この章(第四章 残酷さと贖い)は次のようなお話から始まる。
貨幣は、あるときは商品であり、あるときは借用証書であり、双方の間をほとんど常にさまよっている。
「貨幣が、近隣者どうしの物々交換の不便を克服するために発明されたのではなかったのはあきらかである。そもそも近隣者どうしが物々交換する理由などなかったのだから」そうだとしても、借用証書としての「信用通貨は信頼に基盤をおいており、そのシステムは相当な不便に直面していただろう」
「ある一定の共同体の内部(内部、外部の境界はしばしば明白でなかった)――町、都市、ギルドあるいは宗教結社――となれば、ほとんどなんでも貨幣として機能することができた。それを受領して債務を解消する意志をもつ任意のだれかが存在するということを、だれもが知っているかぎりにおいて」
一方、よそ者どうしの取引では金属実質より高い価値で流通していた金貨、銀貨などの貨幣が使われていた。(逆であれば、当然、貨幣としてではなく、金属実質として取引される)
したがって、「歴史の大部分を通じて、洗練された市場のみいだされる場においてすら、多様な種類の通貨のごたまぜ状態がみいだされる」ことになる。
その中で、「どのような物品が、通貨として受領可能とされたか。そこからわたしたちは、しばしば、特定の時代、特定の場所における諸政治勢力の均衡状態について知ることができる」と言う。
「たとえば、植民地時代のヴァージニアの農園主は、小売店主に対してじぶんたちのタバコを通貨として受領させる義務を法制化することに成功した。それとおなじように、中世ポメラニアの農民たちは、ある時点で支配者たちを説得して、ローマの通貨でおさめられていた租税や謝礼や関税を、ワインやチーズや香辛料、鶏肉、卵、あげくのはてはニシンによっても支払い可能なものにしたようだ」「これは農奴というよりは自由農民の地域においての話である。そこで農民たちは相対的に強い政治的立場にあった。それ以外の時代や場所においては領主や商人の利害が凌駕している」
「かくして貨幣は、商品と借用証書のあいだをほとんど常にさまよっている」のであるが、まさにこのことが「硬貨がわたしたちの頭のなかで貨幣の典型として存続している理由」だろうと言う。「硬貨とはここではそれ自体商品として価値があり、政治的権威の紋章が刻印されることでさらに価値をあげる(信用を得て、金属実質より高い価値で流通する)金銀の断片のことである」つまり、硬貨は、「商品としての貨幣」と「借用証書としての貨幣」のどちらにもなり得るという二面性を持っているということだ。
ここで話は変わる。
「物々交換の神話と原初的負債の神話は、……おなじコインの裏表でもある。一方は他方を前提にしているのである。すなわち、わたしたちがみずからと宇宙の関係を負債として把握する(原初的負債の神話)ことができるのは、人間生活をさまざまの商取引からなるもの(物々交換の神話)とみなしてはじめてなのだ」
「実例を示すために」と、意外な証人が呼び出される。フリードリッヒ・ニーチェである。「世界を商業的観点から想像しようとしたとき生じる事態を、たぐいまれなる明晰さをもって透視できたのが、ほかならぬこのニーチェであり」『道徳の系譜学』(1887年公刊)にそれが示されていると言う。
ニーチェは、「物々交換のみならず売り買いそのものが、それ以外のどんな人間関係の形式にも先行している」……「負い目という感情や個人的な義務という感情は……存在するかぎりで最も古く、最も原初的な人格的な関係に根ざすものである」が、それは「買い手と売り手の関係、債権者と債務者の関係から生まれてきたものなのだ」……「値段をつけること、価値を測定すること、同等な価値のあるものを考えること、交換すること――これらは人間のごく最初の思考において重要な位置を占めていたものであり、ある意味では思考そのものだったのである」と主張する
また、「人間はみずからを、価値を測る生物として、価値を見積もって測定する生物として、[まさに評価する動物そのもの]として特色づけたのである。買うことと売ること、およびそれに付随する心理的な要素は、あらゆる社会的な組織形式や結びつきの端緒よりもさらに古いものである」とも言う。
さらに言う。「どのような商業計算のシステムも債権者と債務者を生みだすことになる」「実のところ、人間のモラルの出現も、まさにこの事実に由来する」「借りがある[負債を負っている]ということは、そのまま罪責のうちにあるということであり、債権者は歓喜をもって借りを返せない債務者を処罰したのである。たとえば、借りにふさわしいだけ肉を切り取るなど、債務者の肉体にあらゆる屈辱と拷問を与えることによってである」
「実際、ニーチェは、潰された目にはいくら、切り取られた指にはいくら、と一覧表にしてみせた、原初の[蛮民法典]について、真のその目的は目や指の賠償額の設定ではなく、債務者の肉体をどれほど債権者が自由にできるかの制度化である、とまで主張している!」とのこと。
「人間が共同体の形成をはじめたとき、共同体とじぶんたちとの関係性について、彼らは、必然的にこうした負債の一観点から想像をはじめた。部族はひとに平和と安全を与えてくれる。それゆえひとは部族に負債を負う」……「この負債は――またもや――供犠「犠牲」によって支払われる」……「ここで支配的な力を発揮しているのは、みずからの種族は祖先の犠牲と働きの力だけによって存続しているのだという確信であり、――これにはみずからの犠牲と働きによって返礼しなければならないという確信である」……「祖先へのこの負い目はますます大きくなってゆく」
「ニーチェにとって、アダム・スミスの人間本性にかんする前提から出発するならば、必然的に原初的負債論の系譜に帰着する」
「祖先に返済を終えることなど決してできはしないし、どんな供犠[犠牲]も(初子の生け贄さえも)真の贖罪にはなりえないであろう」……「先祖を畏怖し共同体が強く大きなればなるだけ、『必ず先祖が神に転身していく』のである。共同体が王国に、王国が普遍的な帝国に成長していくにつれ、神々もまたより普遍的なものを体現し、より壮大な、より宇宙的な相貌をあらわし、天を支配し、稲妻を落とすようになる。そしてそれは、『地上における最大の負債の感覚をもたらした』最高神、つまりキリスト教の神においてついに頂点に達する」……「贖罪の不可能性(永遠の罪)という思想に凝縮されるようになる」
ここでキリスト教は、「責めさいなまれた人類」に逃げ道を提供する。「この逃げ道とは、神が人間の負い目のためにみずからを犠牲にしたとか、神が人間の負い目をみずから払い戻したとか、人間がみずから払い戻すことができなくなったものを払い戻すことができるのは神だけであるとか、主張する教えである」……「債権者がみずからを、債務者のために犠牲にする、それも愛から」……「しかしそんなことが信じられるだろうか?」……「自分に負債を負う者への愛から、みずからを犠牲にするというのだ!」
「こうしたことはすべて、ニーチェの最初の前提から出発するかぎり、まったく理にかなっている。だが問題は、この前提そのものが狂っているということだ」……「ニーチェ自身、おそらく、この前提が狂っていることを知っていた。実のところ、これこそが彼の問題の核だったのである」と言う。
「ここでニーチェは、ひとまず、同時代に支配的だった(そして結局いまなお支配的な)人間本性についての標準的で常識的な前提から出発している」その本性とは、「人間は合理的な計算機であること、商業的な自己利益が社会に先立っていること、[社会]自体がそこから帰結する紛争にまにあわせにふたをかぶせる方法でしかないこと、などである。要するに、ニーチェは、つきなみなブルジョア的諸前提から出発し、それらの諸前提を推し進めた結果、ブルジョアの読者に対し否応なしにショックを与えるまでにいたったということである」とグレーバーは言う。
ニーチェは「徹頭徹尾、ブルジョア的思考の枠内でのみ展開して」おり、「それを超えたところにあるものには一切ふれもしていない」……「ニーチェは返済の失敗ゆえにたがいの肉体を切り刻む野蛮な狩人を空想したが、その空想を真に受けたがっている人間への最良の対応は、実際の狩猟採集民の言葉を贈ることだ」として、デンマークの探検家であり人類学者かつジャーナリスト、ピーター・フロイヘンの『エスキモーの本』によって有名になったグリーンランドのイヌイットの話が紹介される。
「ある日、セイウチ猟がうまくいかず腹を空かせて帰ってきたとき、猟に成功した狩人の一人が数百ポンドの肉をもって来てくれたことについて、フロイヘンは語っている。彼はいくども礼を述べたのだが、その男は憤然として抗議した。……『この国では、われわれは人間である』『そして人間だから、われわれは助け合うのだ。それに対して礼をいわれるのは好まない。今日わたしがうるものを、明日はあなたがうるかもしれない。この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだ』」
池谷裕二さんの次のツイート(2018.5.23)も同じことを言っているのだと思う。
【アリガトウなんて要らない】世界の様々な民族を調査したところ、多くの文化圏では助けてもらってもわざわざ感謝の言葉を言わないようです。手助けは当然という暗黙の前提で社会が成り立っているからだそう。
「これに似た貸しと借りの計算の拒絶は平等主義的な狩猟社会についての人類学文献全般にみいだされる」「狩猟民は経済的計算の能力ゆえにみずからを人間であると考えるかわりに、そのような打算の拒絶、だれがなにをだれに与えたか計算したり記憶することの拒絶に真に人間であることのしるしがあると主張した」その理由は「それ[貸借計算]をしてしまえば、[力と力を比較し、測定し、計算すること]をはじめてしまう世界、負債を通じてたがいを奴隷あるいは犬に還元しはじめる世界を形成してしまう」からだと言う。
そして述べられるつぎの部分は非常に大切なことだと思う。
「いうまでもなくわたしたちは計算する[打算的]性向をもっている。わたしたちはあらゆる性向を有している。実人生のどんな状況にあっても同時に異なった矛盾する方向にわたしたちをみちびいてしまう、さまざまな性向がわたしたちにはある。ほかのだれより真実を体現するような人間はいないのだ。本当の問題は、わたしたちが人間性の基礎をどちらにおくか、したがって文明の土台をどちらにおくかにある」
**********
つまり、わたしたちが常に当前のこととして目の当たりに見ているこの文明の土台である商業的計算、売り買いは、歴史上の一つの文明の土台にすぎないということであり、先の狩猟採集民イヌイットの文明には別の土台があるということである。また、別の土台も創造しうるということでもある。必要なことは、商業的計算、売り買いという土台の上に築かれた文明が人々を幸福にしているか、この文明は、これからさらに多くの人を、より幸福にできるという可能性を持っているのか、反対に、この文明も、ごく一部の人の幸福ために、その他の人が犠牲になるというかたちの文明ではないのか、この土台を見直す必要はないのか、そういったことを考えてゆくことだろう。
**********
グレーバーは言う。「ニーチェの負債の分析が有益だとすれば、それは、人間的思考が本質的に商業的計算にあり、売り買いが人間社会の基礎であるという前提から出発したとき――そう、またもやそれを宇宙と人間との関係の思考の始点にすえたとき――わたしたちは必ずや、その宇宙とじぶんたちの関係について負債を通して認識してしまう、という事態を暴露するからである」
さらに、「ニーチェはもうひとつ、べつの文脈においても有益であるように思われる。[贖(あがな)い、救済]という概念の理解にとって、である」とも言う。
「ニーチェの……キリスト教にかんするその一連の分析――負債の感覚が根強い罪責感に、罪責感が自己嫌悪に、自己嫌悪が自己拷問に、どのように変容するかについての分析――はまったく正しいように感じられる」
キリストは[救世主(redeemer)]とされているが、「[救う(redeem)]のそもそもの意味は、なにかを買い戻すこと、あるいは借金のかたにとられたものを取り戻すこと、つまり負債を完済することでなにかを獲得することである」とのこと。つまり、「キリスト教の教えの神髄である救済、人間を劫罰(ごうばつ)から救うための神自身の子の生け贄、こういったことが金融取引の言語で形成され」ている。
「人間の条件を考えるために市場の言語を借用したのは、……実のところ、多かれ少なかれ、主要な世界宗教すべてがそうしてきたのである。その理由は、ゾロアスター教からイスラーム教まで、あらゆる世界宗教が、人間の生活における貨幣と市場の役割についての激しい議論のなかから出現したからである」……「こういった負債についての問い、負債についての議論は、その時代の政治的生活の全領域に浸透していたのである。これらの議論は、蜂起や請願、改革運動のただなかで提起された」と言う。
「[贖い/救済]という観念に戻ってみよう。どちらも[贖い/救済]と訳されているヘブライ語のpudultとgoalは、他人に売ったものを買い戻すという意味で、とくに先祖伝来の土地の回復、あるいは担保として債権者の手元にあった物品という意味で使われていた。預言者や神学者たちがなによりまず念頭においていた事例は、この担保物品の回復であったようだ。担保にとられたもの、とりわけ借金のかたにつれていかれた家族の買い戻しである」
古代ペルシャ帝国の時代に書かれた『ネヘミヤ記』によると、ペルシャ帝王を説き伏せて、執政官に就いたネヘミヤがその任地であるユデア(彼の生地)に戻ると、「まわりは、納税できない貧窮化した農民や、貧者の子どもたちを[借金のかたに]奪いとる債権者でいっぱいだったのである。彼の最初の対応策は、古典的なバビロニア流の[債務帳消し]の布告であった」
「聖書においても、[自由(freedom)]とは、なによりもまず負債の影響からの解放を意味するようになった。時間がたつにつれ、ユダヤ人の歴史そのものが、この観点から解釈されるようになる」……「贖い/救済とは、個人の罪業(sin)と罪責性(guilt)の重責からの解放であり、歴史の終焉とは、天使のラッパの大音響が最終的な大赦(Jubilee)を告知するとともに、すべてが白紙に戻され、あらゆる負債が免除される瞬間のこととなる」
ここで、『マタイによる福音書』第一八章三・四節にあるつぎのような寓話が紹介される。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、しもべたちに貸した金の決済(setle accounts)をしようとした。決済しはじめたところ、一万タラント借金しているしもべが、王の前につれてこられた。しかし、返済できなかったので、主君はこのしもべに、じぶんも妻も子も、また持ち物もぜんぶ売って返済するように命じた。しもべはひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりにねがった。そのしもべの主君はあわれに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、このしもべは外に出て、じぶんに百デナリオンの借金をしている仲間に出逢うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」といった。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱっていき、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第をみて非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はそのしもべを呼びつけて言った。「不届きなしもべだ。おまえが頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえもじぶんの仲間をあわれんでやるべきではなかったか。」そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、しもべを牢役人に引き渡した。
この寓話は、つぎのような理由で、「現世において、究極的には免罪(forgiveness)は不可能であるという暗示である」とグレーバーは言う。
「王たちは、神々とおなじように、みずからの臣下と交換関係に入ることはできない。同格ではありえないからである。そしてここでは、あきらかに王が神である。だからどう考えても、最終的な決済などありえない」
「古代ユダヤにおいて、ある者が債権者に[一万タラント]借りているということは、いまだったら[一千億ドル]の借金があるというに等しい。この数値もまた冗談である。これは[どのような人間がどうあがいても返済しようのない額面]というにすぎない」
「キリスト教信者たちは、主の祈りを復唱するたびに、それとおなじ意味のことをくり返している。神にむかって「われらが債務者を[債務から]免除いたしますので、われらの負債も赦免してください」と懇願しているのである。それはこの寓話のあらすじをほとんどそのまま反復しているわけであるが、その含意もおなじぐらい陰鬱なものだ。つまるところ、祈りを復唱するキリスト教信者のほとんどは、じぶんたちに借りのある者[債務者]を免除などしていないことを承知しているのだから。だとしたら、神に彼らの罪業を赦さねばならない理由があるのだろうか?」
グレーバーは言う。「これらの少ない事例についてのわたしの考察からでも、貨幣の起源と歴史についての因襲的な説明のなかに、どれだけ多くのことが隠蔽されているかがあきらかになる」「古代人たちが貨幣について考えたとき、彼らが最初に念頭においていたのは、友好的な交換などではほとんどありえなかったのだ」「ほとんどの人間の頭には、おそらく、奴隷売買、罪人の身請け、腐敗した徴税請負人、征服した軍隊による掠奪、抵当や利子、盗みやゆすり、復讐や懲罰などなどが浮かんだはずである。そしてなににもまして、家族をつくるため、すなわち、花嫁をえて子どもをつくるための貨幣の必要性と、おなじ貨幣の使用が家族を破壊してしまうこと――負債をこしらえ子どもや妻を奪われてしまうこと――のあいだの緊張関係が浮かんだはずである」……「これこそ、人類史の大部分で、大多数の人びとにとって、貨幣というものがもった意味なのである」
「それもこれも自然のなりゆきとして受け入れられていた」、「善悪の問題、モラル上の問題とはみなされていなかった」、「ものごとは起こるべくして起こる」などという反論がくるかもしれないが、「歴史的記録にふれておどろくのは、債務危機にあっては多数者の反応がそれとは違ってくるということである。実際に無数の人びとが怒りの声をあげたのだ。そしてそうした事例はおびただしく、まさに現代の社会正義の言語、わたしたちの人間の隷属と解放についての語り口にまで、古代における負債をめぐる議論が反響をやめないでいるのである」と言う。
ここで、「ことさら眼を惹く」のは、「カースト制や奴隷制にはおなじような抗議行動がみられない」「債務者たちの抗議が、[とりわけ]かくも大きなモラルの重みを担っているようにみえる」「債務者たちにかぎって、聖職者、官吏、社会改革者たちの同調を獲得することに成功した」「ネヘミヤのような官吏たちは債務者の不満や抗議、大動員の呼びかけには、同情をもって配慮した」。いったいこれらはどうしてか?という疑問が投げかけられる。
その理由は、「負債をそれ以外のことがらから峻別しているのは、それが平等の仮定を条件としていることである」と言う。「奴隷であることあるいは下層カーストであることは、本質的に劣位にあるということである。そこにあるのは生粋のヒエラルキーである。だが負債において問題となるのは、対等の当事者(equal parties)として契約をむすぶ二人の個人である。法的な意味で、少なくとも契約にかんするかぎり二人は同等なのである」ということだ。
「ある農夫が、[人は助け合うもの]となっているから、金持ちのいとこに借金をたのみこんだはいいが、二、三年後に、ぶどう園を取りあげられ、息子と娘をつれ去られるはめにおちいった。そのとき、この農夫の反応はどのようなものか、想像してみよう。この「いとこの」ふるまいは、法的観点からは正当化できる。……だが、感情的には手ひどい裏切り以外にはおもえなかったはずだ」
法的観点から、これを契約違反の問題として定義づけると、債務者は契約を守る[約束を尊重する]ことができなかったというモラルの問題となるが、「心理学的にみれば、債務者のおかれた状況のもたらす不名誉[恥辱]は、これによってますます痛ましくなるばかりである。というのも、それによって、おまえの娘の運命をみじめなものにしたのは自業自得だ、といえるようになってしまう」……「まさにこのことが、モラルによる非難を投げ返す動機をいやおうなく強力なものにするのである。[同胞もわたしたちもおなじ人間だ。彼らに子どもがあれば、わたしたちにも子どもがある]。わたしたちはみなおなじ人間なのだ。わたしたちには、おたがいの必要性と利害に配慮する責任がある。それなら、いったいどうしてわたしの兄弟は、わたしに対してこんなことができたのだ?」となる。
「旧約聖書の場合、債務者たちは強力なモラルによる議論を巧みに組み立てている」と言う。「ユダヤ人はみなエジプトで奴隷だったではないか?そしてだれもがおなじように神に救済/贖罪されたではないか?この約束の地を、みなで分かち合うよう与えられたのに、ある者が他の者からそれを取り上げるのは正しいおこないなのか?解放された奴隷たちが、たがいの子どもを奴隷に貶め合っているのは正しいことなのか?」
「人類史を通して、階級間の公然たる政治的抗争が出現したとき、それは負債解消の申し立てというかたちをとっていた」また「聖書やそれ以外の宗教的伝統のうちに、わたしたちは、これらの主張を正当化するためのモラル上の議論の痕跡を認める」そして、その議論は「不可避的に、一定の度合いで、市場そのものの言語を取り込んでいる」と言う。
**********
いまの日本を見ていると、権力者やその周辺のモラルの崩壊が著しい。しかし、国民の多くはそれに大きな怒りを感じていないように見える。どうしてなのだろう。もし、国民が、権力者やその周辺の人について、自分たちと同じ人間であり、平等に扱われるべきだと考えていたとすれば、現状に対して、もっと大きな怒りを感じるはずだと思う。そして、大規模な社会的抗議活動が活発に行なわれているはずだと思う。
しかし、そうはなっていない。それはどうしてなのだろう。先に、債務危機において、債務者による、モラル的怒りからくる抗議行動が盛んに行なわれたとき「カースト制や奴隷制にはおなじような抗議行動がみられない」という話があった。債務者の怒りは、債権者と自分たちが同等、平等の関係にあるという仮定から生まれるということであった。そこから考えると、もしかすると、日本人の多くは、権力者と自分たちが同等、平等の関係にあると感じていないのかもしれない。「奴隷であることあるいは下層カーストであることは、本質的に劣位にあるということである。そこにあるのは生粋のヒエラルキーである」と言う。つまり、彼らには権力者に対し、自分たちは「本質的に劣位にある」「権力者=お上」という意識が基底にあり、それが、腐臭を放ちながらも現政権が居座ることを可能にしている理由ではないだろうか。そういう意識は、地政学的に特異な条件の中で築かれてきた日本の歴史から生まれてきたものかもしれない。もちろん、そんなことは全く考えず、現政権への強い怒りを感じている人は多い。しかし、この「本質的に劣位にある」という意識が歴史的産物だとすれば、その呪縛を解くことは大変厄介なことである。なにしろ、先の戦争で、「お上」から赤紙(召集令状)一枚で招集され、非人間的扱いを受け、多くの人が悲惨な殺され方をしたにもかかわらず、それでもいまだに残っている意識なのだから。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます