明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(28)藤原京の疑問、その2

2023-04-05 22:36:00 | 歴史・旅行
曰く、列島にまだ「統一政権」が出来ていなかった頃、日本各地に部族が群雄割拠していた。そして倭国内乱が勃発して邪馬台国が盟主となり、卑弥呼が女王として三国志で名高い「魏王朝」と通商していたと考えられている。それからしばらくして倭の五王の時代(5世紀)になり朝鮮半島で戦いを繰り広げ、そして蘇我氏から天智・天武の活躍を経て、ようやく古事記・日本書紀の記録が残る「歴史時代」に入ってくるわけだ。この一連の「歴史の流れ」を自分なりに解き明かす事が私のライフワークだと思って、色々と本を読み漁っている毎日である。
 
これまでの私の寄せ集めの知識の示すところでは、列島の中心は「九州大宰府」にある倭国であり、そこから朝鮮半島の任那日本府などに拠点を置いて「半島進出」を図っていた。一方、近畿奈良の飛鳥地方には倭国王族の「傍流・神武天皇」が新天地を求めて東遷し、地場勢力を打倒して倭国の勢力下に置いたとする。要するに江戸時代の幕府に対する「松平氏」のような一族譜代大名支配地だった。まあ、私のうろ覚えの知識と言うのは大概が、「古田武彦先生」の画期的な着眼点に「斎藤忠先生」の精密な考証を加え、ちょっと「大矢野英二先生」で脇道に逸れたりしつつ、ほぼ邪馬台国から倭国へと「九州中心」の歴史を描いて来た、というものである。所詮飛鳥は「倭国配下の一地方勢力」に過ぎなかったのだ。
 
ところがこの岡崎康民氏の本では何と「高句麗王朝」が半島から倭国を駆逐し、そのまま勢いを駆って「日本列島に進出・制覇した」と言うのであるから「超驚き!」ではあーりませんか、皆の衆!
 
とまあ、この問題は先を焦らずにじっくりと読み進めていけば「おいおい分かって来る」として、一応前回の答えを書くと、藤原京は「藤原不比等の一族」の都だった!、である。
 
こう書くとなんか以前に、「一条このみ氏の万葉の虹」で同じようなことを言っていたのを思い出す(もう一度読み直さねば)。なお、岡崎氏は余り深くはこの問題を掘り下げていないように思うが、不比等は「王族」であった、と推論しています。ちなみに鏡王女や額田王など名前に「王」が付いた場合にも、当然「王族」である、と岡崎氏は考えている。確かに記紀に描かれている「~王」というのは皆、何等かの血縁関係が天皇家とある人物ばかりである。だが、この鏡王女や額田王などは王族と言いながら「天皇家との血縁関係」が全くない素性のしれない人物なのだ。では彼女等はいったいどういう人物であろうか?
 
それが万世一系といわれる天皇家「ではない」、他の系統の王族だと岡崎氏は言う。つまり、当時の列島には倭国の王族の他に「朝鮮半島の王族」もいた、と言う訳である。要するに倭国の首都は「国際グローバルな都市」であり、倭国王族の他に百済や高句麗や新羅の王族が「ごっちゃ」になって住んでいたらしい。
 
そう言えば日本の古墳で一番大きいのは大山古墳(仁徳天皇陵)で、次が誉田御廟山古墳(応神天皇陵)となっている。これら河内にある巨大古墳群の副葬品が元々日本の墓には珍しい「馬具などの大陸文化」の色濃い品々であることは、歴史家の間では有名な話なのだ。では5世紀の倭の五王の時代に忽然と現れて巨大な古墳を築いた後、その後しばらくしてフェードアウトして消えていったのは何故なのか?(これは宮内庁が古墳を天皇家の墓だと主張していて、専門の学者による学術調査すら拒んでいるからである。宮内庁は解体せよ!)。詳しい事は分からないが、とにかく「万世一系の天皇家はなかった」と言うの「だけ」は確かであろう。桓武天皇が京都に都を定めるまでは日本もいくつかの部族長が、激越な戦闘の末に「王権を奪取」し合っていたのである。
 
その内の一人が岡崎氏の言うところの「高句麗の広開土王」、つまり「仁徳天皇」と言う訳だ(この話は非常に大きな問題で、この本を最初っからもっと良く読んで見なければいけないな、と感じた)。
 
余談ではあるが新益京の話は、斎藤忠先生の本では「別の説」が展開されていて、それは686年に天武天皇が亡くなった後に皇位を継いだのは、持統ではなくて「息子の高市皇子」だと言う話である。持統は単なる皇太后(それも義理の)というに過ぎなかった。だから懐風藻のエピソードに書かれているように、次の天皇を決める会議で葛野王が「軽皇子(文武天皇)にすべきだ」と熱弁をふるったことに涙を流して喜んだのである。しかし教科書に書いてあるように彼女がその時天皇位にあったのなら、何も会議など開かなくても単に「文武に譲る」で済んだはずではないか?。こういう所を何の理由もなくスルーして「歴史はこうだった」などと平然と大嘘をついているのが、今の日本の歴史学会の現状なのである。
 
が、とにかく賛・珍・済・興・武の倭の五王の時代に日本列島東西何十か国を征服し、さらに海を渡って「何十か国」も版図拡大した偉大な王は「本当は誰」なんだろうか?
 
日本書紀に「殆ど記録が無い」と言うのはそもそも近畿天皇家の歴史になかった他国(つまり倭国だったり朝鮮王朝だったり)の事件である、という日本書紀の謎を解く「カギ」を当てはめれば、この倭の五王はそもそも「日本人ではなかった」可能性も大いにある、とも考えられる。だが武が中国に送った上表文には「海を渡って」とあるから、その海の向こうである「半島」からやって来て日本を制圧したという広開土王が「こんな変な文章」を書くというのも合点がいかないのである。彼が書くとしたら最初に半島を平らげて「それから列島東西何十か国を征服」と書くのが順当。順序が逆である。
 
まあ色々と疑問はあるが、まずはきちんと読むことから始めたい。・・・疑問点はその都度ブログに挙げます。


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