上野東照宮の冬ボタン
「この世界は個々の人の意思とは関係なく動いてゆくものであり、総理大臣にしたって誰がなっても同じようなものだ。安倍晋三はなるべくして総理大臣になったのであり、ドナルド・トランプもしかり。時代の要請に過ぎない」と言う人がいた。たしかにそうかもしれない。酒を飲みながらの話でもあって、その人の言っていたことを誤解して受け取ったのかもしれないが、心の中に引っかかっていたし、「なるようにしかならない」というよく聞く話にも通じるので、ここでは一般論として改めて考えて見たい。
たしかに、この世界(素粒子レベルから宇宙レベルまで)は個々の人の意思からは独立して存在しているように見える。しかし、人の意思は、進化の過程で、この世界によって作られた脳を含めた身体が、その感覚器官を通じて世界から受け取る刺激をもとに生まれるものである。また、そうして生まれた意思は、逆に、身体を通じて世界に働きかけ、世界を変化させる。この相互関係はサイクルをなして続き、意思と世界とをそれぞれ変化させ続けている。したがって、その意味では、それぞれは独立した存在ではない。
また、かつて「ラプラスの悪魔」と呼ばれるお話があった。18世紀の数学者で天文物理学者でもあったピエール=シモン・ラプラスによれば、「あらゆる事象が原因と結果の因果律で結ばれるなら、現時点の出来事(原因)に基づいて未来(結果)もまた確定的に決定される」(ウィキペディアより)
しかし、このお話は量子力学によって、原子の位置と運動量の両方を同時に知ることは原理的に不可能である事が明らかになった(不確定性原理)ことによりラプラスの悪魔は完全に否定された。つまり、決定論は否定された。
実際の決定論的な言説は、その裏で「人の意思」というものの無力さを主張している。「この世界は、なるようにしかならない」「あれこれあがいても無駄なことだ」といった類の言い方で主張されることが多い。しかし、先に述べたように、意思と世界との相互関係的な変化のサイクルが続く限り、人の意思は、この世界のあり方を変え、また、その人の意思を変えるということに間違いはない。そのことは、その意思が、あらかじめ決まっていた通りに生じたのだとしても言えることである。
だから、「人の意思」はけっして無力ではなく、世界を変える力になっているのである。安倍晋三、ドナルド・トランプに力を与えたのも、一人のものではないが人の意思である。安倍晋三、ドナルド・トランプがやっていることも彼らの意思である。そういう意思を意味のないものとして否定することはできない。また、一個人の意思と世界のあり方とは関係がないということも言えない。もし、本当に関係がないのであれば、たとえば、安倍晋三が、あるいはドナルド・トランプが、どういう意思を持って何をしようと、彼らはそれぞれ一個人なのだから世界の動きとは関係がないということになる。すると、実際に安倍晋三が集団的自衛権を行使してドナルド・トランプの戦争に加担した結果、自衛隊員を始めとして大勢の人間が死んだとしても、それは安倍晋三の意思とは関係なく世界が動いた結果であり、安倍晋三には責任がないということになる。
第2次世界対戦についても、それは起こるべくして起こったのであり、どの個人にも責任はなくなる。アドルフ・ヒトラーにしたって同じである。アドルフ・ヒトラーによるユダヤ人虐殺は、アドルフ・ヒトラー自身にその意思があるなしに関わらずそうなったことになってしまう。アドルフ・ヒトラーがいなくても、ほかの誰かがユダヤ人虐殺をしたはずだから、ユダヤ人虐殺について、アドルフ・ヒトラーに責任はないということになる。極論すれば、この世界のどの個人も、その行動の責任を取る必要がなくなってしまう。「人は、その行動に責任を取る必要がある」これは社会の基本的なモラルだと思う。そうでなければ、この社会は混乱に陥ってしまうことは容易に想像できることだからである。
「この世界はなるようにしかならない」のではなく、そう考えている人の意思でさえ、この世界に大きな影響を与えていることを知るべきだと思う。つまり、積極的に行動し、その意思を実現しようとしているある種の人たちを、その行動を妨げないという意味で、知らず知らずに助けているのである。上述のような諦めの気分を持った人たちは、この世界を、思い通りにならない、ろくでもない世界だと考えている可能性は高い(実際に、眼前の世界は大いにそういう側面を持っている)。いろいろやってきた結果、そういう気分を持つようになったのだと思う。その反対に、現状の世界は自分たち(他の人たちは関係がない)にとって利益をもたらすものであり、積極的に現状を維持しよう、あるいは、もっと自分たちの利益を大きくできる世界(諦めている人たちにとってはもっと過酷になる可能性がある世界)に変えようと行動している人たちがいる。そんな彼らを助けることになってしまうのである。
彼らは、自分たちの利益を守るためには、時として他国との戦争をいとわない。そのために邪魔な憲法を変え、軍備を増強し、命を捧げる国民を作り出そうとしている。ここでは、次の点の認識も重要だろう。彼らは、戦争になったとき、後方の安全なところから命令を下すだけで、自身が命を捧げるつもりなどないことである。「我々には指揮という重要な役割がある。その指揮に従って国民が戦え!」というわけである。戦地で戦うことになる自衛隊員は、日々、自らの血を流し、命を捧げる訓練をしている。彼らのために。
「国民主権、基本的人権、平和主義を憲法から無くさなくては」 長勢甚遠・元法務大臣(安倍内閣)
「(国民は)国を護る為に『血を流す覚悟』をしなければならない!!」「国民の生活が大事なんて政治は、私は間違っていると思う」 稲田朋美・元防衛大臣(安倍内閣)
「そもそも国民に主権があることがおかしい」 西田昌司 参議院議員(自民党)
「私の手で憲法を変えるという考えは揺るがない」 内閣総理大臣としての安倍晋三の年頭会見
* 憲法第99条 【憲法尊重擁護の義務】
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
したがって、彼ら国会議員、総理大臣はまさしく憲法違反をしている。そして、司法のシステムはそれを咎めることさえしない。また、テレビや新聞も、この重大事を国民に伝えず、スルーしている。彼ら国会議員、総理大臣の言動は法治国家を、民主主義を否定しているにもかかわらずである。
一人の人が直接に変えられるのは身の回りのごく小さな世界でしかないかもしれない。たとえば、国政選挙のとき、投票用紙に一人の人が書き込めるのは一人の候補者でしかない。しかし、それが集まって一国の為政者を決め、国のあり方に影響を与えているのである。また、一人の人はさまざまな手段で他者にその意思を伝えることができる。それが他者の行動に影響を与えることもある。大勢に影響を与えれば、身の回りだけでなく、もっと大きな範囲の世界を変えることにつながる。
その意味で、大勢に影響を与えるマスメディアの責任は大きい。アドルフ・ヒトラーはそれを理解し、大いに利用した。現政権も、人事権や放送の許認可権を使ってテレビをコントロールしている。主要新聞の上層部との会食も頻繁に行ない、政府批判の報道を抑制させている。また、新聞、民放は、彼らの主な収入になる広告料によって財界にもコントロールされている。しかし、いまは「インターネット」という権力による監視がまだ十分にできていないメディアがあり、そこには真実を伝える人たちが大勢いる。テレビや新聞に頼らず、玉石混交の情報の中から注意深く真実を探し、自身の意思の形成に役立て、行動を決めてゆくことが必要だと思われる。
<1月24日追記>
上に、インターネットについて述べたが、いまの段階ではもっと重要なメディアとして[本]というものがある。丹念に調べ、考え抜かれた上で書かれた本は多くのことを教えてくれる。量的な問題で、インターネット上では十分に説明しきれないことが多々ある。本にはそういう限界がない。力を込めて書いた本が長くなるのはやむを得ないと思う。私も本から、大切なこと(自分ではそう思っている)を数多く教えられた。いまでも読むたびに教えられている。グレーバーの『負債論』もその一冊である。多くの人が、良い本をできるだけたくさん読んでほしいものだ。本には人間の叡智が詰まっている。
* 「良い本」とは?ということで一文が書けるが、ここでは、つぎの点だけを述べておく。
一度「良い本」に出会うと、なぜという説明はできなくても「良い本」というものがわかるようになる。具体例をあげてみると、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』という本は間違いなく「良い本」である。だから、これを読めば、このような種類の本について、これ以外の「良い本」の判断ができるようになる。経験からの単なる私見だけれど。
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