10、東の 野に炎の 立つ見えて 返り見すれば 月傾きぬ
・・・或いは下の句を「月 西渡る」とする。
古今集に「さ夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空に 月渡る見ゆ」というのが詠み人知らずとして載っているが、これは人麻呂の作だという。つまり月が傾くという表現よりも、月が渡ると言ったほうが「より人麻呂らしい」とも言える資料である。勿論、これ一つだけで「人麻呂は月渡る」だ、というつもりはない。ただ、「月傾きぬ」という表現は、何か一つの登場人物が舞台から去ってゆき、見るものの心に一つの区切りが終わりを告げる印象だ。この歌の上の句の、雄大な「何かの始まり」を目撃している瞬間の興奮にも似た感動と対比して、後に来る下の句が、過去の栄光の「静寂のうちの退場」を「傾きぬ」の過去完了形が表していると感じさせるのである(私は、古文の文法的解釈は苦手なので、間違っているかも知れないが)。歌の主眼は東の陽炎ではなく、西の月の「傾くさま」に置かれている。
これに対して「月 西渡る」と描いた場合、「東(ひむがし)」の太陽の登場を表す炎(かぎろい)に対して、「西」へと渡っていく月を配したところは、周囲全体を「動き」が支配していて、東から西へと視線が動いていく動作が「何か大きなもの、天の運行」を感じているのである。「月傾きぬ」と言った時と比べるとより宇宙的であり、明るく未来的でもある。それを考えると、月傾きぬの世界は「懐疑的であり、過去的」である。この大きく異なった2つの歌は、どちらが人麻呂作なのだろうか?
私は時には「月 西渡る」の宇宙的なスケールの大きい躍動感を楽しむこともあれば、時には「月傾きぬ」の、何か中心となっていたものが交代する寂寥感に浸りたい感覚に襲われることもある。どちが人麻呂かというより、状況に応じて「どちらも人麻呂である」としておきたい。
柿本人麻呂は歌人として素晴らしい歌を幾つも作っているが、そのどれもが劇的で感動的で、人の心の深奥を覗かせるものがある。それは古代人の作品としては「万葉のおおらかさ」とは違った、別種の世界観をも感じさせる成熟したものと感じた。これは、彼の育った文化的素養が、日本土着の素朴なものでなく、中国の深い伝統に裏付けられた詩的教養というものが影響しているように思える。勿論、彼が自分の為に書くのではなく、宮廷歌人の仕事として制作していたという事情も大いに関係しているだろう。彼が働いていた場所は、歴史家が言うように持統天皇統治下の飛鳥ではなく、本当は朝鮮半島と政治的綱引きを演じている国際国家「倭国」であった、というのが私の中では定説となっている。彼は飛鳥のような片田舎に住んで、チマチマとした和歌を作っているような小歌人ではないのである。
私は彼は、朝鮮・中国を視野に入れた、もっと国際的な、或いは宇宙的ですらあるような雄大な歌を詠む歌人だと思っている(人麻呂個人は謎に満ちているので、それ程思い入れはないのだが)。だからここで、彼の歌の一部をいくつか挙げておくことにしたい。
○ 天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
○ 楽浪の 志賀の辛埼 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
○ もののふの 八十宇治川の網代木に いさよふ波の 行くへ知らずも
○ 淡海の 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
○ 大君の 遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ
○ 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を妹見つらむか
○ ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し
○ 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも
○ 大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも
○ 日並の 皇子の命の 馬並めて 御狩立たしし 時は来向かふ
○ 小夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空を 月渡る見ゆ
以上、ざっと挙げただけでも、彼が大君と呼んでいるのが「持統天皇や草壁の皇子・文武天皇」などのイメージとは掛け離れた、「偉大な君主」を示していると私には思えるのである。この辺の事情を解き明かすのが私のライフワークだが、それは私のブログ「古代史喫茶店」の方に譲るので、ここでは止めておこう。もっともっと名歌があるのだが切りがないので残りは割愛する。興味の有る方はネットで「柿本人麻呂千人万首」と検索すれば、一つ一つ懇切丁寧な解説つきで出ているので参考までに。人麻呂の終焉の地に関しては多くの研究があって、斎藤茂吉の江の川の上流の鴨山説を論破した梅原猛教授の「水底の歌」を父が読んでいたのを思い出した。
ホントの気持ちを言えば、私は人麻呂を「そんなに好き」ではない。歌はコミュニケーションだという「私の持論」から言えば、人麻呂は余りに「エピソードが皆無」過ぎるのだ。無論古代の人だから、殆どの歌人が「歌以外の事」は全然分かっていない。その謎めいたイメージが、諸手を挙げて「好きだ」と言えない理由だろうか。何か変則的な言い方になってしまいそうだが、歌を好きになるためには、作者のことを知る必要があると私は思っている。そこが人麻呂の場合は「後ちょっと」なのである。結局のところ、私が好きなのは歌ではなく「歌に彩られた人間」なのかも知れない。
(続く)
・・・或いは下の句を「月 西渡る」とする。
古今集に「さ夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空に 月渡る見ゆ」というのが詠み人知らずとして載っているが、これは人麻呂の作だという。つまり月が傾くという表現よりも、月が渡ると言ったほうが「より人麻呂らしい」とも言える資料である。勿論、これ一つだけで「人麻呂は月渡る」だ、というつもりはない。ただ、「月傾きぬ」という表現は、何か一つの登場人物が舞台から去ってゆき、見るものの心に一つの区切りが終わりを告げる印象だ。この歌の上の句の、雄大な「何かの始まり」を目撃している瞬間の興奮にも似た感動と対比して、後に来る下の句が、過去の栄光の「静寂のうちの退場」を「傾きぬ」の過去完了形が表していると感じさせるのである(私は、古文の文法的解釈は苦手なので、間違っているかも知れないが)。歌の主眼は東の陽炎ではなく、西の月の「傾くさま」に置かれている。
これに対して「月 西渡る」と描いた場合、「東(ひむがし)」の太陽の登場を表す炎(かぎろい)に対して、「西」へと渡っていく月を配したところは、周囲全体を「動き」が支配していて、東から西へと視線が動いていく動作が「何か大きなもの、天の運行」を感じているのである。「月傾きぬ」と言った時と比べるとより宇宙的であり、明るく未来的でもある。それを考えると、月傾きぬの世界は「懐疑的であり、過去的」である。この大きく異なった2つの歌は、どちらが人麻呂作なのだろうか?
私は時には「月 西渡る」の宇宙的なスケールの大きい躍動感を楽しむこともあれば、時には「月傾きぬ」の、何か中心となっていたものが交代する寂寥感に浸りたい感覚に襲われることもある。どちが人麻呂かというより、状況に応じて「どちらも人麻呂である」としておきたい。
柿本人麻呂は歌人として素晴らしい歌を幾つも作っているが、そのどれもが劇的で感動的で、人の心の深奥を覗かせるものがある。それは古代人の作品としては「万葉のおおらかさ」とは違った、別種の世界観をも感じさせる成熟したものと感じた。これは、彼の育った文化的素養が、日本土着の素朴なものでなく、中国の深い伝統に裏付けられた詩的教養というものが影響しているように思える。勿論、彼が自分の為に書くのではなく、宮廷歌人の仕事として制作していたという事情も大いに関係しているだろう。彼が働いていた場所は、歴史家が言うように持統天皇統治下の飛鳥ではなく、本当は朝鮮半島と政治的綱引きを演じている国際国家「倭国」であった、というのが私の中では定説となっている。彼は飛鳥のような片田舎に住んで、チマチマとした和歌を作っているような小歌人ではないのである。
私は彼は、朝鮮・中国を視野に入れた、もっと国際的な、或いは宇宙的ですらあるような雄大な歌を詠む歌人だと思っている(人麻呂個人は謎に満ちているので、それ程思い入れはないのだが)。だからここで、彼の歌の一部をいくつか挙げておくことにしたい。
○ 天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
○ 楽浪の 志賀の辛埼 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
○ もののふの 八十宇治川の網代木に いさよふ波の 行くへ知らずも
○ 淡海の 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
○ 大君の 遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ
○ 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を妹見つらむか
○ ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し
○ 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも
○ 大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも
○ 日並の 皇子の命の 馬並めて 御狩立たしし 時は来向かふ
○ 小夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空を 月渡る見ゆ
以上、ざっと挙げただけでも、彼が大君と呼んでいるのが「持統天皇や草壁の皇子・文武天皇」などのイメージとは掛け離れた、「偉大な君主」を示していると私には思えるのである。この辺の事情を解き明かすのが私のライフワークだが、それは私のブログ「古代史喫茶店」の方に譲るので、ここでは止めておこう。もっともっと名歌があるのだが切りがないので残りは割愛する。興味の有る方はネットで「柿本人麻呂千人万首」と検索すれば、一つ一つ懇切丁寧な解説つきで出ているので参考までに。人麻呂の終焉の地に関しては多くの研究があって、斎藤茂吉の江の川の上流の鴨山説を論破した梅原猛教授の「水底の歌」を父が読んでいたのを思い出した。
ホントの気持ちを言えば、私は人麻呂を「そんなに好き」ではない。歌はコミュニケーションだという「私の持論」から言えば、人麻呂は余りに「エピソードが皆無」過ぎるのだ。無論古代の人だから、殆どの歌人が「歌以外の事」は全然分かっていない。その謎めいたイメージが、諸手を挙げて「好きだ」と言えない理由だろうか。何か変則的な言い方になってしまいそうだが、歌を好きになるためには、作者のことを知る必要があると私は思っている。そこが人麻呂の場合は「後ちょっと」なのである。結局のところ、私が好きなのは歌ではなく「歌に彩られた人間」なのかも知れない。
(続く)
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