ネモフィラとミツバチ
慶応大学教授の山本達彦氏は、Chat-GPTのような生成AIについてつぎのような警告をしています。(2023.6.11デジタル朝日)
私たちの意思決定のあり方がどうなっていくのかに議論の核心がある。近代立憲主義は、これまで個人の『オートノミー(自律性)』を重視してきました。個人が他の干渉を受けずに主体的に意思決定できるという考えです。この基本的な原則がAIの登場で、根源的に揺らいでいるように思います。
生成AIは特定の価値観を反映するように、人間による『調律』を受けています。たとえばチャットGPTは開発した米企業のオープンAIによって、特定のNGワードやヘイトスピーチなどを出力しないよう調律されています。中国政府が発表した生成AIの規制案では、共産党的価値観の反映が求められています。
この記事を読んだときまず思ったのは、この問題は生成AIだけではなく、特にテレビや新聞などの報道についてもあてはまるのではないかということです。一般の国民はテレビや新聞などの報道からこの世界で起きていることを知ります。国民のそれぞれが自分で各地に出かけで行って、この世界で起きていることを日々、自分の目で確かめることなどできないのであり、その情報は主にテレビや新聞などの報道を通じて得ています。したがって、その報道の干渉を受けないことなどできるわけがありません。国民は主体的に意思決定をしているつもりであっても、実際は報道の影響をまともに受けるかたちで意思決定をしているのです。
議会制民主主義社会において、国民は「選挙」という方法で政治に参加します。その選挙で選ばれた議員が国民の代表として国会や地方議会で議論をし、法律や条例を作ったり、税金の使い道を決めたりして、この国、あるいは各地方を動かしてゆくわけです。その議員を選ぶとき、国民は主に報道を通して、各候補者や所属政党に関する情報を得て投票しています。そうであれば、この社会において、報道は大変重要な役割を担っていることになります。報道が国民の意思決定を大きく左右しているのです。
では、その報道の現状はどうでしょう。NHKは、籾井元会長が「政府が右と言っているのに左とは言えない」と発言し、その後も政府を批判するような報道をしません。安倍元首相の担当記者であり、家族ぐるみの付き合いをしてきたというNHKの解説委員は、一貫して安倍元首相を擁護するような解説をしてきました。半数以上の国民が反対していた東京五輪についても批判的な報道をしませんでした。そればかりか、「河瀬直美が見つめた東京五輪」という番組で「五輪反対デモに参加しているという男性」が「実はお金をもらって動員されていると打ち明けた」という虚偽の字幕を付けることまでしています。(後に不注意であったと謝罪しています)放送関係者によれば、特にNHKは常に番組放送前に何重にもチェックをしており、単純なミスでこのような虚偽の字幕が付けられてしまうことはあり得ないとのことです。つまり意図的に行なわれたということです。番組そのものは多くの人が見ていますが、謝罪を見た人は多くないと思われます。だから、意図通りの影響を与えたことになります。NHKは国民からほぼ強制的に徴収したお金で運営されている公共放送であるにもかかわらず、政権与党のための放送局になっています。国民の半数以上は現政権を支持していないにもかかわらずです。NHK会長の人事、予算などにおいて、政府はNHKに対して大きな影響力を持っています。だからそうなるのでしょう。実質的に報道の自由を奪うことになるわけで、表現の自由を規定した憲法二一条に違反しています。また、放送法第一条第二号にも「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」と規定されており、これにも違反しています。いまの政府は、自分たちの都合で憲法も法律も平気で破っています。そんな政府をどうして国民は支持するのでしょう。この国は法治国家のはずです。報道がそれを国民に広く知らせることをしていないため、国民が事実を知らないからでしょう。
民放であっても、報道の社会的役割からすれば、その報道内容が大きく偏ってはならないでしょう。高市早苗大臣も「たとえ一つの番組だけであっても、その内容が偏っている場合は停波させることもあり得る」と言っています。しかし、たとえば、「維新」と大阪の放送局との関係は異常と言ってもよいレベルになっています。維新は、読売新聞や吉本興業と包括連携協定を結んでいます。そのためか、吉村知事、松井市長は頻繁にテレビに出演し、言いたいことを言っています。コロナ感染が拡大しているときも頻繁にテレビに出て「やっている感」を演出していました。だから、大阪の人たちには、維新(吉村知事、松井市長、橋下氏)はテレビタレントのように顔なじみになっています。選挙の時、テレビによく出る人を出馬させれば票が取れるとして、自民党がよくタレントなどを担ぎ出します。そして票を取ります。大阪の維新に対しても同じような効果が出ているわけです。先の統一地方選挙で、大阪府や兵庫県、和歌山県では維新の候補が数多く当選しました。しかし、お隣の三重県では一人も当選しませんでした。三重県は名古屋からの放送を受けており、大阪のテレビ放送が入らないからです。まさにテレビの効果です。これが「偏った報道」でなくて何なのでしょう。高市早苗大臣は、どうしてここまで偏向報道をしている放送局について停波命令を出さないのでしょう。それは、高市早苗大臣の言う「偏向」とは、自分たちを批判することであり、大阪の放送局は自分たちを批判しているわけではないので問題ないからです。
批判しないだけでなく、報道しないことも問題です。特定の政党にとって不利な情報を報道しないということは、当然その政党に有利になります。大阪の人たちは、コロナ感染による死者数において大阪が全国のトップであること(絶対数で東京より多く、単位人口あたりだと、東京の2倍近い)を知っているのでしょうか。また、維新の議員の不祥事がきわめて多いこと(まとめてリストアップしツイートしている人がいる)を知っているのでしょうか。大阪の人たちには維新にとっての不都合な真実が知らされていないのではないでしょうか。もし知っていたら、維新に投票するなど、常識を持った人であればあり得ないからです。政治に関心が高い人たちはネットや一部のメディアから情報を得て知っており、維新に対して強い不信感を抱いています。
安倍元首相は報道のトップや吉本興業の芸人たちと会食をしてきました。普通、会食の目的は仲良くなるためであり、和気あいあいの雰囲気で行なわれたと思われます。厳しい意見が飛び交うような会食を続けるなど考えられません。そうだとすれば、会食に招かれた人たちが、その後、政権にとって特に不利になるような報道をするわけがありません。それを見越しての会食です。報道は牙を抜かれ、芸人は元首相の太鼓持ちになり、「よいしょ」するわけです。みごとに目的は果たされています。ちなみに、吉本興業については、政府は100億円の支援をしたり、各種事業の発注をしたりしています。また、大手の報道各社は吉本興業の株主になっているので批判をしません。批判によって株価が下がると困るわけです。
ヒトラーは報道の国民に与える影響をよく理解しており、それを最大限に利用して、戦争遂行、民族浄化のプロパガンダを行ないました。日本でも先の戦争で政府はラジオや新聞を利用して国民の戦意高揚を図りました。当然、政府の方針を批判する人たちは大勢いたはずです。しかし、報道はそれらの批判を無視し、政府に協力しました。当時、政府が独裁者として強権的に言論を封殺していたわけでなかったことがわかっています。報道の側が政府にすりよって戦意高揚に協力していったのです。だから、報道はあの戦争に加担しており、共同正犯であり、同罪であったのです。報道も商売であり、資本の論理に従って動いたのです。だから当然だとも言えます。その結果があの戦争でした。報道はそのことを深く反省したはずなのですが、いままた、報道はそのときと同じことをしているのです。いまの日本は北朝鮮でもなく、中国でもなく、ミャンマーでもありません。政権の批判をしても逮捕されないし、監獄に入れられることもなく、死刑にもならないのです。でも、日本の大手メディアは戦前と同じことをしているのです。国民はそんな報道を信じているととんでもないことになるでしょう。
以上、報道と国民の意思決定の問題について考えてみましたが、生成AIの話に戻ります。一般的な話になってしまいますが、このような新しいテクノロジーについては、いつもそれをどのように使うかということが重要な問題になります。ジョージ・オーウェルの『1984』では、テクノロジーが人間を監視し、コントロールするために使われているデストピアの世界が描かれています。それはフィクションですが、現実の話として、たとえば、核分裂のエネルギーを取り出し、利用することができるようになったとき、そのテクノロジーを戦争に利用することで、一瞬で数十万人の人を殺すというとてつもない大きな過ちを犯してしまいました。ところが、それに対する反省もなく、その後も、全人類を何度も全滅させることができる数の核兵器が作られ、いつでも使える準備ができているのです。
また、その放射性廃棄物の扱いや事故への対処など、どうすればよいのかもよくわからないまま、原子力発電所は世界各地に作られてしまい、地震国で懸念されていた事故が、ある意味で当然のように起きました。その事故(福島原発の事故)は12年経ったいまでも解決できないままになっています。解決する見通しさえ立っていません。そしていま、膨大な量になって、これ以上貯蔵できなくなってしまった汚染水を、世界中から非難される中で、「処理水」という名前を付けて海に放出しようとしています。誰がどういう根拠をもとに言ったのか知りませんが、「安全」だそうです。安全なのに、どうしていままでお金をかけて貯蔵してきたのでしょう。矛盾しています。また、現在、原子炉格納容器を支えるペデスタル(台座)が劣化して、容器が倒れるおそれが出てきているとのことです。倒れるとまた大きな災害につながるおそれがあるとのことです。ある建築家が、私なら倒れないようにすることができると訴えても無視されているそうです。そんな中、原発の再稼働がすすめられ、運転期間の延長が認められ、それどころか、新しい原発まで作ろうとしているのです。(目的は原子力ムラの利権しか考えられません)
生成AIも多くの人々の仕事を奪ってしまうのではないかと言われながら、その問題をどうするかなどの議論はそっちのけで、先の戦争と同様、「ナントカナルだろう」ということで、資本制経済というシステムの要請(生産性向上)に従って、利用は広がってゆくでしょう。その意味で、今後この社会がどうなってゆくのかよくわからないというのが現状ではないでしょうか。
また問題は戻りますが、「個人が他の干渉を受けずに主体的に意思決定できるという考え」そのものが間違っていると思います。意思決定をするには、その決定をするための情報が必要です。そして、その情報はその人が置かれている環境(報道も含む)から得ることになります。したがって、環境の影響を受けるのはあまりにも当然のことであり、「他の干渉を受けずに」というのは不可能なことです。そもそも、人の意思は環境の産物なのです。そのことを前提にした上で、「だからどうするのか」ということが問題になります。
一つの答えがあります。現在の環境が人を幸福にするものでないと感じたとき、その環境に流されたくないのであれば、自分はどんな環境の下で生きたいのか、生きてゆきたいのか、その環境についてのヴィジョンを持ち、その環境を実現するためには、目の前の問題にどう対処すればよいかを考えることです。それを、いろいろな場合の意思決定の基礎に置くことです。生成AIから受け取る情報も、その立ち位置から取捨選択し、利用すればよいのではないでしょうか。フェイク情報や詭弁が蔓延し、何が真実なのかよくわからなくなっているいま、自分が目指すべき世界、そこで生きたいと思うような世界を想像し、そこで生きている自分を想像すれば、何が自分にとって必要であり、役立つ情報か、そして、自分がどういうふるまいをすればよいかが見えてくると思います。
闘争が、競争が、利己的であることが人間の本質だなどという言説は信じない方がいいです。それは、闘争に、競争に強い人間、それによって己を利することができる人間、あるいはその闘いに敗れ、あきらめた人間、最初からその能力がないと思い、闘いに参加する前にあきらめた人間が、自身を正当化するために言っているだけのことです。闘争に、競争に勝つのは、最終的には一人だけです。しかし、人間は一人で生きてゆくことはできないのです。現在の経済システムは、およそ20万年という人類の歴史の中で、最近のわずか500年にも満たない間に現れたものです。そのシステムの本質は、限りない富の蓄積競争です。そこには最終的な勝者はありませんが、勝者を目指して争うことで動いています。第2次世界大戦後(世界規模での戦争もこのシステムの産物です)の混乱期に、復興気運のもと、一時的に社会福祉という考え方が広がり、中産階級が生まれ、少しではあっても豊かになった気がした人たちもいました。しかし、社会福祉などと言って富を分配したら、本来の競争に負けてしまうことに気付いた者たちが、マーガレット・サッチャーが言ったように「社会などというものはない」「自助だ」「自己責任だ」として、再び熾烈な競争に入りました。それが「新自由主義」という動きです。そして、中産階級はなくなり、富は強者に集中し、その集中度と量は過去最高を更新し続けています。
この競争には原理的に限りがありません。しかし、競争のために使っているこの地球の資源は有限です。また、この地球を構成するすべて、人類を含むすべての生物、無生物は複雑な関係を持ちながら存在し、バランスを保ってきました。いま競争によってそのバランスが急速に破壊されています。その結果、地球は人類が生存できない環境となりつつあり、このままでは人類は滅亡します。実感できるものとしての気候変動にも現れているように、それはもう遠い先のことではありません。残された時間はあまりないのです。富の蓄積競争をこのまま続けてゆくわけにはゆかないのです。
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