
あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる騒動は、特に一部のレイシスト(人種差別主義者)の過激な言動によって引き起こされた。そして、政府はそのような騒動が起きたことについて、テロ予告までして騒いだ側ではなく、展示内容が騒ぎを引き起こしたとして問題視し、主催者側の責任を問い、交付が決まっていた補助金約7800万円の(企画展の分だけでなく)全額を交付しないという決定をした(姑息にも表向きは手続き上のミスを理由にしている)。つまり、騒いだ側に軍配を上げた。政府は騒いだ側に道理ありとしたわけである。そうであるならば、今回の補助金不交付に対する抗議を、整然と行なうのではなく、過激な言動をもって行なえば、「このような騒ぎを引き起こすような決定を行なった」として、不交付を決めた者の責任が問われるのだろうか。そんなことはありえないだろう。自分たちには適用しない、いつものダブルスタンダードである。今回の不交付の決定は、いかにも現政権に似つかわしい。「テロ等準備罪」を強行に設け、「テロには屈しない!」と見栄を切っていながら、その実際の中身がこれである。「KAWASAKIしんゆり映画祭」で、慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画「主戦場」の上映を中止した件、伊勢市が「伊勢市美術展覧会」で、慰安婦を表現した少女像の写真を一部使用した作品の展示を不許可にした件、みんな同じである。理由は、「(騒動で)来場者に迷惑をかけられない」「展示をすれば市民の安全を損なう恐れがある」とのこと。脅しに屈することなく、市民、国民を守るのが国の役目のはずであるが、脅しに屈して、脅す側の意図通りに、市民、国民の表現を止めさせるわけである。脅す側の意図=現政権の意図なのだろう。
さて、「表現の不自由展・その後」に対する抗議は、『平和の少女像』(政府は2017年に、これを『慰安婦像』と呼ぶと決めている)と、天皇の写真が焼かれる場面がある映像作品に対して行なわれた。『平和の少女像』についてはいまさら説明も不要だとは思うが、映像作品について言うと、この作品の作者である大浦信行氏は「燃えているのは僕の作品です」と述べている。大村氏が1980年代に制作した天皇の写真を一部として含むコラージュ(画面にさまざまなものを貼りつけて構成する作品)が映像の中で燃えているのである。また、「僕にとって燃やすことは、傷つけることではなく昇華させることでした」「祈りだと言い直せば伝わるでしょうか。燃やすという行為には、神社でみこしを燃やすような宗教的な側面もあるはずです。僕は今回の映像で、30年前から向き合ってきた『内なる天皇』をついに昇華できたと感じました。抹殺とは正反対の行為です。そもそも、もし天皇を批判するために燃やしたのだとしたら、そんな作品は幼稚すぎて表現とは呼べません」とも述べている。
作者の意図と見るものの受け取り方が異なるのは常のことながら、いまだにこの国では『天皇』を心の支えとして生きている人が大勢いて、今回の作品がその人たちの心をいたく傷つけたのだというお話が、どうにも信じられない。安倍首相でさえ、平成天皇の平和に対する強い意志を踏みにじるような行為(集団的自衛権の行使容認や自衛隊の海外派兵、沖縄の辺野古基地建設強行、アメリカから武器の爆買、そして、平成天皇が「皆さんとともに日本国憲法を守り……」と述べているその「憲法」を「みっともないもの」と言い放ち、改変する企みなど)をしているではないか。そのことに抗議する人たちは大勢いるが、その人たちが今回の騒ぎを起こした人たちであるはずはない。むしろ逆で、騒いだのは安倍支持者であることの可能性が高い。だからこそ、政府は騒ぎの被害者側を「補助金不交付」というかたちで罰したのではないか。これからも、同じような(現政権が快く思わないような)種類の催しをするなら補助金(=税金)は出さないぞというわけである。税金をそのような脅しの道具に使うなと言いたいところである。
ここで、「表現の自由」というものについて、先のブログ――『自由』であることは…奴隷ではないということ――で紹介したグレーバーの言う「自由」に基づいて考えてみたい。そのブログではつぎのように述べた。
「自由」という概念は「奴隷でない」というところから発生したものであり、自由になるということは、その人が元のように社会関係、すなわち、ほかの人々との関係を持つことができるようになるということである。だから、「自由になるということ」が「好き勝手ができるようになる」ということでないのは明白である。……自由になることを、人間関係が構築できるようになることだとすれば、この世界で自由に生きるということは、それぞれの人が他の人を自身と同じ人として認め、さまざまな関係を構築してゆくことなのではないか。人と人との具体的な関係はさまざまなものではあるが、そこに共通して求められるものは、共によりよく生きてゆくための関係であろう。
さて、「自由」をそのように考えたとき、「表現の自由」とはどういうことになるのだろう。「どんな表現をしてもよい」ということではないのは明らかだ。「それぞれの人が、他の人を自身と同じ人として認め」「共によりよく生きてゆく」という社会関係を壊すような表現は、表現の自由の中には含まれないと考えるべきだろう。反対に、そうでない限り、表現は自由であるべきだと思う。たとえ一部の人が不快に感じるようなことがあったとしても、それを理由に表現を制限すべきではない。すべての人が不快に感じないような表現など存在しないのだ。
また、できる限り表現を制限すべきではないというのは、表現を制限するということは、そこに「力」が必要であり、たとえその「力」が社会的に認められたものであったとしても、制限される側にとって、それは一種の「暴力」となるからである。そして、歴史的に見るならば、そのような「力」は、社会内の一部のものが独占し、その一部のものの利益が最優先される形で行使されてきたのである。残念ながら、いまなおそのことは本質的な部分で変わっていない。だからこそ、安易に表現の制限を認めてはならないのだ。「暴力」を安易に認めてはならないのである。
以上を前提に『平和の少女像』を考えてみよう。この像は、先の戦争で、韓国の女性が、日本軍兵士を慰めるためとして、強制的に駆り出され、性交を強要されていたことに抗議するもの、そして、加害者がそのことについて謝罪するのを待っているものとして制作されたものだと言う。ところが、この像に抗議する人たちは、そういう事実そのものがなかったのだと言う。慰安婦は、実入りが良い仕事として、日本軍に追従し、身を売っていた売春婦たちだと言っている。強要したのではなく、自分の意志でそうしたのだ、従軍慰安婦ではなく、追従慰安婦だと言っている。この主張では、少なくともそういう女性たちがいたことは認めている。
百歩譲ってその主張を受け入れたとして、『負債論』第7章で紹介したエジプト人社会学者アル=ワヒードのことばを思い出そう。
「人間が奴隷になるのは、さもなければ死ぬよりほかない状況においてのみである」
ある人はそのような状況では死を選ぶかもしれない。しかし、生きることを選んだ人が奴隷になったとして、彼は自分の意志で奴隷になったのだと言えるのだろうか。そして、「人間が売春婦になるのは、自分が生きるため、あるいは家族が生きるため(その場合、死を選択することさえできない)にはそうせざるを得ない状況においてのみである」と言えるのではないだろうか。その状況で売春婦になった女性を、「自分の意志で売春婦になったのだ。だから、その責任はその女性にある」と言えるのだろうか。
先の戦争における従軍慰安婦たちも、騙されたり、強要されたり、暴力的にそうさせられたはずだ。そして、その体験によって深く心を傷つけられ、重荷として背負い続けている女性が韓国にはまだ生きており、証言をしているのである。一方、それを否定する人たちのお話を裏付けるものは何も提示されていない。新しい事実が明らかになったわけでもない。「自分の意志で売春婦になったのだ」という暴言も、相手の傷口に塩を塗ってさらに痛めつけるためのものとして、以前からその種の人は口にしていたことである。その暴言が、現政権になって、大ぴらに言えるようになったにすぎないのである。
さて、『平和の少女像』の展示は守られるべき表現の自由に該当しないのだろうか。つまり、「それぞれの人が他の人を自身と同じ人として認め、さまざまな関係を構築してゆくこと」「共によりよく生きてゆくための関係」を築くことへの障害となるのだろうか。私は障害にはならないと思う。だから守られるべき表現の自由に該当すると考える。むしろ、戦争という、最も大きな障害の中で起きた悲惨な出来事をなかったことにしてしまうことで、同じ過ちを繰り返す道を開いてしまうような言動こそ障害となるものであり、表現の自由として認めるべきではないと思う。
従軍慰安婦の問題だけでなく、この国がかつて犯した過ちを認めないことは、つまりなかったことにすることは、けっしてこの国の名誉を守ることにはならない。反対に、そのようなことをすることこそ、この国を貶め、恥ずべき国にすることだと思う。おそらく自由を求める世界中の人たちもそのような評価を下すに違いない。
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