1、韓国との新しい関係を作る方法
年が上になる程日本に対して拒否感が強い韓国。日本はまだそれ程でもないが、韓国の「日本憎し」は相当根深いようである。慰安婦問題や徴用工問題とかで、国を挙げて日本人の「歴史認識の誤り」を糺すと息巻いているのが癪に障るが、正直こういう問題は「興味ない」んだよね。竹島とか尖閣とかも「どうでもいい」って感じだし、いつまでも過去に囚われてる事自体、余りお利口じゃない気がする。
こないだNHKで、爆笑問題の二人が移動式モニタを使って韓国を突撃取材する番組があったが、殆ど中身のない取材に終わっていた。要するに韓国人に取っても「大して問題意識は無さそう」という印象である。そこで、これからは過去を捨てて問題そのものを封印し、その上で新しく関係を作って「韓国と仲良く」やって行こう、という若者に「外交を任せる」のが一番いいのではないか、というアイディアだ。韓国トモダチ作戦とでも言おうか。経済的にも文化的にも、その方がお互いメリットは断然多いはずである。そして、それ以外の対立姿勢を堅持する人々は、一切「口を出さない」ように法律で制限するという方法だ。
お互いプラス思考の外交団同士で、一つ一つ問題解決していけば良いと思う。元々が過去の話を巡って対立しているわけで、「その過去自体を知らない年代」の者同士なら上手く行く筈なのだ。具体的には30代以下の若者たちに「外交問題を全権移譲」して、韓国と日本の関係を一から新しく構築させるのだ。そうすれば、20年もすると「殆どの日本人・韓国人」が、歴史問題を知らないようになる。要は双方にあった対立を(韓国人にしてみれば一方的に日本が侵略した訳だが)、次世代に伝えていく再教育自体を「やめれば良い」のだ。歴史問題を蒸し返して憎しみを煽っている政治家や団体は、何れ大多数の国民から飽きられて「しつこい」人と言われて目を背けられるに違いない。
私が思うに、「忘れること」も大事ではないか。というか、経験もしていないことをわざわざ掘り返して相手を責めて、何になるの?である。それを自分達と関係ない昔の事、とするのが本当の「歴史認識」であろう。
2、ワイドショーの限界
「ひるおび」で持続化給付金詐欺事件に対して、出演者の女性が「マイナンバーで給付していたら」こういう事件は起こらなかったと「画期的な発言」をしていた。私は「おおっ!」と身を乗り出して画面を注視したが、MCの恵俊彰は、何事もなくスルーしてしまったのである。これだからワイドショーは見てもつまらないのだ。残念である。たまには事件を深堀して、日本社会における根源的な問題に鋭く切り込むような議論を展開するとか、出来ないもんだろうか。それほど大げさではなくとも、もし確定申告がマイナンバーカードで自動的に出来上がると「何故給付金の詐欺が防げるか」とか、選挙権を持っている視聴者に「考える話題を提供する」ことなど、ちょっと工夫すればできそうである。要はやる気がないのだ。しかし世の中の人がワイドショーにそれだけの問題意識を求めていないとすれば、若者のテレビ離れも進むわけである。
テレビは団塊の世代と共に消えゆくのみ・・・なのかも。
3、政府が国民に節電を求める?
化石燃料を輸入に頼っている日本は、発電するのに「大変な費用」が掛かっている。勿論、水力発電はコストゼロなのだが、建設費用が莫大である上に送電設備が大変だ。こういう問題は前々から散々言われていたにもかかわらず、また今年の夏の電力逼迫がニュースになっていて、「またかよ!」と呆れ返ってしまった。政治の怠慢である。原子力は福島で懲りたから論外として(未だにデブリを取り出せなくて、しかも捨て場所すら見つからないような原子力など、どうやって使おうっていうんだ?。次の福島が起きたら、日本は終わりだ!)、今回のような節電対象の個人宅には「太陽光発電」が一番適しているのである。
例えばマンションなどの集合住宅は共用のを1個作り、一戸建ての家には4、5軒ごとに一つ作って電気を供給するなどして、10年もすれば大都市圏の個人宅の電気ぐらいは「充分まかなえる」と思うが如何に?。これに関しては、政府が国民に意見を求めればすぐにでも解決する問題だと思うのだが、反対する国会議員がいるからどうしようもない。誰が反対するのかって?、補助金目当ての「原発推進の連中」である。原発はもう補助金をやめて、単純に発電事業者として競争させればいいのに、ねぇ。こういう金儲けに汲々とする「亡国論者の議員」に限って、節電節電ってうるさく言ってくるんだよな、マジうざい!
4、神経内科の新任先生
こないだ担当の女医先生が異動になるというので心底ガッカリしていたが、今度新しく担当になった先生というのが「又しても女医」さんだったのでチョー嬉しかった、という話。今度も若くて明るい20才台の女医さんだが、患者の「どうでもいい話」を丁寧に聞いてくれるので、「すっかり信頼して」しまった。男の先生というのは総じて事務的で、患者の「どこが痛いとか、ここが痛い」とか言う訴えをロクに聞きもせず、「あー、それは仕方ないですねー」などと平気な顔で突き放してくるから、イマイチ信用できないのである。
こないだ泌尿器科の先生に「夜、トイレで起きるのが嫌で水を飲まないようにしてるんですが、今度は熱中症が怖いんです」と悩みを相談したら、こちらを振り向きもしないでコンピュータの画面に何やら文字を打ち込みながら「そんなもんですよ、ははは」と相手にもしてくれなかった。「なんだこいつ、いっぺん殴ったろか?」と思わず拳を握りかけたが、怒りの感情などお首にも出さず、腹立つのを押さえながら「ありがたく処方箋を貰って」帰るしか無かった自分が、情けなくて情けなくて・・・。
流石に女医さんは優しく接してくれて、自分が守られてるという「安心感」がひしひしと伝わって来る。診察は薬を貰うためというのがメインだが、自分の健康を「親身になって心配してくれる人」がその中に一人でもいるかと思うと、「生きてて良かった」としみじみ思う瞬間である。
やっぱ女医さんって、最高!
5、「いただきます!」という習慣
今では食事の前に「いただきます」と言ってる人はなかなか見かけなくなったが、全然ないかと言うと実はまだまだ世間じゃやってるみたいである。都会の若者でも昼食を「団体で飲食する場合」などには、乾杯がわりの発声として、この掛け声をキッカケにして食事を始めるのが通例になっていたりする。この言葉はもう習慣で見慣れた風景になっているから、誰も気にもしないで食べ始めるのが当然と思っているようだ。でも「何で?」と真正面から質問すると、子供の頃を思い出して「作ってくれたお百姓さんに感謝して言ってるんだよ」と物知り顔に知識をひけらかす人がいたりする。そうかなぁ〜。
しかしこの解釈は、正しいとは言えない。第一に、当のお米農家では「いただきます」は言ってないかというと、実は一番言ってたりするのだ。では、人間は他の生物の「生命を食べて」生きているという事実を直視して、牛さんや豚さんやマグロさんに「ごめんね」という気持ちを込めて、感謝の言葉を言っているのかというと、それは無いだろうと思う(もし本当なら恐ろしい自己欺瞞であろう)。あるいは自然界の食物連鎖の中で、こうして「生きていること」を神に感謝する意味かと言われたら、キリスト教徒は「いただきます」なんて言わないから、これも違うだろう。いったい何のために「いただきます」と言っているのか。
しばらく考えたが私には「明確な意図」が分からなかった。そもそも食事を前にして「誰かに食べさせてもらっている」という感謝の気持ちは、自分には毛頭感じられないのである。第一に私が毎日食事が出来るのは、国が老齢年金制度でお金を振り込んでいるからで、その元はと言えば「私が働いて税金を払ったから」である。つまり年金は「私のお金」なのだ。じゃあ、自分の金で食材を買って食べているのに、誰か他の人に感謝などするいわれは無いのでは・・・。
ここまで考えて結論が出た。これからは「さあ、美味い料理を食べるぞ!」と言って、毎日の食事を始めることにしよう!。
はてさて私が毎日、美味い料理とわざわざ「言挙げ」するほどに美味いものを食べているかと言うと、随分と惰性で食べていることに気が付いた。これはいかん。この年になったら、一食一食を大切に「後生大事」に噛み締めて食べるに限るのではないか?。こう考えると、今夜の食事も「おろそか」に出来ないねぇ。
さて何にするか、しばらく考えていたが、美味いものと言えば「お酒の後のアイスクリーム」ぐらいしか思いつかなかった。なんとも貧しい食生活である。悲しいーっ!
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