「最初の数千年のあいだは、負債がそのまま「罪責性」の問題とみなされ、犯罪として扱われたような、いっぷう変わった世界があったようだ」
「誓約のもとで――その期限までに支払えなかったら、債務者はまた100回の棒打ち刑を受けること、そして、あるいは、もとの借金総額の2倍支払うことを誓わされた」すなわち、「罰金と棒打ちのあいだにいかなる形式的区別もなかったということなのである」「債務者は、偽証者かあるいは盗人として処罰されることが可能だった」
「エジプトがペルシア帝国に吸収される直前の鉄器時代まで、メソポタミア型の債務危機についての証拠資料はあらわれない」
「アレキサンダー大王以降にエジプトを支配したギリシアの王家であるプトレマイオス諸王の治世においては、定期的な債務帳消しが制度化されることになった」
「ギリシア語とエジプト語で書かれたロゼッタ・ストーン」は「プトレマイオス五世によって布告された債務者と囚人双方の恩赦を知らしめる」ものであったことは、あまり知られていない。
[中国(前2220――前771年)]
「青銅器時代のインドについては、語りうることがほとんどなにもない。というのも、書かれた記録は解読不能なままだからである。初期中国についても同様である」
「ほんの少し知られている――主にのちの文献資料からのわずかな断片を通して――のは、最初期の中国の諸国家はヨーロッパのそれらよりはるかに官僚的でなかったということである」
「地方では多様な種類の社会的通貨がいまだ影響力をもちつづけ、よそ者どうしが取引するにあたっては、それらの社会的通貨が商業的な目的にむけて転用されていた」
「すべての史資料の一致して示しているのは、多様な通貨が出回っていたということである」
「これらが最もさかんに使用されたのは、おたがいをよく知らない人びとのあいだにおいてであった。隣人どうしの負債、地元の商人への負債、あるいは政府にかかわりのある負債を計算するためには、さまざまな信用手段[証券]が利用されていた」
「有利子貸付の慣行がいつ中国に到来したのか、あるいは青銅器時代の中国がメソポタミアにおけるような債務危機を経験したのか、いずれもまったくわかってない」
「後年の伝説によれば、鋳貨の起源は自然災害の悲劇を抑えようとした諸皇帝の努力にある」「漢代初期の文書は次のように報告している」
「古き時代、禹の洪水や唐の干ばつのあいだ、平民たちはすべてを失い、たがいに食物や着物を貸し借りせねばならなかった。そこで民衆のため、禹の皇帝は騙山の金から、唐の皇帝は黄山の銅から貨幣を鋳造した。だから世は彼らをして慈悲ぶかい皇帝と呼んだのである」
「『管子』によれば、「粥を食べることもできず、子どもたちを売りにださねばならない者がおおぜいいた。それらの民衆を救済すべく、唐は貨幣を鋳造したのである」」
「この逸話はあきらかに空想である(鋳貨の起源は少なくとも1000年はあとである)」
「『管子』はそのあとの箇所で、そうした悲劇をくり返さぬよう緊急事態にさいしての再配分にそなえるべく、これらの支配者たちが公共の穀物倉に収穫の三〇パーセントを保存する決まりを定めたと論じている」
「いいかえれば、彼らもまたある種の官僚的な貯蔵施設の設置に手を初めたということだ」
「エジプトやメソポタミアのような場所では、まさにその施設こそ――なによりもまず計算単位としての――貨幣創造のおこなわれていた場所であった」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます