思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

過ちを認めない人たち

2017-10-09 18:29:31 | 随想

 少し前の話になるが、東大に数多くの合格者を出している灘中学・高校の校長が、採択した歴史教科書をめぐって、自民党の県会議員や国会議員から圧力を受けたということが話題になった。これは、校長自身が、「謂れのない圧力の中で──ある教科書の選定について──」と題された論文で述べているもので、富山大学教授・松崎一平氏が代表の「グループ帆」が編集・発行する「とい」という論文集に掲載され、同ホームページ上でも公開されている。

 灘中学が採択したのは、「学び舎」の「ともに学ぶ人間の歴史」という歴史教科書であり、他の教科書が触れていない慰安婦や河野談話に言及している。そのため、歴史修正主義者から強く敵視されていた。自民党議員から「政府筋の問い合わせだ」「なぜあの教科書を採択したのか」と問い詰められたほか、抗議のはがき(同じ組織が印刷したもの)が全国から何枚も届いた。内容は、“「学び舎」の歴史教科書は「反日極左」の教科書であり、将来の日本を担っていく若者を養成するエリート校がなぜ採択したのか? こんな教科書で学んだ生徒が将来日本の指導層になるのを黙って見過ごせない。即刻採用を中止せよ”というものであったとのこと。同じ教科書を採択した東京学芸大附属世田谷中には、義家文科副大臣が視察に訪れ、「採択のプロセスが明文化されていない」「国民の税金で営まれている学校が、外に向けて公表していない。信頼に足る運営をしていただきたい」と問題視している。 このような圧力をかける歴史修正主義者たちは、明治以降の日本の植民地主義による近隣諸国侵略を正当化することをその主な目的の一つとして活動している。日本は過ちなど犯していないというわけである。

 人は本質的に自分の過ちを認めたくないという傾向を持っているようだ。自己を正当化するバイアスが常にかかっているように思われる。池谷雄二さんがつぎのようなツイートをしているが、それを現していると思う。

【自己奉仕バイアス】例:人が出世したのは運がよかったから、自分が出世したのは頑張ったから。人が時間をかけるのは要領が悪いから、自分が時間をかけるのは丹念だから。人が上司に受けがいいのはおべっか使いだから、自分が上司に受けがいいのは協力的だから、人がやらないのは怠慢だから、自分がやらないのは忙しいから。人が失敗したのは努力不足だから、自分の失敗はタスクが困難だったから。人が言われていないことをやるのはでしゃばりだから、自分がやるのは積極的だから。人が仕事ができないのは無能だから、自分ができないのは上司がアホだから。

【根本的な帰属の誤り】他人の言動は「あの人はそういう人だから」と当人の内的要因に帰属させる一方で、自分については外的要因に帰属させる傾向。例:誰かが不可抗力で花瓶を落として割ってしまったら「不注意な人だ」と感じ、自分が花瓶を割ったら「机の端に置かれていたから仕方がない」と感じる。

 言われてみれば、私自身もそういう傾向がある。しかし一方で、過ちを認めることの大切さは理解しているつもりであり、今後もいっそうこのバイアスに気を付けてゆきたいと思う。とは言っても、いつの間にかこのバイアスにとらわれてしまうのだとも思う。人はそういうものだから。この点は重要だと思うのだが、このような自己正当化バイアスによる自己弁護は、他人に対してはほとんど無効だということである。他人から見れば、無理な正当化はすぐにわかる。だから、このような正当化は自分の心のうちにとどめておくのがよい。無理に正当化をすれば、その効果は反対方向に働き、かえってその人の評価は低くなる。過ちを認めることは自分を傷つけることであり、過ちをする人間は他人に見くびられると思っている人がいるようだが、実際は逆である。過ちは過ちとして認め、必要に応じてきちんと謝罪できる人が高く評価される。

 人が生きてゆく上で、自らの過ちを認めるということは大切なことである。以前にも述べたことがあると思うが、人は生きている限り、常に外界に対し何らかの働きかけをしている。外界は、その働きかけに対して何らかの反応をする。このような外界との相互作用の中で人は生きている。ある働きかけに対する外界からの反応が、その人にとって好ましいものであれば、その働きかけ方は正しかったと考えられる。反対に、その反応が、その人にとって不快、不適切なものであれば、その働きかけ方は間違っていたことになる。その過程の中で人は外界に対してよりよい働きかけ方を学んでゆくわけである。

 もちろん、条件が異なれば、同じ働きかけが別の結果を生むことがあり、一つの出来事だけで良し悪しを決めることはできない。いろいろな条件の中で、どういう働きかけが適切なのかを、個体として、集団として、社会として、種としての経験の中で習得ゆくわけである。いずれにしても、過ちを認識するということなしには、この習得のプロセスは成り立たない。過ちを認識しないということは、同じ過ちを繰り返すということであり、その個体、集団、種は進化的に劣ることになる。

 しかし、周りを見回すと、自分の過ちを認めない人が多いような気がする。かなり多くの人がそれを感じていると思う。いくら話をしても無駄であり、「じゃあ勝手にどうぞ」と言いたくなるような人がよくいるというのが実感である。それが個人レベルの問題であれば、その個人に弊害が生じるだけである。しかし、それが社会のレベルになると問題になる。この国では、過去の出来事に対し、自己正当化バイアスがかかった見方を、教科書(扶桑社や自由者の『新しい歴史教科書』)にして小中学生に教えるというところまできている。これについては「勝手にどうぞ」と言うわけにはゆかないのである。この国の未来にかかわることであるからだ。冒頭にあげた灘中学の問題も、この流れの中にある。教科書で、従軍慰安婦や河野談話にふれることが、この国の過ちについてふれることになり、彼らが勝手に想像しているこの国の歴史を傷つけるということで、圧力をかけるのだ。彼らにとって、この国は過ちなど犯さないのである。

 たとえば、太平洋戦争を含む第二次世界大戦は、人類としての大きな過ちであったということは明白な事実だと思う。安倍首相が寵愛し、かばい続けた元防衛大臣のように、「戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事、それが私の生き方の根本」などと言う人にとっては別であるが。(こういう発言をする人だからこそ寵愛され、次期総理大臣候補とまで言われたのかもしれない)したがって、第二次世界大戦という過ちは、その原因について徹底的に検証し、二度とあのような戦争を引き起こさないようにしなければならない。ところが、歴史修正主義者たちは、戦時に起きたいろいろな過ちを否定し、教科書(驚くことに、文部科学省の教科書検定に合格している!)まで作って、その考え方を、これからの日本を担ってゆく子供に押し付けようとしている。敗戦間もないころ、実際に戦争を経験した人たちばかりがいたころであれば、彼らの考え方(当時も、そういう考え方を持っていた人はいたと思う)は普通の人には相手にされなかったのではないかと思う。しかし、当事者がもうほとんどいなくなってしまったいま、彼らはこれ幸いと、証拠がない、証拠を出せと、過ちを否定する考え方を声高に主張し始めた。

 極端な自己正当化は自らの品格を貶めるだけでなく、過ちを認めないという意味で危険である。繰り返すが、同じ過ちをするからだ。世界戦争というレベルの過ちを認めないということは、再び戦争が起きる可能性が高まるわけであり、いまや世界中の人を何度も殺せる兵器を持つに至っている世界では、大変危険なことである。歴史修正主義者が作った教科書が文部科学省の検定に合格するということは、国の中枢にまで彼らの力が及び始めたということが言える。安倍内閣の閣僚のほとんど全員に近い人(第三次安倍内閣では12人)が日本会議国会議員懇談会という会に所属している。日本会議は戦前の日本を高く評価し、教育勅語を復活させ、大日本帝国憲法をモデルにしたような新憲法の制定をもくろんでいる団体である。幼稚園児に教育勅語を暗唱させていた森友学園を見学して感動した安倍首相夫人、昭恵氏は、学園が計画していた瑞穂の国記念小学院の名誉校長になった。学園の理事長である籠池氏は日本会議大阪支部の役員であった。最近メンバーを公開しなくなったらしいが、過去の資料を見ると、2015年9月時点で281名の国会議員が同懇談会の会員となっている。小池都知事や前原元民進党代表もそのメンバーになっている。今は不明。

 今回の国会解散から選挙前のごたごたを見ていると、多くの候補者が、政治的信念など持っていないかのように、どうすれば当選の可能性が高いかを考えながら、右往左往しているような印象を受ける。彼らの多くが、きのう言っていたことと、きょう言っていることが反対であっても、そこに過ちを認めない。過ちを認めない人のオンパレードである。安保法制反対、改憲反対を主張する党の代表が、安保法制賛成、改憲賛成を主張する党に身売りするにあたり、「小異を捨てて大同につく」と自己正当化をする。いったい安保法制、改憲問題がどうして小異なのだろう。政治的に中心的課題のはずだ。

 民進党が自分自身も含め希望の党に吸収され、それに抗議するかたちで枝野氏が立ち上げた立憲民主党と分裂したことについて、つい先日民進党の代表に選ばれたばかりの前原氏は「すべて想定内」と記者会見で言っている。あきれてものが言えない。希望の党は公認の条件の一つとして安保法制賛成、改憲賛成の誓約書をとるとのこと。また、そこには、「党の公約を遵守すること」という項目もある。選挙公約の発表前であり、どんな公約が示されるかまだわからないときに誓約書を出させる。つまり、それは白紙委任状である。そういう誓約書にサインする人は、議員にさえなれれば、政治的主張なんか関係がないということらしい。国民はこのような人を自分たちの代表として選ぶのだろうか。そこまではずかしい行為をしてでもなろうとする「議員」というものは、それほどおいしい仕事なのだろうか?そうするのだから、きっとそうなのだろう。でも、つぎのような論文があることも忘れないでほしい。

【池谷雄二さんのツイッターから】
「人物像」において最も重要な要素はモラル。知能や実力や社交性も大切かもしれませんが、モラルは一回の失敗でも、その人物のイメージに対して取り返しのつかない心象を残します。例:こちらの論文→https://goo.gl/CfVgx7 、https://goo.gl/T26KB9(共に英語です)

 このような人たちが議員として当選し、この国の重要な政策決定にかかわり、この国の方向を決めてゆくとすれば、暗澹たる気持ちになってくる。もちろん、この問題は、そういう議員を自分たちの代表として選ぶのかどうかという国民の問題である。今度の選挙では、こんな人たちをこそ「排除」したい。今度の選挙は、従来にも増して、日本国民が試される選挙だと思う。この国の重要な問題について、議員たちがどんな考えを持っているのか、どんな行動をしているのかなどに関心を持ち、誰が本当に自分たちのために働いてくれるのかを判断する必要がある。その判断のために、テレビや新聞などのメディアは国民に十分な情報を与える義務がある。

【日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 第十二条】
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。



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