〇 奈良の魅力
京都ついては相当持ち上げて気合を入れて書いてしまったが、奈良には奈良の魅力が当然ながら沢山ある。確かに奈良はどちらかと言うと(これはあくまで想像に過ぎないが)、都が平城京から京都に遷都して、以来1200年も冷や飯を食わされ続けた結果、古都「奈良」はすっかり田舎へと衰退して、例えて言うならば伊勢と大坂と京都に挟まれた「ただの通過点」みたいな場所になっていたようである(勿論、商売の方では集積地として活性化していたとは思うが・・・)。
そんな都市としての地位はすっかり低下してしまった奈良だが、とにかく奈良の魅力は、今でも昔のまま手付かずに残っているかに見える「風景」と、それに重なる古の懐かしいエピソードや「歴史の微かな思い出」が古事記や日本書紀などから僅かに窺い知る事が出来る、という事に尽きる。つまり社会に出て都会に移り住んだ後、両親も亡くなってとんとご無沙汰になっていた実家に30年振りで帰った時に、遠くの山並に落ちる夕日を見てふと子供の頃の記憶が蘇ってきて何故か懐かしさに心がじんわり暖かくなった・・・という感覚だろうか。
そう、奈良は心の故郷なんである(それは古代の出来事を書いた記録が、各地の風土記などを含めて、奈良以外ではそれ程多くは見つかってないからだろう。記録がなければ記憶も無いし、それで形作られる故郷感も出ない訳だ)。
奈良の原風景というのは個人的には思い出すことは何も無いが(住んでないんだから当然と言えば当然)、古事記や日本書紀などで書かれているエピソードを読んでいると僅かではあるが、その場面・場面が風景と重なり合って、何か飛鳥時代の想い出めいたぼんやりした感覚が頭に浮かんで来る。例えば明日香村北辺の細い山道を歩いていれば、もしかしてこの道は「若き日の中臣鎌足」が歩いて宮廷に出仕した〇〇道ではないか?・・・云々という具合である(あくまで例えばという意味で書いた。要するに私の妄想)。
原理原則を言うと京都と比べて奈良が一層懐かしく感じられる理由は、今現在奈良に住んでいる人が当時の宮廷の威風堂々たる華やかさを今に伝えるべく「連綿と続いて来た遥かな末裔」というのでは「全然なく」、昔ご先祖が活躍した頃の歴史とは「何の関係も無い」だいぶ後から住みついた「赤の他人」という事だ(結構な言い方で炎上しそう・・・)。
そういう意味では、歴史を訪ねて歩き回ると考えた時、より自然のままに風景が残されているのは京都では無く、むしろ「奈良」なんじゃないか?と私には思えてくるのである。例えばヴェスヴィオ火山大爆発で埋もれたポンペイの町のように、奈良は桓武天皇が都を京都に移した時から「時間が止まったまま」なのだ。その為に今住んでいる現地の人々も観光客も、歴史ということに関しては「同じ立場」で向き合っている、と言える。
だから奈良では尋ねるべき歴史そのものが、現在「遠い記憶の彼方」に消えつつある最中なのだというのが私の印象だ。。まるで何億光年もの宇宙の涯にある星々が僅かに発する小さな光の痕跡を探して望遠鏡を覗き込む老学者のように、こちらからわざわざ探しに行かなくては我々の前から永遠に失われてしまうのである(ちょっとオーバーかも)。そこが、気が向いた日曜日にちょっと行けばいつでも「歴史が完璧に保存され」目の前にある博物館・京都との、奈良の「一番大きな違い」である。人間はどちらかと言うと簡単に手に入らないものの方を追い掛ける性質があるようだ(私の天邪鬼の性質)。
そのへんを踏まえた上で、今度も京都の時と同じように、奈良に引っ越したら訪ねてみたい場所をいくつか挙げてみることにする。但し、より内容は漠然ととしたものになるのはやむを得ないかな、と思う。
1、思索を楽しむ
日常的に生活の拠点としてそこから歴史を探訪しようと思えば、やはり思いつくのは「明日香(飛鳥)」であろう。これは私のブログのアカウント名にも採用しているので、言わば私の「心の故郷」とも言うべき場所である。じゃあ明日香に行って何を見るのか?と聞く人が必ずいるが、先ず「奈良に住む」というのは、そういう「単純な話」では無い、と言いたい(随分と偉そうだねぇ)。
奈良は京都と違って、どこそこへ行ったとか何々を見たとかいう「観光名所コレクター」の好むような場所では、そもそも無いのだ。奈良は第一に「雰囲気」を楽しむ場所である。
大さっぱに言えば奈良県自体はその大半を山地が占めており、多少開けている奈良市から橿原市へ南北に伸びた「都市部」が目指す移住先となる。そう大して広くは無いのだ。そもそも人口が京都は奈良の5倍もある。観光客も断然京都の方が多いから、京都と奈良を比較したら「原宿と立川」って感じだろうか(言い過ぎ!)。地元じゃそれなりに栄えているような気になっているが所詮は田舎、京都に比べると「華やかさが全然違う」と思う。しかし私は華やかさを求めて移住する訳では無い(私はいままで東京に60年間も住んでいたから分かるが、華やかなうわべとは裏腹に東京の内実は淋しいものである)。私が求めるのは「歴史に包まれた」故郷の静かな暮らしである。極端に言えば自宅で読書していて、のどが渇いてふと冷蔵庫にビールを取りに行ったら「あれ?ビールが切れている!?」と思ってコンビニに買いにいく、そのコンビニの名前が「ファミリーマート橿原神宮前駅西口店」とかだったりすると、非常に私の気分が上がるのである。つまり「今私は奈良にいる!」という実感が湧いて来るのだ。まあ、特殊な感情ではあるが、その感覚が好きなのである。
流石に古代の歴史のど真ん中「飛鳥」の地には、コンビニというような便利なものは無い。が、まあいいじゃないか、住むのは橿原神宮前駅近辺のアパートで十分満足である。そして気の向くまま足の向くままに自転車に飛び乗り、飛鳥の古代の空気に触れながら「県道155から川原寺を通って石舞台で15号沿いに北上し、奥山で今度は124号を左に折れて、ぐるっと飛鳥を一周して帰る」なんていうサイクリングもオツではないかと思う。なお、コンビニはセブンイレブン明日香川原店とかローソン明日香奥山店とか、まったく無い訳じゃないので行った時には必ず立ち寄るようにしたい(まだ先の話だろう!)。
それより私が必要としているのは「喫茶店」である。明日香と言う類まれな歴史保存地区に移住して、ボンヤリ奈良で繰り広げられていた古代の日々を思い描いて見ると、自ずと落ち着く先は自宅の六畳間ではなく「喫茶店」なのである。遠い過去を旅人よろしく探訪した時には、どうしても日常空間ではなく「異空間」が欲しい。だから喫茶店なのだ。だがコンビニはアパートの近くにあれば用は足りるが、喫茶店はそうは行かない。歴史の痕跡を訪ねてそこかしこを歩き回ったあと「ちょっと一休み」するためには、控えめに自然の中にポツンと立っている「小さな喫茶店」が必須なのである。中身は何でもいい。以前奈良に遊んだ時に9条で入った喫茶店はだだっ広い駐車場の脇にあって客は私一人、よれたソファに週刊誌が乱雑に置いてある昭和レトロの喫茶店だったが、今にも「潰れそうな店」というのが私の好みなので「ピッタリ」だった。逆に若いギャルが好みそうな今風の「スイーツ満載のしゃれた店」は客も当然多く入っていて、キャピキャピした話し声が耳に触って「ぼんやり歴史」に考えを巡らすことは超難しい。まあ、こういう喫茶店は多分「奈良」には少ないだろう(そう願いたいものだ)。
まあそういうわけで奈良でアパートを借りたらすぐに近所をぐるっと歩き回って、店主と娘でやっているようなこじんまりした「小さな喫茶店」を探してみたい。本来の歴史探訪とは意味合いが違ってくるけど、実は一番大事な「考える部分」をサポートしてくれる強力な助っ人が、この「喫茶店」なのだ。居心地が良くアットホームでリーズナブルな店に入り、窓が大きく外の景色がよく見えるテーブルに座って歴史の最新研究本を広げながら、「次はどこに行こうか?」とあれこれ考える時間が私は好きである。まあこれは京都に移住しても同じだとは思うが、移住の「最大の目的」なのは確かだ。そして京都の無くて奈良にあるものと言えば、そこに住んでいる人間の「心」であろうか。
京都は名所旧跡が博物館の展示部屋のように綺麗かつ便利に整備されていて、見に行く人は歴史を楽しんだ後、また我に返って「それぞれの住空間」に戻って行く。何もかも「観光客に向けて作られた歴史」なのだ。それに比べて奈良の場合は自然のままに、悪く言えば「放ったらかし」になってそこかしこに静かに眠っているのである。勿論、当時のままでは無い。だが見る者が想像力を巡らせば、元の姿を朧げにでも感じ取ることが可能なのだ。その「何かを感じ取る」という作業が、歴史とくに古代史では大事なのでは?と思おう今日この頃である。だから、奈良の本当の魅力は「私の頭の中にある」とも言えそうだ。
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