明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

考えるヒント(11)記憶力の維持

2022-11-16 20:21:21 | 今日の話題

1、この前、名前をどうしても思い出せなかった事の考察

ここ数年、テレビに出て来る人の名前が直ぐに思い出せなくなって来た。最近は特にひどくなって、良く知っている筈の俳優の名前が全然出てこないのである。日によってではなく、「いつも」になって来た。すわ、認知症の前触れか?、と心配になる。こないだは、あの「井上陽水」の名前がどうしても出てこなかった。いくら頑張っても、なんとも出てこない。「誰だっけ?」とイライラ考えていたら、こんどは偶然、画面に映っているCМの女優が誰だか分からないのだ。「あー、もう!」である。それでも30分ぐらいは記憶と格闘したが、とうとう諦めて思い出すのを止めてしまった。

ところが一日経って、お昼のコーヒーを淹れている時「突然に」思い出したのだ。何の前振れも無く二人の名前が頭に浮かんだので、何が起きたのか最初は理解できなかった。私がテレビでゴルフやサッカーに興じていたり、夜寝る前に「高田文夫のラジオ」を聞いて眠れなくなったりしていた時も、実は脳は二人の名前を思い出そうとして「必死に検索し続けていた」のかと思うと、我ながら「愛おしい奴!」と自分で自分を褒めてやりたくなる(元々忘れたお前がバカなんじゃないか!)。

とにかく、言葉のうちで「人の名前」くらい情報としての「価値が無い」ものはないと言える。そう、名前は情報ではなくて「情報を束ねる単なる記号」なのだ。名前自体には何の意味もない。試しに「山」のことを「川」と覚えても、何の問題もないわけである。実際は我々は日本語を使い慣れているので問題山積だが、例えばラテン語では「MONS」と書き、ロシア語では「ROPAと書いてゴラ」と読むそうだ。ヒンズー語ではどうかと言うと、・・・まあ止めておくがどっちにしろ「チンプンカンプン」であるのは間違いない。名前は他のすべての事柄と「全く関連が無い」記号である。だから井上陽水が松永広助でも加藤保でも、全然何の問題も無いのだ。彼の見覚えのある風貌や歌声や名曲の数々などは我われにとっては「重要な情報」だが、彼が「何と言う名前か?」ということは、実は「殆ど意味がない情報」である。図書館の例に出せば、目当ての本を見つけるには「作者名か作品名」で検索すればいいが、特定の本ではなく「何について書いてあるか」というカテゴリーで検索することも出来るようになっている。その時、どこに行けばその本が置いてあるかを示す書架番号(例えば5H0381など)が、ここで言う「人名」に当たると思う。芥川龍之介と言う代わりに5H0381と言っても良いわけだ(但し、この番号は図書館で変わるから芥川龍之介と言う方が「便利」である)。芥川の子供は也寸志だが、これも5H0382とすれば良い。これがマイナンバーの考え方である。

ちょっと脇道に逸れたが、要するに図書館で読みたい本が「どこにあるか」知っている人にとっては、次に読むときにはその情報は「完全に頭から消えている」のである。私は井上陽水という名前には何の興味も無い。陽水というのは日の当たる陽炎のようなイメージがあって云々・・・というような感情も、勿論ない。その代わり、「夢の中・心もよう・傘がない」などのメロディや、テレビのブラタモリのテーマ「女神」などを思い出す。他人と会話するのでなければ、これで十分「目的は果たせる」のである。つまり名前というのは、「社会活動で必要」なだけなのだ。

ここで何故「人は名前を忘れるか?」という問いへの答えが分かる。

要するに、加齢と共に出歩いたり人と会話したりする機会がガクンと減り、その結果として、名前を言う必要が「殆どなくなった」のである!。使う機会が無ければ当然「記憶は脳の奥深く」しまい込まれて、思い出すのに時間がかかるわけだ。中にはシナプスが切れて「思い出せなくなる」ものも出て来る。これが、名前が思い出せなくなる原因である。理屈が分かれば「ああそうか」という話だが、では忘れないようにするためにはどうすればいいか?

答えは人海戦術に尽きる。テレビで出て来る「知った人」の名前を、片っ端から全部「口に出して言う」習慣をつけるのである。いかにも「めんどくさい」方法で、しかも意味の無い方法だ。とにかく、顔と名前を一致させるのがこの場合大事になる。人間は「顔」でその人の情報をまとめて記憶するが、「名前」で記憶する訳では無いようだ。だから顔は覚えていても、名前は思い出せないのである。覚えた情報を後でカテゴライズするために「後付け」で名前を記憶して、しかも「別の場所」に記憶している。それを努力と根性で顔と一緒に「無理やり名前」を同時記憶させる作戦だ。これしか無い。どれくらい続けてやれるか分からないが、老いへの抵抗として頑張ってやってみるのも面白いと思う。

あと、口に出すというのも有効である。記憶は行動によって強化されるらしい。

2、埼玉がエスカレーターの乗り方を条例化

全国初の条例が制定された。エスカレータでは立ち止まるようにし、「歩いたり走ったりしてはならない」という条例である。条例はケガなどを考慮して制定したようだが、これは、法律を作ることで「人の考え方をキチンと統一する良い例」だと思う。日常生活では色々な場面で人と意見が合わず、トラブルになることが多くなっている。わざわざ条例にしなくても・・・と言う人がいるようだが、こういう些細な事を法律で規制するというのは「非常に大事なこと」だ。何から何まで、と言うのではなく、ちゃんと目的を持って、無用なトラブルを「即座に解決する」のは我々の生活の質を向上させるのに非常に有効である。

私が考える条例の補足

① 推奨される姿勢=十分空いている時は「右でも左でも」好きな方に乗って、ベルト部分を手で押さえて「転落しないように」安全を図る(万一を考えて、だ)。これは「立ち止まること」と条例が制定しているので、当然のことである。

② いつ2列になるのか?=乗るのにちょっと待たなければいけない時など(前に人がいて、スッと乗れない場合)は、後ろに人がいなければ、一瞬待って1列になるのは構わないとは思う。逆に、空いているのわざわざ隣に乗るのは、問題があるだろう。「電車の座席」などと同じである。しかしエレベーターに乗る時は知らない人でも一緒の箱に乗り込んでいる。これとエスカレータと何が違うのかと言うと、一歩下がれば回避できるかどうか?という事だろう。何事も臨機応変に行動したい。要は、道を歩く時と同じルールである。但し、エスカレータに乗る時パッと乗る人と慎重に乗る人の差で段が一緒になる場合は、前に上がるか一段下がるかは「選択の自由」としておきたい。大事なことは「歩く速度を出来るだけ止めない」乗り方が正しい乗り方である。普通に歩いていてエスカレーターに乗る場合は、立ち止まって後ろの人の歩きを止めるのではなく、躊躇せず2列に乗ってそのまま最後まで上がるのが正しい(と私は解釈した)。

③ 列を作る場合=徐々に混んで来て、乗ろうとする人が列を作る状況では、「二列になって」待たなければならない。これが今回私が提案する「条例の追加改正案」である。2列に並んで待っていれば当然、乗る時にも「2列のまま」進むことになる。これが今回の条例の目的である。要は「流れを止めないこと」だ。これがスムーズに出来るまでは、相当練習期間が必要だろう。

④ 知らない他人と一緒になりたくない人はどうするか?=道路では反対方向からも通行可能であるが、エスカレータでは一方通行なので片側を空ける必要は全くない。ただ、隣に知らない人が並ぶという嫌悪感をどうするか、だ。これはエスカレータの幅を十分取ることで(隣の人との間に20cmくらい間隔が空いていれば)、問題はないだろうと思う。もし本当に嫌であれば、乗る時「ちょっと足元を確認するようにして」一段ずらして乗ればいい(その場合、後ろから人が乗ってきて、その人と一緒になるが)。

以上である。

さて、埼玉のエスカレータ条例は「立ち止まる」が絶対原則だが、全員が慣れるまで相当「トラブル」が発生すると思われる。トラブルの原因はただ一つ、急いでいる人が「どけっ」と文句を言うパターンである。これは条例が衆知されるまで、結構起きるトラブルだと思う。中には言い合いになる人もいるだろう。しかし「条例が出来たこと」で、すべて決着済みである。「違反ですよ」で片が付く。それで収まらなければ警察を呼べばいい。問題は、すぐ警察が来るかどうかである。これは皆が慣れるまでの間、県が「予算」をつけて主要な場所のエレベーターに「条例遵守監視員」を置くことで解決するだろう。2、3年もすれば全国でも条例化するようになり、いずれ「当たり前」になると私は考える。要するに「慣れ」である。

急ぐ人は「階段」を駆け上がろう。

だが、中には急いでいて人と接触しないのなら「走っても構わない」じゃないか、という意見もあると思う。勿論、階段よりエレベーターを駆け上がった方が「速い」のは確かだ。しかしエレベーターは走って乗るようには設計されていないそうである。もし体重が100kgの人がポンポンと駆け上がったとすると、エレベーターにかかる荷重は「何百kg」にもなるという(ホントかな?)。駆け上がった場合にエレベーターがどうなるか、不測の事態が起きるやも知れない。その場合、起きたことの「全責任」を個人で負えるだろうか?

例えばエレベーターが揺れて老人がバランスを崩し、落下して運悪く死亡した場合など。これは何千万円かの損害賠償が科せられても不思議はない。それでもあなたは駆け上がりますか?、っちゅう話である。

多分、駆け上がるだろう(やっぱり)。

いくら損得を説明しても、やる人はやる。毎日のように起きる交通事故がそのよい例である。だが、法律で何が正しいか決まっているというのはこういう「無茶をする人が必ずいる」としても、我々平和を愛する者の意見を後押ししてくれる「正義は我にあり」である。暴力に対抗するには「法律で武装すること」が弱者には必要なのだ。法治国家に身を置くことが如何に大事なことか、トラブルになった時に思い知るのである。私は横断歩道の歩き方からコンビニで大騒ぎする客に至るまで、何から何まで「皆なが守らないとトラブルになる」すべての行動に、条例で白黒ハッキリつけるのが正しいやり方だと考えている。電車でタバコを吸っているので注意したらボコボコにされた高校生の話も、基本「車内カメラで監視」していれば、誰もケガせず逮捕出来たと思う。監視社会も「悪人を排除する」のであれば、大賛成である。それを政治利用させないことが、我々の智慧であろう。

とにかく、事故に巻き込まれないようにするのが一番ですね。

追加:2列にする簡単な方法

エスカレータの下から上まで「真ん中に一本のロープ」を渡して、はっきりと「通路2列」を作るのである。これなら費用はほとんどかからないで「効果抜群」の方法と言える。エスカレータに乗る人は、最初っから右か左を選択するのだ。勿論、左側だけ並ぶことも可能である(関西では右らしい)。しかし片側がスッカラカンでもう片方は列を作っている状況が続けば、当然「両側に乗るようになってくる」のは人情である。そして一旦乗ってしまえば、「どけ」と言う人は中々「いない」であろう。これが一番簡単で効果的な「2列ロープ分け」の秘策である。埼玉県の役人に誰か教えてくれないかなぁ・・・


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