思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

集団的自衛権と個別的自衛権

2015-09-21 23:09:02 | 随想

 安保法案が可決された。メディアによるインタビューでは納得できないという人が多いが、中国が台頭してきている中、日本の平和と安全を守るために必要なものだ(政府と同様、理由はわからない)として肯定している人もいる。肯定する人たちは、どうも集団的自衛権と自衛権(個別的)をはっきり区別していないように思われる。集団的自衛権がどういうもので、それは個別的自衛権とどう違うのか、明確に認識して賛成しているようには思えない。日本の平和と安全を守るためには、本当に個別的自衛権ではなく、集団的自衛権が必要なのか、前回に引き続き考えてみたい。集団的自衛権はつぎのような場合に限って行使されるらしい。

(1)密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある(存立危機事態)
(2)我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない。
(3)必要最小限度の実力行使にとどまる。

 では、集団的自衛権に対し、個別的自衛権は、どういう場合に行使されるのだろう。上記と対応して考えるとつぎのようになるはずだ。

(1)日本に対する直接の武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある(存立危機事態)
(2)我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない。
(3)必要最小限度の実力行使にとどまる。


 つまり、集団的自衛権と個別的自衛権の行使の要件で異なるのはつぎの点だけだ。

集団的自衛権:密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したとき。
個別的自衛権:日本に対する直接の武力攻撃が発生したとき。

 密接な国であろうがなかろうが、他国に対する武力攻撃の発生によって日本が参戦することが憲法違反であることは明らかである。そこで、集団的自衛権の行使をしたいと願う人たちは、その他国への攻撃が「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」つまり、日本が直接の武力攻撃を受けたのと同等の状態、存立危機事態である場合という制限をかけることで、その行使を正当化しようとする。ところが、その制限を設けたために、論理的に破綻してしまった。

 仮に、他国が攻撃されたときに、それが本当に日本の存立危機事態に直結するような場合があったとしよう。すると、それは日本が直接攻撃を受けたのと同じことになるわけだから、個別的自衛権で対応ができることになる。個別的自衛権は、日本が直接攻撃を受け、存立危機事態になったときに行使できるのだから、それと同等の事態になったときには行使できるはずだ。誰の目にも明らかに日本が存立危機事態になっているとき、自衛権の行使ができないと考える人は少ないのではないか。つまり、個別的自衛権は、集団的自衛権の行使要件を含んでいるわけだ。したがって、あえて集団的自衛権の行使ができるようにしておくことなど必要がないことになる。それどころか、集団的自衛権の行使は、密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、日本が存立危機事態になったときにしか行使できない。密接な関係にない他国に対する武力攻撃が発生し、日本が存立危機事態になったときには行使できないのだ。論理的に。

 ところで、集団的自衛権の行使要件に言う「他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という事態はいったいどんな場合なのだろう。別の言い方をすれば、日本が存立危機事態になっても、個別的自衛権を行使できない場合とはいったいどんな場合なのだろう。想像ができない。是非そのような例を示してもらいたいものである。もう取り下げたらしいが、ホルムズ海峡が機雷封鎖された場合だとか、日本人が戦地を逃れるために乗っている他国の艦船を守る場合だとか(アメリカはそんなことはあり得ないと否定している)の例を示したが、それぞれ例になっていないことが明らかになり、いまだに政府は国民が納得できるような具体的な例を示すことができないでいる。それでも、十分な審議時間はとったとして、強行採決をしてしまった。そのような政府が、存立危機事態かどうかを判断し、自衛隊の海外派兵を命じるというのだ。これほど危険なことがあろうか。

 このように論理的にも破綻しているにもかかわらず、日本の平和と安全を守るためには他の手段があるにもかかわらず、日本国憲法を犯してまで、民主主義そのものを破壊してまで、どうしてそれほど集団的自衛権に固執するのだろう。それは、日本の平和と安全を守ることが目的ではなく、別の理由があることになる。たとえば、原発に固執するのは、それに関わる人たちの大きな利権があるからであるが、集団的自衛権についても、集団的自衛権ならぬ集団的利権があるからかもしれない。

 アメリカからの強い要求があったことが考えられる。安部首相は4月に行なったアメリカ議会での演説で、夏までに安保法案を可決すると約束している。日本国内で賛否両論があり大きな問題となっている法案について、あらかじめ、外国の議会にその成立を約束するなど、一国の首相としてあってはならないことだが、安部首相は自分が何をしたのか理解できないようで、現実にそうしたのだ。その後も、安倍内閣を日本の一定数の国民が支持している。それが日本という国の現状である。その話は別にしても、約束したということは、その前にアメリカから要求があったということだ。

 共和党の大統領候補である正直者のトランプ氏は言っている「日本が攻撃されたら我々は直ちに助けに行かなければならないが、アメリカが攻撃されても日本は我々を助ける必要はない。これは公平だろうか」。日本は、アメリカの極東戦略の一環として、日本国内にアメリカ軍駐留のための基地を提供し、さらに、毎年、その駐留費用の相当部分(平成27年度は約5,200億円)を負担している。それほど不公平だとは思われないが。トランプ氏の言い分は、アメリカが攻撃されたときは、日本も我々を助けるべきだということである。この要求では、アメリカが攻撃されたときに、日本が存立危機事態になるのかどうかは関係がないわけである。

 アメリカに約束した安部首相にとって、集団的自衛権行使の要件である存立危機事態などというのは、法案を通すための一種の方便であり、実際には、アメリカの要求に従って自衛隊を戦争に参加させる可能性が非常に大きい。平気で憲法をないがしろにする人物である。アメリカから要求があったときは、日本の存立危機事態だと強弁し、自衛隊を海外派兵するだろうことは十分にあり得る。

 よく問題になるのが、アメリカの日本に対する年次改革要望書である。日本政府は、その要望に応えるべく努力し、つぎのようなことを実現してきた。

1997年 独占禁止法改正、持株会社解禁
1998年 大規模小売店舗法廃止
1999年 労働者派遣法改正 人材派遣の自由化
2002年 健康保険3割負担
2003年 郵政民営化
2004年 法科大学院の設置
2005年 日本道路公団が解散、民営化
2007年 新会社法の三角合併制度施行

 これらは、ほとんど、アメリカ資本が日本で自由に動き回るための障壁を取り払うものである。アメリカを中心とする外資系の会社は、人材派遣の自由化などにより、解雇しやすいアメリカ流の雇用ができるようになり、日本に進出しやすくなった。この11月には民営化された日本郵政、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の株式が上場される。政府が100%保有していた株式が民間に売りに出される。証券会社の手数料だけで230億円にもなる大型の新規株式公開だとのこと。アメリカの投資家が待ち受けていたはずだ。証券会社であるモルガン・スタンレーやゴールドマン・サックスなどは、さっそく上記の手数料を受取る。今後もアメリカからの要望は続き、アメリカにとって都合のよい日本に作り替えられてゆくことだろう。

 内田樹さんが言っているように、敗戦後、日本はずっとアメリカの属国であった。いつかは自立し、名実共に独立国家にしたいというのが過去の政治家たちの目標であったが、いま、2世、3世の政治家たちは、属国であるという認識さえ持たず、ひたすら自身の地位を守り、利益を得るために、アメリカを喜ばせる努力をする存在になってしまった。そんなことなら、いっそ日本はアメリカの51番目の州になった方がいい。そうすれば、アメリカとしての費用で国防をしてくれるし、彼らが恐れる中国も簡単に手が出せなくなる。なにしろ、アメリカに直接手を出すことになるのだから。また、日本は独自の州法を持ち、自立して、その伝統と文化を守ってゆくこともできるはずだ。それほど馬鹿げた案だとは思えないのだが。


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