思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

予測できない世界

2012-03-13 00:36:59 | 随想
 前回と同じようなテーマになってしまったけれど、少し違う側面から経済システムを考えてみたい。

 今年の5月21日、東京でも金環食を見ることができる。欠け始めが午前6時19分2秒、金環食が始まるのが7時31分59秒、最大の食になるのが7時34分30秒、金環食が終わるのが7時37分0秒、日食そのものが終了するのが9時2分37秒だとのこと。もう何年も前からこれはわかっており、ほぼ確実にこの通りになる。この世界には、このように未来にどうなるのかがはっきりとわかっていることがある。一方で、それを予測したいと努力はしているけれど、たとえば、東日本大震災に見るように、地震の予測は難しい。そのメカニズムはかなりわかってきているが、多くの要素が絡むし、深い海底や地殻の中で何が起きているか、観測も難しい。自然災害については、台風のように、おおよその進路、到達日などが予測できるようになったものもあるが、地震は、そろそろ来そうだという程度の予測しかできていない。しかし、科学的研究、観測技術などが進むにつれ、少しずつ精度があがるはずだという希望は持てる。

 これに対して、各個人の欲求や思惑の相互作用から生み出されている経済システムのような社会現象はこれから先がどうなるのかはわからない。わからなかったからこそ、現在の経済の停滞状態がある。いろいろな経済学者がこうすればこうなるはずだと、いろいろな理論を唱えているが、実際には唱えているようにはなっていない。経済学者の言う通りになっていれば、こんな経済状態にならないようにコントロールできたはずだ。これはこの先もずっとわからないだろう。変な例かもしれないが、競馬ではどの馬が勝つかわからない。馬の素質、そのときの調子、馬場の状態、騎手、騎手の精神状態、天候、同時に走る他の馬など、さまざまな要素が絡み合い、相互作用をした結果として着順が決まる。小さな複雑系であり、どうなるかは予測できない。だから競馬という賭け事が成り立っている。規模は違うが、経済システムも複雑系であり、その構成要素と相互関係は膨大であり、予測はできない。だからこそさまざまな経済的投機というものが成り立っている。

 全く別の経済システムを構築すれば、それはコントロール可能になるのだろうか。経済の予測ができるということは、究極的には、世界中の隅々までに及ぶ全需要が継続的に把握でき、それに対する全供給が継続的にできるということであり、それは完全な計画経済の世界を実現するということになる。そんなことができるのだろうか。たぶん不可能だと思う。少なくとも、過去にそれをめざしたソビエトでは失敗に終わっている。

 わからないということは人を不安にさせる。だから、わかりたいという願望が生まれ、そのための人間的活動が生まれる。科学もその一つである。しかし、わからないことが多いのがこの世界であり、人はその中で生きてゆかざるを得ない。そうなると、国も個人もいろいろな可能性を考え、それなりの心構えをしておくことが大切だ。地震などの災害に備える、食糧危機に備える、雇用の減少に備える、経済の不安定要因を増大させる投機的動きを規制する……と数え上げればキリはない。

 巨額の資産を動かし、主食となる食料やエネルギー資源など、人間にとっての必需品を投機的に売り買いするような行為は、社会に与える影響が大きいので、十分な監視と規制が必要だ。新自由主義者から見れば、規制は自由主義経済を否定するものだということになるが、実際には、規制によって世界経済が大混乱に陥るのを防ぎ、自由主義経済を守ることになる。自由とはすべての束縛から逃れることだという観念があるが、現実の世界では、一定の束縛を加えることによって得られる自由がある。たとえば、交差点に信号機を設置し、その信号に従うというルール(一種の束縛)をつくることによって、車はより自由に道路を走ることができるようになる。人も自由に道路を横断することができるようになる。束縛=不自由ではない。

 なお、この世界について、すべてが一寸先は闇というわけではない。最初に述べたように、かなりの先まで、相当の精度で予測できる世界もある。また、複雑系に属するものであっても、狭い範囲、限られた時間の中では、それなりに予測できることもある。したがって、可能な範囲で予測を立て、それを基に、必要な対処をすることも大切である



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