明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私説「天武天皇の謎 日本国は倭国の別種なり」1巻・・・その2

2017-11-30 21:10:00 | 歴史・旅行
前回のまとめとして、天武天皇が高向王と宝皇女との間の息子「漢皇子」だというのは一応信じることにしよう。それで結果的に全ての問題が解決すれば、長い間の謎の一つが解ける。それでは例によってランダムに新発見の事実を書いて行こう。

1 中臣鎌足はもともと倭国の祭祀を司る部族だが、支配者である「君」や重要な役を受け持つ「臣」よりも下の「品部」の中の一つである「連」であった。学校では「臣・連」と並列に扱っているが、実際は「県知事クラスの臣」と「町長」ぐらいに違うレベルだったようである。何度か倭国から奈良地方へ移住してきた集団の中でも天皇家に仕える部族で、本貫は「大分の宇佐地方」だという。九州倭国は「天族」の領域を「熊襲族」が侵蝕して発展したと考えられるが、神功皇后の時代に「応神天皇」と共に奈良にやってきた集団が天皇家の基本となっており、中臣鎌足も「天族」である可能性が高い。但しこれはまだ確認ができていないので、私の想像に過ぎない。継体大王が大伴麁鹿火に命じて起こした筑紫の君磐井の乱で逆に成敗されて全滅し、欽明天皇と蘇我氏の支配が始まって以来「蘇我氏全盛」の時代に突入した。中臣鎌足は中国の六韜や五経を精緻に勉強し、王侯の理想像を中央集権体制に求める理論を信奉していたとされる。僧旻の学堂には「蘇我入鹿」も学んでいたが、実はここで「漢皇子こと大海人皇子」と出会ったという。これは全く新しい見方である。意気投合した相手は中大兄皇子ではなく、漢皇子だとする証拠はないし日本書紀にも書いてないことなので俄かには信じがたいが「大筋には余り関係がない」ので、とりあえず信じることにしよう。とにかく中臣鎌足が中央集権国家への思いを誰かと分かち合ったという事実を確認すれば良い。それが中大兄皇子か漢皇子かは、おいおい分かって来ると思う。

2 中大兄皇子は舒明天皇の葬儀に際して16歳で殯の「しのびごと」を言ったと記されている。この時皇位継承権は二人いた。古人大兄皇子と山背大兄皇子である。二人が争う事態を避けるために一時的に皇極天皇が即位したが、どうやら山背大兄皇子の老齢化を待って、自然に蘇我氏の押す古人大兄皇子に委譲するという段取りだったのであろう。天皇家の直属の大伴大連と物部大連は衰退して蘇我氏独裁政権は頂点に達し、皇極天皇の力はバックアップする豪族も少なくどうすることもできない、これが大化の改新直前の状況である。そして蘇我入鹿が山背大兄皇子を殺害する。蘇我蝦夷と山背大兄皇子と古人大兄皇子は蘇我系の兄弟同士である。大化の改新で蘇我蝦夷と入鹿は殺され、古人大兄皇子も謀反の疑いをかけられて殺されて蘇我本宗家は滅亡する。山田正己はこれらの事件を裏で糸を引いていたのが「漢皇子」だというのである。もちろん文献には一切現れていない。色々伏線はあるが、山背大兄皇子を皇極天皇への謀反の罪と言う名目で殺害する時に「高向臣国押は命令に従わない行動に出た」。これは入鹿に実行役をさせようする漢皇子側の策略であるが、入鹿は古人大兄皇子の諌めにより思い止まった。山背大兄皇子が殺されたことによって、皇位継承権者は古人大兄皇子に絞られたのである。だが山背大兄皇子を滅ぼしたのは、実際は「飛鳥の豪族の総意」だったようである。

3 中臣鎌足は最初に皇極天皇の弟の軽皇子に近づいて味方に引き入れ、それから中大兄皇子を法興寺の木の下で仲間に入ることを承諾させたのである。漢皇子はあくまで脇役に徹する考えだと山田正己は捉えているようだ。この辺りは一般の説明とも大筋に於いて一致してようであるが、果たして未だ19歳の中大兄にこのような大事件を起こすだけの謀議を巡らす力があっただろうか。疑問に思うし、実際の首謀者が現場で殺害の一番手であるというのは余りにお粗末では無いだろうか。中大兄は中臣鎌足にそそのかされて実行者に使われた「駒」だと考えたい。このとき一緒に実行者に加わった佐伯連子麻呂と葛城稚犬飼連網田は北九州豊国の海部郡を発祥の地とし天族に仕える伴部である。日本書紀によれば、首尾よく入鹿を斬った後自宅に立てこもる蘇我蝦夷の軍団「高向臣国押と東漢直氏達」を説得して、武装解除させたのが「蘇我氏と同族の巨勢臣徳太」だとしている。この巨勢臣というのは九州倭国の太宰府朝廷で「少徳」という高い地位にある偉い人で、中臣鎌足が命令できるような人ではないというのが山田正己の疑問である。もともと古人大兄皇子を押す蘇我氏を倒そうというのだから、蘇我氏よりも力がなくてはならない。蘇我氏の力は東漢直を中心とする軍団である。その東漢直を牛耳っていたのが「その東漢直氏に養われていた漢皇子」だというのが山田正己説である。その東漢直氏が反旗を翻してクーデターを起こしたのだから、蘇我蝦夷も古人大兄皇子も絶望して、戦わずして自ら火を放った、これが真相であるという。なかなか説得力のある理屈ではないか。

4 書紀が記す蘇我氏は突如として歴史舞台に登場し天皇家の外戚となり、それまでの大伴・物部といった直属部隊を無力化し、葛城・阿部・巨勢・平群・紀などの臣姓の大豪族をも従属させている。その力は一体何処から来たのか?これが山田正己の理論のポイントであり、蘇我氏は実は筑紫太宰府朝廷(倭国)の軍部=評督であった、というのが彼の解答である。つまり「倭王武」が中国の宋に送った国書で書いているように、倭国は既に全国制覇を成し遂げており、東山道毛野国吾妻国・山陰道出雲国隠岐国・山陽道吉備国播磨国・北陸道若狭国越国・丹波道但馬国山背国と東海道河内国大和国尾張国相模国常陸国など「東方の八道」と呼んでいたらしい。そして九州は「倭国直轄の畿内」であるとする。畿内という単語は「近畿地方」を指す言葉と思っていたが、もとは九州のようだ。筑紫・肥・豊・日向・曾の五つを五畿と称して倭国太宰府朝廷を中心とする中央集権体制が出来上がっていた。「倭の五王」が宋に叙爵を求めた「23人の部下」に蘇我氏などの臣姓大豪族が入っているという。だから蘇我馬子なども倭国の高官だったのである。天皇家は大倭国(奈良の大和國)の筆頭豪族であり、言わば地元の有力豪族の一人である。倭国の支配を実行する担当官僚が「蘇我氏」であるという。これが山田正己の言う「書紀の真実」である。

5 大化の改新で蘇我蝦夷が自害した時、火の中から大分君恵尺が持ち出したとされる「天皇記・国記」がある。本来は支配者が所有すべき物だが、蘇我氏が持っていた。これは取りも直さず蘇我氏が「支配者である証拠」である。

6 山背大兄王が自害したのは「謀反の疑いをかけられた」という説明を山田正己はしている。攻め込んだ側は「飛鳥の豪族の総意」で、山背大兄王には味方がいない。しかも入鹿はこの事件には参加していないという。書紀はこの前後に「奇妙な歌」を多数載せていて、その後の蘇我氏の運命を暗示するといわれているが「事実を書き記す歴史書としては変」である。実際は古人大兄皇子が順当に皇位を継ぐはずのところ、山背大兄王が不満を露にしたことで豪族達の反感を買ったのでは無いだろうか。蘇我氏の独裁政治が頂点に達した時、軽皇子=孝徳天皇のクーデターが起きて政権が移った。蘇我氏を支えていた東漢直が孝徳側についたからである。この裏で糸を引いていたのが中臣鎌足と漢皇子である。もちろん裏だから歴史の上では記録がない。なかなか壮大な歴史観と言えないだろうか。私はこういう夢のある考えが好きだ。

結局、近畿天皇家は古事記が筆を置いた推古天皇で一度終わっているのではないか。その後は舒明天皇の死後に宝皇女・孝徳天皇・斉明女帝と続く。これは飛鳥地方の天皇家からすれば「河内の別系統に政権が移ってしまった」のである。山田正己の説から私が考えるのは、「では舒明の息子の中大兄皇子は何を考えていたのか」である。これの答が何処かに在る筈である。蘇我氏の支配を打ち破り、緩やかな集団体制の九州倭国から「全国統一の中央集権国家を目指す日本国」へと突き進む「漢皇子こと大海人と中臣鎌足の思惑」とどう絡んでくるのか、これがテーマである。天武王朝が孝謙(称徳)で断絶した後、光仁の後を継いで息子の山部親王が桓武天皇になると「封禅と郊祀」を行っている。これは王朝の確立を祝う儀礼であり、中大兄の系統なのか母の高野新笠の系統なのか、何れにしても百済系である桓武の考えは何なのか。中大兄も百済系を重用したが、天武は新魏系だった。この辺に謎を解くカギがありそうである。

次回は継体天皇の謎を掘り下げる

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