明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史刑事(デカ)・柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(20)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その3)多利思北孤と聖徳太子

2020-10-20 11:33:09 | 歴史・旅行
8、白村江前夜

推古29年(621)隋が滅びて唐が起こる。東アジア激動の混乱を制した統一王朝「隋」があっけなく滅び、学術的には、618年李淵が隋から禅譲を受けて「唐」を建国した。一条このみ氏の記述にある621年は何の数字か明確ではないが、私は専門家ではないのでまあ細かいところは良いだろう。この年(621年)の2月5日に厩戸皇子が亡くなった。この模様は日本書紀に詳しく書いてあるが、書紀が臨場感を持って詳細に記録している時は「書紀制作者が、何かの意図を持って自前の歴史ではないことを描く時」だ、という逆説があることを思い出す。偶然、倭国王多利思北孤が622年2月22日に亡くなっているが、こちらの葬儀の様子は書紀には全くカットされている。厩戸皇子の葬儀の模様を詳細に描くことで、あたかもそれが上宮法皇の葬儀を描いているかのような「錯覚に導いていく」ところが書紀の二重構造の本質である。と言うか、「倭国の存在を消すこと」が書紀の目的だとしたら、ある意味当然なのだ。

しかし、これは「法隆寺金堂釈迦三尊光背銘」という当時の一次史料に書かれている事実である。光背銘は「上宮法皇」と書いてあるから、厩戸皇子のことで無いのは歴然としているのだが、何故か書紀はそうは書かなかった。書紀編纂時から100年近く前のことだから、実は「そうと信じて疑わなかった」という事もあるかも知れない。が、死亡年月日や、太后・王后の名前も聖徳太子とは異なっているから、これは別人であるのは明白だ。母の鬼前太后の亡くなったのが「621法興元31年」、その翌622年には上宮法皇と妻の干食王后も共に亡くなりった。翌623年に「願いの如くこの釈迦三尊像を敬造した」と光背銘にある。ちなみに、有名な仏像制作者「止利仏師」と言うのは、この光背銘によれば「九州の人」だったことが分かる。つまり、飛鳥様式として名高い釈迦三尊像も、実は「九州様式」だったのだ。

この釈迦三尊像は多利思北孤の病気平癒を祈って作られたのだが、出来上がる前に本人は亡くなってしまった。一条このみ氏はこの釈迦三尊像が最初に納められた寺を「法興寺」としているが、現在はこの釈迦三尊像は法隆寺に収められている。私見では、法隆寺は九州太宰府の観世音寺を移築した建物だから、この三尊像も同時に移されたものと考えて不思議はないと思っている。多利思北孤は観世音寺に葬られたのだろう。まあ、光背銘に法興の年号が入っているから、納められたのが「法興寺」という気がしないでもないが。しかし、その法興寺(飛鳥寺)が「蘇我氏の氏寺」と言われていることについては、受け入れ難い話だと彼女は言っている。聖徳太子(実は多利思北孤)が蘇我氏の人だから、彼が埋葬された菩提寺の法興寺は「蘇我氏の氏寺」でなくては辻褄が合わない、というのでそうなったのか。この一連の説明はかなり恣意的な操作が感じられ、最初にボタンを掛け違うと、次から次へと変なことを書かなければならないと言う見本みたいな記事だ。この法興寺は、聖徳太子が建てた四天王寺と共に「蘇我馬子が創建した日本最古の寺」というのが売りの寺だが、色々考えると、どうもそうでは無さそうである。

法興寺(飛鳥寺)を Wikipedia で調べると、隋の文帝楊堅が「三宝興隆の詔」出した591年を法興元年と称した事と関連が指摘されるとあり、法興31年は丁度622年にあたる(多利思北孤の死亡年とは1年ズレているが)。どうもこの法興年号は「隋の年号」みたいである。当時近畿大和朝廷は年号を使用していなかったから、上宮法皇が厩戸皇子でない事は明らかなのだが、それにしても厩戸皇子の死亡年を「隋の年号」で表記するというのは余りにも不都合だ。私は法興寺は、名前の通り年号「法興」に建てられたからその名を取って法興寺と付けたのだろうと思っていた。比叡山延暦寺が延暦年間に建てられたから延暦寺というのと一緒だ。その隋の年号のついた尊い寺を、「1臣下の蘇我氏の氏寺」にするなどというのは「あり得ない」話である。

飛鳥寺が蘇我氏の氏寺という説も「曖昧になってきた」わけだが、飛鳥の巨大遺跡である「石舞台古墳」も蘇我馬子の墓では無いと一条氏は言う。622年に亡くなった「多利思北孤=上宮法皇」が何処に葬られているかを推測して、彼女はそれを「石舞台古墳」だと明言する。石舞台古墳は幾つかの小さい古墳を潰して、その上に新しく建てているそうだ。つまり地元の民と余り関係がない、強大な権力を持つ「外来の人物」の墓という認識である。それが九州王朝の多利思北孤だと言う。まあ証拠はないけど、非常に面白い意見だとは思う。確かに蘇我馬子の墓にしては、余りにも板蓋宮などに近過ぎる。この頃の墓は、本人の住居のすぐ裏庭のような場所に「馬鹿でっかい古墳を作って埋葬した」とでも言うのだろうか。どうも、飛鳥という土地に「大和王朝が栄えていた」とする考えには異論が出て来た。それに、倭国の王である多利思北孤が故郷博多ではなく、「辺境の地」飛鳥に葬られたというのも不審である。

そもそも飛鳥時代というくらいだから、この地域を中心に政治が行われて来たと思いがちだが、まずそこを疑ってみる必要がありそうだ。古代の王宮の多くが、この地域に集中しているのは事実である。だが、甘樫丘の脇を流れる有名な「飛鳥川」を考えると、私が以前旅行して眺めた時は「用水路みたいな微々たる流れ」であった。まるでチョロチョロとした田舎の小川という感じである。少なくとも「もうちょっと大きくないとイメージが合わない」気がした。これが飛鳥川というのでは、余りにもみすぼらしい。果たして飛鳥は、蘇我氏隆盛の地なのか「大いなる疑問」が湧いてくる。葛城山脈を挟んだ河内側の壮大な古市古墳群と比べると、飛鳥の古跡はどうにも小粒である。蘇我氏を含めて、近畿大和朝廷の政治実態はその程度なのかも知れないな、と思い始めた。これでは、中国や朝鮮半島と通交し、三韓の礼などの「華やかな東アジア外交の中心」というイメージも崩れて来る。大体、飛鳥板蓋宮などは発掘跡を見に行くと、「12の通用門を閉じさせ云々」という中大兄皇子の策略も、「ちょっと大袈裟すぎるぜ」と思わざるを得ない。

一方、多利思北孤の後を継いだのは、息子の「歌彌多弗利」である。年号は法興の後「聖徳」に変わった。この聖徳年号を、歌彌多弗利は634年にやめてしまったという。書紀は632年に唐の使者「高表仁」が派遣されてきて、翌年に帰国したと書いているが、「旧唐書」倭国伝には「王子と礼を争い、朝命を宣べず」とある。年号を変えたのは高表仁が帰国した翌年であった。つまり倭国は、多利思北孤の時代に「尊敬する隋の年号を使用」していたが、唐の使者と「息子が大喧嘩」したことから怒ってやめた、というのは大いに理解できる話だ。王子と礼を争ったと記録にあるから、多利思北孤の後を継いだ歌彌多弗利の「息子」ということになる。661年に白村江で唐・新羅連合軍に敗れた倭国の王はもしかしたら、この「息子」だったのかも知れない。唐の使者と喧嘩するぐらいだから、「相当喧嘩っ早い男」だった可能性もある。だから「唐」何するものぞと、気負い込んで戦いを挑んだとも言えるのだが。

何れにしても、634年と言えば乙巳の変の直前だ。唐という世界大国と対等の外交を展開していた「当時の王朝」は、その頃は朝鮮半島の国同士の争いに積極的に割り込んでいた時期であり、自国の大臣「蘇我入鹿」を討伐して政権維持を図ったという「飛鳥地方の政変劇」とは、全く関わりなかったと言えそうだ。だが倭国の動きと、蘇我氏を倒した孝徳天皇及び中大兄皇子の意図と行動とを、ここで確定するのはまだ早い。そこは一旦冷静になって、もう少し調べてから結論を出す必要があると思う。

●多利思北孤や歌彌多弗利の九州王朝は「隋・唐」と交渉を持っていた。それは「後漢光武帝以来の倭国の伝統」である。それと並行して、ヤマト王権では「乙巳の変」が起きて中大兄皇子等が蘇我氏を倒し、孝徳天皇が皇位を奪取した。これらは別々の地域で起こっている「異なる歴史」である。日本書紀が「日本の歴史」と大々的に銘打って、飛鳥地方の出来事・歴史を中心に書いているから、それが「日本史」と思い込んでしまいがちであるが、実はもっと兆大な量の歴史が「九州博多湾岸を根拠地とする倭国」にあったはずである。それを「異端の書」として全部廃棄させ焼き捨てさせて、隠し持っているものは「刑罰を加える」と言う禁書令が出ていたらしいから、相当「意図的」に歴史を改変しようとしていたのは、確かだと思う。だが庶民は、本当に「倭国の存在」を知らなかったんだろうか?

現代のように、情報が「文字や映像」で瞬時に伝えられる時代ではない。文字を読める者も少数であったろう。しかし庶民の間では「出雲や吉備、能登・諏訪・関東と言った国内各国の話」は、噂話程度には話題に上っているに違いない。当然、九州の話も入って来た筈だ。情報は人の動きとともに伝わって来る。飛鳥地方のような盆地と異なり、博多・太宰府から久留米・松浦など、外国貿易を得意とする「交易国家・倭国」の存在は、奈良の矮小な盆地の住民にしてみれば、「羨望の目」を持って眺められていたのではないか。一条氏は、蘇我物部戦争を「物部麁鹿火への、倭国王多利思北孤の復讐」と描き、物部を殲滅した多利思北孤が「そのまま岡本宮に居座り、政権を運営していた」としている。多利思北孤は玄界灘を目前にする博多を捨てて、飛鳥のような「朝鮮半島から遠い地域に引っ込んだ」事になるが、その理由がイマイチ分からない。ここが私にはどうにも納得がいかないのだ。

それに大和の民は、自分達を支配者するのが地元の豪族連合から「九州倭国に変更」になったことを、「あっ、そうなんだ」と簡単に納得したんだろうか。それとも倭国王・多利思北孤は関係してなくて、蘇我・厩戸の文化人連合軍が、強敵武闘集団の物部守屋を倒して「飛鳥地方を二分した争いに終止符を打った」と見るのか。確かに一条氏の言うように、物部氏が「簡単に倒された」とするのは変である。だがこれは、日本書紀の記述を「そのまま現実の戦いの正確な描写」と考えるところに、間違いがあると私は思う。当時の書物は現実より「象徴的な」描写で物事を表すのが常だったのだ。物部守屋が木の股に登って弓を射ている姿というのは、実際には「守屋の孤立」を表しているのではないだろうか。しかし守屋自身は「武闘集団の長」であり、強大な力を持った「恐ろしい敵」である。蘇我馬子と聖徳は守屋のド迫力に「気分的にも劣勢になり」、慌てて仏の加護を祈って、ようやく守屋を討ち取って勝つことが出来た、という話である。これはむしろ、「仏の加護」の霊験あらたかなことを象徴する話と捉えるべきだろう。実際は血みどろの戦闘が行われて、蘇我・厩戸連合軍が辛勝した。

これは言い方を変えれば、大陸からの仏教受容で揉めて蘇我物部戦争まで起こしたなんて事は、「倭国では考えられない」事ではないだろうか。元々、地元の九州博多地方では、仏教は民衆レベルにまで広まっており、正式に仏典や仏像が渡来して「既に、瓦葺きの仏教寺院」が建てられている頃である。そうでなければ倭の五王の上表文に見られるような「漢字文化の自在闊達な使用」など、出来はしない。その仏教文化がようやく「遠く大和地方に伝来した」のが欽明天皇の頃であった、と言う事なのだ。それで地方の神道文化と軋轢が生じて権力闘争とセットになり、蘇我物部戦争になって蘇我氏が勝ったと言うわけである。これを書紀は「日本文化の一大転換点」の如く描いているが、今で言えば「鳥取にスタバが出来た」ぐらいのローカルなニュースに過ぎなかったのだ、と私は思う。

だから多利思北孤は相変わらず九州太宰府に居て、朝鮮半島ひいては隋・唐を睨みながら「強大な倭国の支配を続けていた」と言うのが私の考えである。だからその死亡記事も「書紀制作者には、詳細が伝わらなかった」か、あるいは記録として残らなかったのだ。書紀制作者の手元には、厩戸皇子の死亡記事しかなかった。だが上宮法王という偉大な王者が622年2月22日に亡くなっていると「法隆寺金堂光背銘」に書いてある。これを知ってか知らずか利用して、厩戸皇子の別名が多利思北孤つまり上宮法王という事にしたのではないか。書紀は厩戸皇子が「別名多利思北孤と言う」とは書いてない。そこまで嘘はついてないわけだ。しかし中国の歴史書に「多利思北孤」とある以上、正しい歴史を描くためには、「大和政権にそういう王者がいなければ」ならない。何しろ倭国の存在は「歴史から消さなければならない」からだ。それで多利思北孤という名前は使わずに、色々と細かい事件をつなげて「聖徳太子」に集約するよう、誤魔化しているわけだ。

又は、この多利思北孤という人物が、「大和政権の誰のこと」を言っているのか、真剣に悩んだのかも知れない。私はこの「嘘をつけない書紀制作者」の存在が、何か「日本書紀の意図」を図らずも物語っているようでならない。彼らはきっと悩んでいたに違いないと思っている。「多利思北孤って誰なんだ?」と。

では何でそれ程までに「倭国の存在を消さなければいけないのか」である。古事記が天武天皇の「削偽定実」の命令で書かれた「素直な大和の歴史」だとすれば、倭国が朝鮮半島に進出して高句麗と戦い、「広開土王碑」に刻まれたような戦闘を繰り返していたことや、倭の五王「武」の上表文に見られる流麗な漢文を操って、外交に力を発揮していた歴史は他国のことで、わざわざ書かなくても良いという考えだろう。だから古事記がひたすら大和地域の小歴史を描くことに徹したのも、理解できる。これは天武天皇は、地方出身の豪族で「倭国の歴史を削偽」し、「大和の歴史のみを定実」したとも言える。倭国の存在は勿論知っていたが、他国のこととして「描かなかった」のである。例えば鳥取の歴史を描くのに、山形の歴史は不要だ。だから倭国の朝鮮半島政策などは尚更、知らないとしても不思議ではない。歴史といえば当時も「倭国の歴史」だったことは間違い無いだろう。天武天皇はそれを改めて、「歴史とは、ヤマト王権のこと」にしたかったのでは無いだろうか。これはまだ私の中の仮説である。ヤマト王権とは、天武天皇の打ち建てた新王朝のこと、と考えたい。

倭国が正式に日本国と名前を変えたのは「天武が亡くなり持統・元明・元正・文武が後を継いでから」である。日本は元々、朝鮮半島や中国王朝との交渉実績がない。対外的に名前が知られているのは倭国である。つまり、天武天皇から「持統天皇一派」に政権が移った時に、何らかの目的があって、対外的には「倭国改め日本国」という説明で日本書紀を新たに書いたのである。いや待て、日本が倭国を乗っ取ったのではないか?。どちらが正しいのであろう。ここが日本史つまり「日本書紀の最大の問題点」である。

(続く)

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